
綿業会館で(2026年8月6日)
【インタビュー】人文地理学者 湯澤規子 その1/4
湯澤規子さんは法政大学人間環境学部教授。2024年に著書『焼き芋とドーナツ—日米シスターフッド交流秘史』(KADOKAWA)が第12回河合隼雄学芸賞を受賞。日米の女性労働者のおやつを通して、働く女性たちの交流の歴史を紐解いています。2019年には『胃袋の近代—食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)が第19回人文地理学会学会賞を受賞。近代の都市で人は何をどのように食べてきたのか、都市や工場で始まった外食の営みを調べあげ、日本の近代史を動くようにいきいきと描きました。そして、『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか—人糞地理学ことはじめ』(ちくま新書, 2020年)なる本も。大学の教員紹介のページには、専攻は人文地理学、地域経済学、地域史・産業史とあります。そして人糞地理学とは? 最初の著作から、代表的な本の内容に沿って、お話を伺っていきます。1回目は2009年の『在来産業と家族の地域史—ライフヒストリーからみた小規模家族経営と結城紬生産』(古今書院)を中心に。(塚村真美)
憧れの男の子と秩父のおばちゃんと地理学
——湯澤さんは大阪府八尾市のご出身ですね。大阪ガスエネルギー研究所が発行する情報誌『CEL』に連載されているエッセイ「大阪の胃袋」を毎回、納得しながら読んでいます。そちらのプロフィールによると、「3歳で東京、千葉に転居したが、祖父母や両親の影響を色濃く受けた食環境により『大阪の胃袋』育ちを自負」とあります。1974年生まれで、77年から大阪を離れてらっしゃるわけですが、昭和の大阪の食環境が、湯澤さんが育った家の中にタイムカプセルみたいに閉じ込められているように私には思えて、懐かしさを感じ、勝手に同郷の人のような親しみを持っております。エッセイもですが、学会で賞をお取りになった分厚いご著書にも、数々の同時代の文学作品や作家が登場して、それが、過去のリアルな地理や歴史とつながっていくのがとても面白いです。
湯澤規子さん(以下、湯澤) 私、学位は文学博士なんです。
——あ、文学部?地理学って理系な感じがしますが。大学は筑波大学を卒業なさっていますね。では、学生時代のお話から聞かせてください。
湯澤 地理学は理学部なんです。もともとは地理学を勉強したくて大学に入ろうと思ったんですけど、受験に失敗しまして……。その時まで私も知らなかったんですが、文学部に歴史地理学というのがあって、名前に「地理」って付いているからと、最後のチャンスで、たまたまそこに入ったんです。
——もともと地理学を勉強したいと思われたのは、なぜ?
湯澤 これはもう時効ですからお話しますと、高校時代にちょっと憧れの男の子がいたんです。その人が休みになると自転車でどこでも行くんですよね。で、行った先から葉書をくれるんです、当時はSNSがないので(笑)。いろいろ書いてあるんじゃなくて、行った先々の風景、見たもの聞いたこと、感じたことを一句、俳句に詠んで、葉書に書いて投函してくれていました。
——それはもう、ラブラブ(笑)ですよね。
湯澤 そう思っていいのかなと思ったけど、よくわからないんです。すてきなことが普通にできる人なのかも。葉書は、3日間で合計20通以上届くんです。一日に8通ほど出している。自分で楽しんでいたんでしょうけど。
それで、そんなふうに知らない所に行って、いろいろ表現するのは面白いなと思って。これって大学でできるかな?って聞いたら、それは地理学だと言われたんです。
俳句なので普通は文学部とか言うと思うんですけど、その人のセンスだと地理学だというので、じゃあ地理学に行こうと。高校生でとっても単純でしたから。
——しかし、そんなすてきなことをされたらねえ、乙女は地理学を目指しますよ。
湯澤 そうなんですよ。それだけを信じて、地理学と名の付くコースに入ったんですが、じつは地理学は生きている人間をそんなに描かない学問だということに、後で気づいたんです。人口分布図とか密集度を測るとか、数値として分析できる人間の話はするんですけど、そこで生きている人たちの人生にはちょっと無関心という感じでした。そうすると、だんだん勉強がつまんなくなってきて、辞めて転学部しようと考えたんです。でも、まだ1年生で、そんなに勉強もしていないのに、この学問を「あかん」と決めるのは失礼だと思い返して、自分でできるところまで勉強してみようかなと思ってやり始めたら、面白くなってきたんです。
地理学ではフィールドワークという手法があるので、外に出るわけです。いろんな所に連れていってもらって、そこで取材するという初めての経験をしました。それがすごく私に合っていたんです。
ちゃんとした調査っていうよりも、行った先々のおばちゃんとお茶飲んで笑って、お茶飲み話が面白くて。先生には、またそんな話ばっかりって言われていたけど、そこがすごく面白くなってきたんですね。
——そのおばちゃんたちの調査が、最初の著書となった結城紬ですか?
