
大阪市内「綿業会館」で(2026年8月6日)
【インタビュー】人文地理学者 湯澤規子 その2/4
大阪府生まれで、“大阪の胃袋” 育ちを自負する法政大学人間環境学部教授の湯澤規子さん。小学生の頃から自称「料理オタク」だったそうですが、高校卒業後は筑波大学で地理学を学び、博士論文が学会賞を受賞。それが最初の著作『在来産業と家族の地域史—ライフヒストリーからみた小規模家族経営と結城紬生産』(古今書院)に。そこが原点となり、『胃袋の近代—食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)へとつながりました。一膳飯屋、残飯屋、共同炊事など、都市の雑踏や工場の喧騒の中で始まった外食の営み……学術書なのに物語みたいに読める本です。工場や農村での調査から描かれた日常の歴史は、日本近代史を書き換えた、ともいわれます。この本はどのようにして生まれ、書かれていったのでしょう。(塚村真美)
織物工場の献立表に出会って目覚めた “食”への思い
——湯澤さんといえば、数々の著作をみると、すっかり“胃袋”の人というイメージです。胃袋がテーマのご著書『胃袋の近代—食と人びとの日常史』(2018年、名古屋大学出版会)について、お話を伺いたいと思います。

湯澤規子さんの代表的な著作本。研究は、織物から胃袋へと移行していった。(写真提供:湯澤規子)
湯澤規子さん(以下、湯澤) 『胃袋の近代』を書くきっかけは、愛知県の尾西織物の地域に産業と社会に関する調査に行ったことです。経済学や経済史、経営学の研究者と一緒にチームを組んで行ったんですが、それは、織物はもはや衰退産業で織物研究者がいないというので、人手不足だから連れていかれたんです。
——あとがきによると、その調査は「近現代日本における都市・農村複合型産業化と生活環境に関する総合的研究」というタイトルですね、2011年から2014年の研究で、先生は筑波大学の准教授の頃。難しそうなテーマですね。
湯澤 経済史の研究ですから、みなさんやっぱり工場のお金の出入り、たとえば出納帳とか賃金台帳とか出荷帳をご覧になるんです。もちろん、そちらがメインボディなんですけど、工場の持ち主に「面白い資料があるから、湯澤さん、こっちを見たら」と言われて、そこで『工場飲食物献立表』というものを見せてもらいました。

織物工場の経営文書(撮影:湯澤規子)
ほかの研究者は、献立表なんて誰も全然面白いと思わず、見向きもしなかったけど、「持ち主が面白いって言うんだから、面白いはず」と思って、またそこで私は逸脱しちゃったんです。みんなは文書を見に行っているのに、私はそのおじさんと一緒にしゃべってたりして、「あっ、そうか。労働者にはみんな胃袋があるから、食べるために賄(まかな)いを作っていたんですね」という話になって、「あ、こっちのほうが面白いから、こっちをやろう」となりました。
——学生の頃に出会われた結城紬の機屋のおじさんは、学術研究の手法とか制度に憤っておられたよう(前回のインタビュー参照)ですが、尾西の工場のおじさんはどうでしたか?
湯澤 憤ってはおられなかったです。でも、研究者が誰も見ないし興味も持たない資料がまだあって、それを見せてくれたというのは、それまでの調査にアンチテーゼみたいなものは抱いておられたのかもしれません。それで、献立表を見ながら、おじさんと話していくうちに、 “胃袋”というキーワードに出会ってしまった。
——強いワードですよね。まず、人手が足りないからと織物関係の調査に呼ばれて行って、そこで献立表に出会ってから、“胃袋”をテーマにしようという順番ですか?
湯澤 そうですね。でも、本当の原点としては、子どもの頃から台所が一番好きなんですよ。料理っていうか何か食べる物を作るのが好きで、高校生の時、地理学のことを教えてもらう前は、家政学部や生活科学部に進学して栄養士になろうって決めていたんです。まだ今みたいなキッチンカーがなかった時代に、母と一緒に健康な食事を出してオフィス街を回るという計画まで立てていたんです。
——それが、すてきな男子に地理学のことを教えてもらって……
湯澤 はい。それもあるんですけど、その前に、受験のために少し栄養学の勉強を始めたら、ちょっとつまらなかったんです。栄養学はけっこう数字が出てくるし、栄養素を勉強するのは、あれ、ちょっと思っていた“食”の話と違うなと思って諦めて、早々に方向転換しました。自分の好きな “食”にまつわることを仕事にするというのはやめて、それで地理学の方に行ってしまったんです。
“食”の資料を見るのも好きだし、レシピは子どものころからずーっと定点観測しているので、『「おふくろの味」幻想』という本を書いた時は、40年間レシピを見ているから書けるなと思いました。あの本は子どもの頃からの食観察の賜物なんです。
——2023年発行の『「おふくろの味」幻想~誰が郷愁の味をつくったのか』 (光文社新書)ですね。「おふくろの味」はたしかに曖昧模糊とした、難儀な言葉だと思っていましたが、その輪郭を、社会や時代からの視点で明確にされました。その本には、小学生の頃からの自称「料理オタク」と書いておられます。『オレンジページ』創刊当時は小学生で、自分のおこづかいで買っていたとか。
湯澤 スクラップブックを作っていました。それから、祖母が残してくれた戦中戦後に書いた代用食などのレシピを見ていたこともあって。

湯澤さんのお祖母さまのノート(右)と湯澤さんのノート(左)。お祖母さまのノートには代用醤油の作り方が、湯澤さんのノートには、スパゲティソースの作り方が書かれている。(写真提供:湯澤規子)
——お祖母さまは終戦の年に17歳だったんですよね。2019年発行の『7袋のポテトチップス—食べるを語る、胃袋の戦後史』(晶文社)の第2章「空腹の記憶—戦争と飢え」に、そのお祖母さまの料理帳のことを書いておられました。
湯澤 その料理帳を目にした時、どんな時でも食べなければ生きられない、どんな人も等しくこの事実からは逃れられない、そんな単純な事実に気がついたんです。“食べられない”ことを現実のものとして受け止めて、“食”という極めて日常的な行為にこそ潜む矛盾を考えるようになりました。
それで、「『工場飲食物献立表』もあるよ」と言われた時に、はっと思い出したんですよね、“食”のことを研究したかったことを。 “食”の歴史を研究したらいいんだと気づきました。それで、あっという間にそこにどっぷりと浸かっていったというわけです。昔の自分の好きなことを思い出したことと、献立表に出会えたことがバチっとはまって、一気に展開していきました。
「悲惨」というところで思考停止したらあかんやつや
——『胃袋の近代—食と人びとの日常史』というタイトルから、まず連想したのが、紡績工場で働く女工さん、『女工哀史』でした。まあ、悲惨な話の数々、そしてデータの数々。「不味いという以上まずい」とか「ブルジョアに飼わるる犬より劣った賄い」とか書いてあって、ひどいなあと思っていましたが、先生の『胃袋の近代』を読むと、わりとちゃんと食べていたんだと、目からうろこでした。
湯澤 細井和喜蔵が『女工哀史』を書こうとしていた時から、私が見た資料までの間に、大きくは変わってはいないんですけど、いろいろと制度的な改革があったのと、細井自身が「米と汁と漬物だけの悲惨な食事」と書いていますが、ちゃんと復元すると一日に米4合を食べて、汁といっても味噌汁には具が入っていて、漬物は一人につき二切れを、一年中365日、三食出し続けるというのはすごく大変なことなんです。それを全国の工場で展開するわけですから。