湯澤 結城紬に行く前に、埼玉県の秩父っていうところで、秩父銘仙(ちちぶめいせん)っていう、大正期ぐらいに女学生たちが着ていた大衆的な着物があって、そこで織っている人たちの話を聞いて歩きました。その時、大学院生の先輩が私のことを面倒くさいと思ったのか、おばあちゃんの所に一日いるように、と置いていかれたんです。先輩はいろいろ調べてくるから、夕方迎えに行くと言われて。
でも、そのおばあちゃんの人生をよくよく聞いていたら、手織りだったのが、高機(たかはた)という機械織りになって、秩父銘仙が下火になったら、今度は座布団とかお布団の縫製工場になって、縫製工場がダメになったら、次はクーラーなど空調機械の組立工場になるんです。はじめは家の中で仕事していたのが、工場ができたらバスに乗って通うようになったと。
「バスに乗って行けたよ」って、うれしそうに通勤したことを話してくれました。その一人の人生の中に、その地域の産業が全部ギュっと詰まっていて、専門用語では就業履歴っていうんですけど、就業履歴をちゃんと見ると、地域の産業史が書けるって直感でわかったんです。
夜のゼミでそのことを言ったら、先生から「そんなのできるか、できるわけがない」と言われました。でも、そのおばさんたちの話してくれたうれしかったこと悲しかったこと、例えばバスに乗ってうれしかったことがすごく大切だと思ったので、そういう悲喜こもごもを集めて論文が書けたら、地理学もつまんなくないのにな、と。それが、彼が教えてくれたような地理学だと思いました。
——まさに!すてきな彼のアドバイスは間違ってなかった。
秩父の夜の誓い〜ライフヒストリーへ
湯澤 その秩父の夜に誓ったんです、「ひとの人生で地理学を書く」と。それで、卒業論文のテーマをどうするかと考えて、筑波大学から直線距離で一番近い結城紬を選んだんです。
——直線距離とは、なんとなく地理学っぽい(笑)
湯澤 適当に選んでしまって。車がないから電車でぐるっと回ることになるので時間がかかる、すごく遠かったんですよ。駅から織り手のいる村までの交通手段もなくて、地元の自転車屋さんに「一日300円で貸してほしい」と頼んだんです。「そんなことできるか」って断られたんですけど、「いや、貸してほしい」と。
——けっこう強引ですね。
湯澤 そうなんです。でも、そのうち自転車屋のおじさんと仲良くなっていって、行くたびに自転車がレベルアップしていきました。卒業論文を書き終えるころには新車を貸してくれました。「私が乗ったら中古車になりますよ」って言ったけど、「いいよ」って。
そういうふうにして地元に通うことで、「織物と女性の人生と地域の経済を絡めて書く」ということを始めました。結城紬は伝統織物なので、秩父銘仙のように時代でガラッと変わるわけではなく、ずっと織り続けているわけです。国の重要無形文化財に指定される伝統的なものを織り続ける中でも、彼女たちの人生が高度成長期と重なっているので、社会も変わりつつ、雇う人も雇われている人たちもどんどん変わっていく。そこに対応してきた彼女たちの人生を書いてみようと思って、とにかく、そこで女性たちの人生を聞き書きするということをずっとやっていったんですね。
——そういう手法というのは、歴史地理学にあるのですか?