それを、「悲惨」というところで思考停止したらあかんやつやって思いました。じつは、大学時代の日本史の先生がちょっと変わっていたんです。近世史の先生で、佐渡島で高校の先生をされていた田中圭一さんっていう方ですけど、新潟も多くの女工を出す地域だったので、その先生が高校で教えながら地元の人に聞き取りをしていたら、「いや、楽しかった。お金をもらえてお仕着せももらえて、家なんて帰ってくるつもりなかった」などと、いかに楽しかったかという話を聞いたそうです。でも、日本史を学んできた先生の頭の中には、搾取など資本主義の話が入っていたから、「おばちゃんたちは、だまされているんだ」というふうに考えたけれど、でもずっとその話をするものだから、これは自分の方が間違っていたのかなと気づき始めたそうです。
学術的には、主従関係や封建制度を批判するために女工の悲惨さが使われたということもあって、細井はそちらに展開したというわけです。でも、田中先生は、たとえば近世の百姓についても、百姓は絞り取るだけ絞り取られて、泣き泣き生きていたっていう話はとんでもなくて、本当はもっと強(したた)かだったということが、村々を訪ねて、史料をひもとくことで、いろいろわかってきた、と。そんな田中先生に習ったんです。授業の時に、「『女工哀史』の女工さんって、本当に悲惨だったと思う?」って先生が問いかけてくるんです。
それが、ふと思い出されたんです。悲惨か悲惨じゃないかの前に、何を食べていたのかをちゃんと復元しようというのが、『胃袋の近代』のきっかけになったんですね。
二切れの沢庵と「疾走する大根列車」
——それが、ただ単に何を食べていたかということだけではなくて、食べるシステムが明らかになっていきますね。たとえば、漬物だと、大根をものすごい単位で仕入れて、漬物用の大根が紡績会社にうず高く積まれている写真もあって、行商の話もあって、鉄道の話もありましたね。
湯澤 「疾走する大根列車」ですね。大正から昭和初期、愛知県から京阪神地方へ、大根が大量に送られていました。
一食分の沢庵(たくあん)がたった二切れと見ると、すごい些細な一皿じゃないですか。それだけで議論できるとは思わない。だけど、地理学ではそういうことを俯瞰して見たり、工場がどれだけ集積していたか、どれくらい増えたかとか、測量的な分析をしたりして、そういうことをふまえると、その一皿がものすごく大きなことだとわかって、尾西地域だけではなくて、同じようなところがいっぱいあったはずだというのが見えてきました。
沢庵二切れを欠食なく、一年中出し続けるのは大変なシステムだと思って調べ始めたら、あらゆる人たちがそれに奔走しているのが史料的にいっぱい出てくるので、いろいろ見えてきたんです。特に愛知県のフィールドワークがすごく多かったんですが、それは、東京と大阪だと結構早めに農業を手放していくので、農業と工業が連動しながら発展したというのは見えにくいんですけど、愛知県は農業と工業の両刀なんですよ、それは今でも。
愛知県で作った大根を京阪神地方に売ったりしているのがまざまざと見えてきて、 それであの「大根列車」の話につながったんです。ちなみに、愛知県あま市には日本唯一の通称「漬物神社」(萱津神社)があるんですよ。

通称「漬物神社」(萱津神社)愛知県あま市(撮影:湯澤規子)
——その売ったり買ったりする話をまさにまざまざと書いておられますよね。大阪の工場の依頼を受けて大根を買う人の話が面白かったです。大阪の天満市場で買うより、一宮の問屋を通して買うほうが運賃などを差し引いても安くて、さらに直接、農家から現金で仕入れたら安い。畑で直接声を掛けて買う。と、その前に駅前の旅館などであらかじめ相場を聞いておくとか。
湯澤 川村寛さんですね。貨車一両から二両分の大根を買うわけですから、経費の削減は重要なんです。さらに川村さんは大阪に帰ってから自分の手で、2名の助手を使って漬け込んで、また買いに行って漬け込んで、工場の食堂で一年間に食べるだけの沢庵を商人の手を借りずに調えることができたわけです。
——そこのところ、「川村に同行して愛知の大根畑へ向かうことにしよう」という導入文がありますが、ほんとに同行して見てきたように書いてらっしゃいます。値段もきちんと、セリフもあって。あれも、元の文献があるのですね。
湯澤 宇野利右衛門が大正14年に刊行した『工場炊事要鑑』ですね。上下巻あって、「沢庵大根買入実験談」の章に、大根の仕入れ先の農村とのやり取りが詳細に記録されていました。
行った先々でパワーアップして道具を増やしていく
——調査は、工場に始まり、農業についても、詳しく調べておられます。
湯澤 それは自分のキャリアと関わるんですけど、もともと歴史地理だったのが、大学院の時に農業史や農村社会学というところの研究室にちょっと移籍したんですよ。それは、文部科学省が幅を広げるためにどこかに移籍すれば、研究員として雇うということで、どこかに移籍しなきゃいけないシステムが始まった頃だったので、それでポスドクの仕事をもらった時に、農業史に関わるようになったんですね。で、そこからすぐ、明治大学に就職するんですけど。
——明治大学の就職は2005年、経営学部の専任講師ですね。2004年に結城紬の研究で文学博士になった翌年ですね。
湯澤 そこで経営史という学問にふれ、学ぶようになり、4年ぐらいたった時に、筑波の農村社会学の先生が亡くなって、丁稚先に戻るみたいな感じで、筑波大学に。
——2009年に筑波大学生命環境系助教になられたわけですね、で2011年准教授に。
湯澤 大学院生たちの面倒を見てほしいって言われて帰ったわけですが、そこは農業史の研究室なので、農業史の仕事をしてくれと言われて、その時に、いろいろ農業の歴史とか、農学的な知識も吸収しました。
そこで大根の品種改良や、大根の需要が高まった時に人は何をするかということなど、いっぱい教えてもらっていて。で、下肥(しもごえ)の話もそこにつながるんですけど。農学的な研究の視座がそこに乗って、地理学と社会学と農業史みたいなものが乗ってきて、ああいう発想になるんです。
—— 大根の品種改良の話も面白かったです。漬物樽に隙間なく規則的に詰め込むために、均一の形と色の大根の需要が高まったから、種子組合や種子屋が選抜、育種していったという。そして、下肥!さきほどの川村さんの大量の大根を調えた話の次のページに出てくるのが、「肥料渡帳」です。女工さんたちの糞尿が農家へ売り渡されている。循環してたんですね。
湯澤 大根の栽培には大量の施肥が必要です。農村と工場の間には、それまでの研究が着目してきた「労働力」と「貨幣」のやりとりだけではなくて、「食料」と「肥料」のやりとりといった物質の循環的な関係があったんです。
——たしかに。先生のキャリアと共に、地理学と社会学に、経営史と農業史が乗ってきていますね。
湯澤 普通は自分のディシプリン(discipline)、つまり学問分野や専門性は何か、というのを研究者は主張するんですけど、私は結構ジャーニーマンで、放浪者というか旅人というか、行った先々で何でも食べていく、みたいな(笑)
——マリオがキノコを取っていくみたいな?
湯澤 行った先々の学部に紐づいて、パワーアップしていってという、道具を増やしていくみたいな感覚はありました(笑)。仕事をしたところでやれることをやって吸収していくので、明治大学にはたった4年しかいなかったんですけど、学部は経営学部で、人手不足だからと経営史学会に入れられたのですが、そこで経営史、社会経済史を吸収して、会社の社史とか、会社の歴史の史料も扱えるようになりました。
また筑波大学に戻って、農業史、農業経済史を吸収して、今、法政大学では人間環境というところなので、環境とか地球をどうするかという感じ。道具を増やしていって、その時々の著書に乗せていく、そういう感じです。
——湯澤さんのプロフィールを検索したら、専門は歴史地理と出てくるんですけど、大学では人文地理学、地域経済学を教えていらっしゃるので、どういうことかな?と思っていたので、そういうことなんですね。
湯澤 地理学出身だけど、地理学と名のつく授業は非常勤先でしか担当していなくて。明治大学では経済地理学という授業を担当していましたが、筑波大学に戻ったら農村社会学。で、今は地域経済学。まあできないことはないか、環境学もしないといけないし、みたいなことで、専門性を手放していくという。でも軸足がないとぶれるので、すごいマニアックな「歴史地理」という誰も知らない学問を足場にしていったんです。
一枚でいいところを立体的にレイヤーを重ねていく
——そして、文学博士なわけですよね。地理学と社会学に、農業史が乗ってる本ですが、なんというか文学で、一本筋が通ってますよね。『胃袋の近代』の冒頭には、林芙美子の『放浪記』が出てきて、学術書?なのに、文学的に読めるなと思いました。さらに、あとがきには石垣りんの詩が引用してある。途中でも林芙美子が出てきて。すごいなと思ったのが、遊郭の女性が林芙美子を読んでいるというところ。全体の構成は、どのように組まれて、どのように書いていかれたのでしょう?