湯澤 一応、社会調査法を習うので、ちゃんとメモできるように調査票は持って行くんです。
——調査票というのは決まったものがあるんですか?
湯澤 だいたいこれを聞こうというのを自分で作って、機屋(はたや)さんに持っていったんです。機屋さんは、織物を生業にするお家のことですが、ある機屋さんでおじさんに呼び止められました。研究者というのは、数字ばっかり埋めていって、私たちの人生に耳を傾けようとしていない、「そんなんでわかったつもりになってくれるな」とすごく叱られて。
——ちょいちょい叱られていますね。
湯澤 最初は人生のことを聞くつもりだったんですけど、1990年代の初頭で、地場産業が結構衰退していく時期でもあり、相手の懐に入って話を聞くのが、ちょっと怖かったんです。調査票を持っていって、表面的に何年創業ですかとか、何人雇っていますかとか話を聞いていたら、「俺たちの人生は今、苦しい状況で、そんな調査でわかったつもりになってくれるな」と。それでおじさんの話を聞いているうちに、そのとおりだと思ったんです。そのころは二十歳くらいで、若いっていいですよね(笑)、本当に納得して「こんなの捨てます」と、その調査票を捨てました。
——そしたら、おじさんは?
湯澤 「じゃあ、とにかく座敷に上がれ」と、「玄関先で税務官とかマルサみたいにやるな」と言われて、お家に入って、おじさんとおばさんの人生をよくよく聞いたら、まあ面白くって。次からは、模造紙みたいな大きめの白い紙を持っていって、そこに、横に一本線を引いて、それを時間軸にして人生の出来事を記入していくという方法に変えました。話を聞きながら、家族のこと、子どものことも書いていく、というふうに。
書くのは私だけじゃなくて、おじさんも「ここはこうだった」と一緒になって書きました。専門用語では「アクションリサーチ」っていうんですけど、一緒にやるワークショップ形式です。普通の経済地理学や地場産業研究だと、織物を織っているところだけを抜き出して分析するんですけど、結城紬って家族経営なので、家族のことも一緒に書いていくと、子どもをおんぶしながら織っていたとか、自分が織っている時にお父さんがちょっと手を休めて赤ちゃんのミルクを作ってくれたとか、仕事と生きることが重なっているというか、くっついていたんです。

学生時代の聞き取り調査の図(画:湯澤規子)
——おじさん、おばさんと一緒に年表を作っていったのですね、面白い調査ですね。
湯澤 私はサラリーマンの家に育ったので、家と仕事がくっついてごちゃっとしている様子が新鮮で面白かったし、そのことをちゃんと説明できないと、この地域を理解したことにならないと思って、年表の中に子育てとか農作業とか介護とか、いろいろ入れることにして、生産と生活を切り離さない家族の年表を作ったんです。
それが卒業論文の肝(きも)になると考えて、それをどう表すかということで「ライフヒストリー」という言葉でまとめてみようと思いました。その言葉は地理学ではなかったんですけど、社会学の人がやっていたので、社会学のライフヒストリーというのを借りてきて、まず卒論を書きました。すると面白くなって、大学院に入っても、ライフヒストリーから抜け出せないまま、修論を書かなければいけない夏を迎えました。
先生からは「卒業論文から何も変わってないな。織っている人の顔が見える地理を書くって言っていたわりに、顔が見えないぞ」と言われていました。
端布と作業記録が人生と経営と地域を語る
——ライフヒストリーだけでは、修士論文としては不足だったのですね。
湯澤 人の人生を聞き取るだけじゃなくて、別の資料で見せる必要があったんです。それで、「何があるのかな」と思った時に、布の切れ端を見せながら話すおばさんがいたのを思い出したんです。布を織ると、糸には20㎝くらい余裕があるので余り布ができるんです。当時は、その部分を織っても織らなくてもよくて、織ったら自分のものにできたので、その端布(はぎれ)みたいなのを、全部取っていらしたんですね。空き缶から布を取り出して、「この時は妊娠していてしんどかったけど、こうだった」とか、「この柄を織ってた時、お父さんとケンカした」とか。