湯澤 結城紬の調査の時に、「ひとの人生の束で世界はできている」っていうのがわかったので、大きな紙に年表を書いていくっていう作業をするんです。でも、『胃袋の近代』は人というより時代の話だったので、1カ月かからないくらいで書いたんですよ。
——えーっ!!!!!300ページを超えてますよ!
湯澤 今、振り返ると「神がかってる」と思うんですけど。実はその頃、大学の仕事がきつすぎて、というか、農学の中の研究室でしたから、歴史はいらない、文学はいらない、みたいな圧が強すぎて、存在意義や自尊心がめちゃめちゃに破壊されていた時代だったんです。
学生は将来、食産業の最先端を担う子たちで、その中には、食べ物の成分には興味があるものの、食べることそのものには興味がないという子が一定数いたんです。でも、食べることは、私はもともと好きだったから、もっと面白いと思っていたんです。先生たちがそんなのいらないっていうほど、いらないものでもないし、ともやもやしていて。メンタルがだいぶ落ちていたんですけど、どうするかっていう時に、機織りの織り手のおばちゃんのことを思い出して、朝ぱっと起きて朝ごはんを作るまでの間、10分だけパソコンに向かって自分の好きなこと、今、学生に何を伝えるか、何をしゃべりたいかを入力するだけの作業を始めたんですよ。
——博士論文を書く時のことですね。織り手の方が毎日布を織るのと、パソコンで原稿を書いていくことは同じ、ということで毎日少しずつ書いていった。
湯澤 それが『胃袋の近代』の原稿の始まりです。講義の導入トピックで、「遊郭の人も食べていた」という話をするために調べたり、書き始めたりしました。で、10分ちょっと書くと、一日中、気になるんですよね、寸止めしちゃうから。「いや、あれを知るためには、これを調べないと」と思って、それで会議で嫌になる発言があっても受け流して、「次はあれを調べよう」となっていきました。自分が語りたいことを、出版の目処もなく、誰にも書いてと頼まれていないけど、とにかく書いていったのが、あの原稿なんです。1カ月かからなかったです。まあもともと論文みたいなものや、授業で使う資料もありましたが。
——しかし、林芙美子と遊郭の女性がつながるというのは、つなげたのか?つながったのか?
湯澤 あの時はすごい不思議だったんですけど、つながっていったんです。ちょっと調べ始めると、同時期に誰が生きていたかな、みたいなことをすぐ考えるんですよね。例えば、林芙美子の『放浪記』は好きだったし、胃袋がやたら出てくるし、これちょっと使えるなと思ったので、林芙美子が「私」として行っているこの食堂は、ひょっとしたらまだあるんじゃないかなと調べると、新宿のこのあたりだろうとわかって、そこに行ってみたりとか。
——実際に行ってみるんですね。
湯澤 それはほとんど趣味というか、「ひとり研究会」っていうのをいつもやるんです。気になったら勝手に研究会を立ち上げて、気分を上げてフィールドワークする。で、「食堂研究会」を立ち上げて、林芙美子が「私」として行っていたはずの、青梅街道と甲州街道が交差するところの古い食堂に行って、おばちゃんとしゃべったら、「やっぱり、私も林芙美子が来ていたと思うのよ」みたいな。そこでまた、誰かもそんなことを言っていたとか。古い地図を持っていって「きっとここだから」とか話して。
——古地図!そこはやはり地理学で。そしてやっぱり、おばちゃんと話すんですね。
湯澤 そうそう。ホールにいるおばちゃんに「ここの人ですか?」と聞いたら、「そうよ」と言われて、先代から聞いている話を教えてもらいました。まだ道で馬に秣(まぐさ)をあげていた時代に、人は中の食堂で食事して、馬には外で、秣を食べさせるのに桶の中の秣に熱いお湯をジャーっとかけていたとか。そんなことを、定食を食べながら聞いたりしました。
そうすると、それ自体がもう物語になるから、その100年前の新宿を復元したうえで、ここで地理学とライフヒストリーの技が生きるんですけど、とにかく復元して舞台を書いて、そこにおばちゃんの話をポンと乗せると、ふっと立体化して、そこに林芙美子を乗せていく。林芙美子の本はフィクションではあるけれども、情景を立ち上がらせるというか彩るように書くっていう。それは癖なのか、なんかそういう風に重ねるっていう書き方をする。