そうやって話を聞いていた時は、その布のことは全然気にしてなくて、最初は、聞き取り以外の別の資料として、日記資料を探していたんですよ。だけど、「日記なんか書いてる時間があったら織ってるわよ」と言った方がいて、それもそうだと納得して、日記を探すのはあきらめていたわけです。じゃあ何があるのかなと思っていたら、「あ、あの布が日記なんじゃないか」と気づいて、再びそのおばさんの家に行って「申し訳ないんですけど、もう一回話して」と頼んだんです。そうして、布を並べていくと、もうそのままが人生でした。その中でも特に大事な1枚の布がありました。その方は高級品というか、すごく手の込んだ布が織れる方なんですけど、ある時、とても簡単な布を織っていたんですね。

織り手aさんが所蔵している紬の切端(2007年,撮影:湯澤規子)
「なぜこれを織っていたか、理由がありますか?」と聞くと、「それは子どもが生まれた年で、義理の母が世話をしてくれていて、農業も育児もそのおばあちゃんがやってくれたから、自分は織るだけでよかったんだけど、 稲刈りの時に義理の母が倒れた。そうしたら、介護、育児、農業、紬が全部、自分にのしかかってきた」と。
私だったら辞めるなと思って、「なんで辞めなかったんですか?」と聞いたら、「倒れた義理の母がずっと紬で生きてきた人だから、『家の中で機の音がしていないと食べていけなくなるかもしれないと思って不安だから、機の音だけはさせておいて』って頼まれた」と。ドラマチックだなと思いました、そういう論理があるんだなって。
——泣けます。
湯澤 そして、問屋さんもツーカーの仲だから、問屋さんにこういう事情があると伝えるわけです。問屋さんからは「そういう状況だったら、この一番簡単な布だと織れるでしょ」と言われて、織り続けたのがこの布なんだ、ということを教えてもらいました。
その時に「あ、わかった!」と。家の事情がごちゃごちゃしていることを、仕事を差配、調整する側の問屋も知っていて、織り手にも主体性がある。業務を選択する中に家族の事情が織り込まれていて、それがずっと続いてきて布が織られているんだと。それは、このおばさんだけじゃなくて、あらゆる織り手にも言えることで、そういう集積がこの地域を作ってきたんじゃないか、っていうことがわかったんですね。
夏休みに先生からダメ出しをされてすぐの時期だったので、その布をきっかけに、彼女の人生を書く、と決めて、すぐにレポートを書いて、先生に見せました。すると「いいじゃないか」ということになりました。
——顔が見えるレポートになった。ゼミの先生に、端布を資料として認めてもらったのですね。
湯澤 もう一人の「日記なんか書いてる時間があったら織ってるわよ」と言っていた方に、「作業記録はあるんですか?」と聞いたら「そら、あるでしょ」と、作業記録を見せてくださったんです。そのおばさんも面白くて、「100亀甲(きこう)」といって、反物の横幅の中に亀甲模様の絣(かすり)が 100個入る織物が大好きで、そればっかりを受注されていたんです。だから単純にいうと技術はいつも同じなんです。でも、記録を見ると、一反織るのにかかった日数が伸びたり縮んだりしていたんです。その方は、織り初めの日と織り終わりの日をちゃんと作業記録につけていたので、何日かかったかを計算できたんですよね。その長くかかったところは、つわりだったとか、年末に無理をしたとか、子どもを産んで何日間休んだとか、農作業が忙しくて何日休んだとか書いてあるんです。そうするとやっぱり織ることと、子育て、自分の体調、家族のこと、農業などが連動して、変動しているんです。
機械で織っていたら同じ技術だと、30日たったら30日分同じ数字が並ぶだろうけど、本当に変動していた。人間が家族の中で手工業として織る、ということはこういう状態だ、というのを示せたんですよ。
それも小さいレポートにして、「この二本立てでどうですか?」と先生に言ったら、「これで修論OK」となりました。
——よかったよかった、修士論文ができて。

作業記録を借りて決意をあらたにする(画:湯澤規子)
「こんなのは論文じゃない」論文が学会賞に
湯澤 でも、今度は「投稿論文」といって、学者になるためには論文を学会で公表していかないといけないんです。そしたら、その“布論文”は大波乱となって、「こんな布をもとに資料として論文を書いた人は、地理学では前例がない」とか、「こんなのは論文じゃない」「こんなのは記録じゃない」と言われました。学会は、ライフヒストリーも布も、学問ではないと言う。今では結構、物資料とか、いろんな資料も許容されるんですけど、当時はずっとそんなふうに言われて、リジェクト(却下)すれすれで、見放されそうになりながら、学会誌の編集部とギリギリのところで 1年半ほどケンカしながら、学会を一生懸命説得したんです。
四半世紀前はそんな状況でしたね。今、AI時代になると、むしろ質的な調査とか、人の人生で調査するとか、そちらの価値が上がっているように感じるんですけど、当時は数値で測れない、再現性のないものを学術に入れてくるな、という考えが強かったんです。それは私の憧れた地理学とは違っていて、そこと闘いながら1年半かかって論文を書いたところ、それが通って、その年の学会賞をいただいたんですよ。
——いきなり学会賞!えらい!すごいですね。
湯澤 地理学は、文系と理系が混ざっている「文理融合」と言われていて、 理学系の人も文系の人も入っている、一番大きな学会誌に出したんです。それで、もめたわけですけど、地理学全体に伝えたかったので、若気の至りでそこに出したんです。でもそれがすごく印象に残る1本になったみたいで、大変おこがましいですけど、地理学という学問のあり方自体がちょっと変わるきっかけになったような、そういう出来事だったわけです。その後、今度は一人一人の人生だけじゃなくて、三世代を並べて百年を語るという、そういうライフヒストリーの分析も加えていったんです。
——NHK朝ドラの『カムカムエヴリバディ』みたいですね。
湯澤 初めて会った時に私を叱ってくれたおじさんの家に行ったら、いつも隣の部屋で人の気配がしていたんです。それで、「隣に誰かいらっしゃいますか?」と聞くと「おばあちゃんが寝たきりなんだ」と。「おばあちゃんは織っていましたか?」と聞くと「そりゃ織ってたでしょ」と。「しゃべれますか?」と聞くと「しゃべれるよ」とのことだったので、隣のおばあちゃんの部屋に行って、おばあちゃんとしゃべったんです。
おばあちゃんは、いつも話を聞いていたおばさんの義理のお母さんで、先代になります。そのまた先代のことは、おばあちゃんからの聞き伝えで、教えてもらいました。おばあちゃんが結婚した時には既に亡くなっていたけれど、こういう織り手だったらしいというふうに。
おばあちゃんは戦後、「満州から帰ってきたら、みんなが織っていたから練習したのよ」と教えてくれて。「でも、糸なんかなかったですよね?」と聞くと、「お布団の綿(わた)を引き抜いて、それを撚って糸にして織ってたのよ」と。その布を見たいと伝えると、この前捨てたって。
——惜しい。
湯澤 でも、その開かずの間の、おばあちゃんを介護なさっていた部屋のふすまをガラリと開けたら、そこから三世代にわたってつながる物語がばーっと出てきて、それを 1本の論文に書いたんです。で、それをまとめて、博士論文にすることができました。そういう個人とか、ちっちゃいミクロな地域の話には、どういう意味があったのかと、もうちょっと広く大きくとらえてパースペクティブに落とし込むことが博士論文でできて、それが本になったんです。今は絶版になっていますが。
——2011年の『在来産業と家族の地域史—ライフヒストリーからみた小規模家族経営と結城紬生産』ですね。図書館では見つかりました。ともかく、その本がファーストキャリアですね。

『在来産業と家族の地域史—ライフヒストリーからみた小規模家族経営と結城紬生産』古今書院刊(全国の図書館情報はこちら)
湯澤 あれが本当の原点ですね。その後いろいろ本を出したので結構、“胃袋”の本の方が目立っちゃったんですけど、“胃袋”の本を読んでから、振り返って読んでくださる人がいるからか、品切れになりました。今は、学生時代に考えていたことを展開していっているだけなので、本当に原点なんです。
布を織るのとパソコンで入力するのは似ている
——学生時代の湯澤さんって、プライベートはどんな感じだったんですか?