——だから、本を読んでいると、すごく立体的なんですね。
湯澤 学術研究だと一枚でいいところを立体的に、何枚もレイヤーを重ねていく。それは歴史地理の技なのかもしれない。やっているうちに、つなげようと思っていなくてもつながっていくことがよくあります。で、今度は授業に行って、「こんなことがあって、ここの食堂に行ってみたらいいんじゃない?」と学生と話していたら、「ところで先生、胃袋っていうと遊郭のことはどうなっているんですか?」と学生が聞いてくるから「じゃあ、来週までに調べてくる」となって、学生もノリノリになって、私も調べているうちに、遊郭の人の本を読んでいたら「林芙美子を読んでいた」という記述があって「わあ、ビンゴ!」となって。そういう楽しみというか偶然がすごく多いんですけど、そういったことを見逃さず、つなげていくようにしています。
私の書き方では、章と章のあいだをぐっとかませるような、出だしと終わりみたいに書くことがあったり、文章の中でも、この人が生きていた時代と、林芙美子が食堂に行った時が一緒だったとすると、みたいな、ちょっとかませるみたいに。一つ一つの章が分離していなくて、同時代に人が群像で生きていた、みたいなことを書くように、わざとしているんですよ。それはやっぱり結城紬の時の、ひとのライフヒストリーを 三世代でつないだ時の面白さがあったというか。同じ場所に同時代に生きていたというのは、同じことを聞いたり見たり、社会状況を知っていたはずだったっていうことに依拠しているんです。
——わざとでしたか。まんまとハマりました。正直、学術書なので、数字とか表とかが出てくると、細かいところまで読み砕けなかったりします。でも、噛みごたえがあるなあと思いながら、はじめから終わりまで通して読むことができました。
湯澤 『胃袋の近代』を出版してくれたのは名古屋大学出版会で、学術書専門の出版社として手堅くて有名なんです。たまたま、同出版会でその時に歴史テキストを書く仕事していて、その縁で、担当編集者がすでに書き上げて手元にあった原稿を読んでくれることになって、そしたらすぐ本にしますって言われて。その人が、これは名古屋大学出版会のテイストではないけれど、「学術の人が読んでも新しい発見があるし、一般の人も読めそうだ」というので、最終的に「わかりやすく開いて書くけど、専門家もうならせる」みたいなところを目指しましょうということになりました。
後で思うと、すごく難しい注文なんですけど、とにかく開いて、だけど学術は手放さずに、原稿を整えてください、と言われました。そこで修正していって、でも大きく直されることはありませんでした。例えば、あとがきに「石垣りんを入れても変じゃないですかね?」と聞くと、「とてもいいですね」と返してくれました。あと、この本が名古屋大学出版会で初めての四六判なんですよね。
——そうなんですか、四六判は単行本としては一般的なサイズですが。
湯澤 学術書の出版社なので、それまではもう少し大きなサイズの本を作っていたんですが、「うちも初めて四六判を出します。そういう意志なんで」と。
——出版社にとってもターニングポイントになったんですね。
湯澤 そうみたいですね。その後、「ああいう感じの本を出したい」という著者も出てきたらしくて。
名古屋大学出版会として半分一般書、半分学術書というスタイルの、最初の一冊になったようです。
——結構売れていますよね?
湯澤 そうですね。近々、五刷になるそうです。学術本にしては売れているっていう。今もロングセラーで動き続けているのでしばらく置いておきたいと言われています。
——しかし、元になる論文や授業の資料があったとはいえ、原稿を書くのに1カ月かからなかったとは驚きです。
湯澤 『胃袋の近代』を書いた時は、とっても面白くて、こんな経験もうないかも。なんか小説家が「降りてくる」というのはこれか!みたいな感じで、ノリノリで書いていて、もう二度とないと思っていたら、『焼き芋とドーナツ』でもう一度、それがあって。
——そうですよね!しかも日本から世界に広がる。では、次は『焼き芋とドーナツ—日米シスターフッド交流秘史』のお話を。

「胃袋と私」(写真提供:湯澤規子)
*続きます