湯澤 自分のプライベートはごちゃごちゃしてくるんです。修士論文を書いてすぐに結婚して、子どももすぐ生まれたので。生まれて初めて公表した論文ができるより前に、子どもが生まれました。
——それは珍しいことなんですか?
湯澤 学生とか先輩とか同僚に言うと、びっくりされるんですけど、結婚して子どもを産んだ時に、公表した論文が1本もないっていうのは、順番がどうなっているんだと。本当に何にも成果がないのに子どもが生まれたんです。学生に、私の学生時代はどんなだったのかと聞かれて話すと、「ついていけないし、自分には参考になりません」とかよく言われます(笑)。
ただ、お腹が大きい時に聞き取り調査をしていたので、そういう話でおばちゃんたちと盛り上がりました。生まれてすぐの時が大変だろうと思っていたら、おばちゃんたちに「首が座るまでは楽勝。動き出したら大変だから」と言われて、論文を書き直したりして。
そうなると自分の人生に重なってきて、おばちゃんたちに人生指南を受けながら論文を書いたっていうのが、最初のキャリアになりました。
それに、おばちゃんたちの話を聞いて気づいたのは、布を織るのとパソコンで入力するのは似ているなということです。1行ずつ織っているみたいじゃないですか。
——そうですね。
湯澤 1行40字でどんどん書いていくとだんだん長い面ができていく、織っているのと同じ感覚かなと。そうすると、おばちゃんたちが経営形態を変えてでも何でも、とにかく織り続ける、織るのをやめない、続けることを大事にしているのが、自分にとってすごく励みになりました。
たとえば、お母さんを介護する必要がある時には、賃機(ちんばた)といって、織りの工程だけを請け負う、いわゆる下請けの形態をとって、お母さんが亡くなり、その整理がついて、自由になったら、自営の機屋として、自分で糸屋さんや問屋さんと取引をする、自営業に戻る。あるいは、お父さんが勤めに行くとなったら、絣の糸の作り手が欠けてしまうことになるので、絣の糸だけは買って織るとか。その家の事情によって、無理のないように、織り手の経営形態を変えるということをやっている人が多かったんです。
——おばちゃんたちからも、ご自身が生きていく上で、大いに学びがあったんですね。
湯澤 要は続けることを大事にする、それがすごく励みになりました。私も、1秒でも1日40字でもいいから文字を書ければいいと。それはもうその時にすごく仕込まれました。今でもよく書くよねって言われるんですけど、そういう意味でも原点なんです。
——叱られながら、また闘いながら、大きな原点となったわけですね。
湯澤 そうですね。よく叱られて、それが結局ターニングポイントになりました。最近はキャンセル界隈が流行っているのですぐキャンセルするでしょうけど。おじさんに叱られても意気投合したのは、私個人に叱っているというよりも、世の学術研究とか、自分たちを理解したつもりになっている制度への憤りだというのがわかったので、彼らが納得する書き方とか、理解の仕方を追究するのはとても楽しく、また鍛えられました。
研究者も2種類あって、一つはしっかりとアカデミアに軸足を置いて、そこで活躍するために何か隙間を探す人と、もう一つは、現場で見つけたことを追いかけていくうちにアカデミアから逸脱して、でも何とかやっていくうちに、それが新しさにつながる人と。私は後者だったんですよね。そんなんで、いつも叱られていたわけです。
——今はもう叱られないでしょう?
湯澤 今はそうですね。でも“胃袋”の時は……。
——おっと、では、次は『胃袋の近代—食と人びとの日常史—』など、胃袋の話をお聞かせください。
*次回に続きます。
『焼き芋とドーナツ—日米シスターフッド交流秘史』(KADOKAWA)Amazonへ
『胃袋の近代—食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)Amazonへ
『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか—人糞地理学ことはじめ』(ちくま新書)Amazonへ



