赤坂プリンスホテルの階段(1994年撮影, 東京)

「赤坂プリンスホテルの階段」

文・写真 下坂浩和

20世紀初頭に生まれた抽象絵画は、カンディンスキーに代表されるエネルギッシュで有機的な造形が特徴の「熱い抽象」とモンドリアンのように寡黙で直線的な幾何図形が特徴の「冷たい抽象」のふたつの流れに大別することができました。近代以降の建築デザインも同じようにふたつの傾向の間で揺れ動き、ポストモダニズムの建築が盛んにつくられた1980年代前後にはこの対比が顕著に見られました。

当時の日本の状況を振り返ると、戦前に建築家としての活動を開始し、プレモダンとも呼ばれた村野藤吾(1891-1984年)があたたかみのある建築の大御所だとすると、戦後に頭角を現し、モダニズムの建築家として世界的に活躍した丹下健三(1913-2005年)をクールな建築の第一人者に位置付けることができます。このふたりは同じ1982年に大規模ホテル建築を東京に竣工させました。村野藤吾の新高輪プリンスホテル(現グランドプリンスホテル新高輪)と丹下健三の赤坂プリンスホテル(2011年閉館、その後解体)です。どちらも同じオーナーの依頼によるというのも興味深いですが、村野藤吾は「うつくしい階段14」でウェスティン都ホテル京都を取り上げましたので、今回は丹下健三の赤坂プリンスホテルの階段をご紹介します。

赤坂プリンスホテル(2005年撮影, 東京)

このホテルの高層階(4〜39階)は屏風を立てたようなV字型で、しかも外壁面がジグザグ形状の特徴ある高層建築でした。ワンフロア25室の客室のほとんどが角部屋という贅沢なつくりだったのです。初めて見に行ったのは大学2年の夏で、建築学科に進むからには東京に続々と建てられる最新の建築を自分の目で確かめなければ、と上京して一週間ほど友人宅に滞在していた時のことでした。その時は、学生に縁のない高級ホテルの敷居がとても高く感じられ、中に入るのは諦めて外から眺めただけだったのですが。それでも内部のデザインが気になって、泊まるのは無理でもコーヒー1杯くらいなら飲めるはず、と意を決して正面から入り、館内を見てまわったのはそれから2年後のことです。

今回取り上げるのは、1階メインエントランスから入ってすぐの、地下1階飲食フロアへの吹き抜けを降りていく階段です。階段といっても、まっすぐに下りるのでも、まわりながら下りるのでもなく、数段下りるごとに広い踊り場があって、そこで直角に向きを変えながら下りていく階段で、全体としては棚田を上の方から順番に流れ下りていくような形状です。この階段はビアンコカララというイタリア産の白大理石でつくられています。床も壁も柱も同じ大理石で仕上げられた白一色の空間で、壁面は光を反射するくらい磨き上げられた本磨き仕上げです。

1階と地下1階の間には5つの踊り場がありますが、そのうちの上から3つ目までは踊り場のへりが35センチ程度、内側に円形を描くように立ち上がっています。手すりの代わりに端部を立ち上げることで、人が端に近づかないようにつくられているのです。そして1番上の踊り場には自然木のオブジェ、2番目には白いピアノが置かれています。このピアノが演奏されているところを見たのは一度しかありませんが、その時なぜか、お客さんが飛び入りで弾いていると思い込み、この真っ白のステージで大した度胸だな、と感心したのでした。改めて考えると、ホテルに依頼されて弾いていたのに違いないのですが。

赤坂プリンスホテルの階段、上から2番目の踊り場(1987年撮影, 東京)

3番目の踊り場には何も置かれていませんが、周囲の立ち上がりには丸いクッションが置かれています。ここには座ってもよいですよ、というわけです。実際に座っている人を見たこともありますが、上から見下ろされ、下から見上げられる白亜の空間は私には場違いに感じられ、座ってみるのに大層勇気が要ったように記憶しています。実際に座ったのかは思い出せませんが、座ったとしてもすぐに立ち上がってしまったのではないかと思います。

赤坂プリンスホテルの階段、上から3番目の踊り場(1987年撮影, 東京)

これまでに取り上げた中で、例えばイタリアのスペイン階段はいつも観光客で賑わっていて、階段や手摺に腰掛けている人もたくさんいます。その様子は階段のうつくしさを損なうことなくいたって自然な情景です。ところが、ミケランジェロが設計したラウレンツィアーナ図書館の階段の場合はどうでしょうか。この階段にはちょっと腰掛けてみよう、とは思わせないような威厳が感じられます。

丹下健三は26歳の時に「ミケランジェロ頌」(『現代建築』1939年12月号)という論文を発表し、当時、モダニズムの建築造形を展開させようとしていたル・コルビュジエを、ルネサンスの幾何学からマニエリスム、バロックの造形性へと進む契機となったミケランジェロに重ね合わせて評価しています。後年の回想で「ミケランジェロの場合は、当時は写真だけですけれども、彫の深さというのか、光と影の効果というのか、何か非常に感動的でしたね。そういう感動を与えるようなものは、どういうところから出てくるのだろうかということを考え始めたんです。」と語っています。(「コンペの時代」聞き手:藤森照信『建築雑誌』1985年1月号)

戦後、モダニズム建築は民衆のための建築という大義をもって発展してきました。赤坂プリンスホテルも誰もが利用できる公共性をもった建物でした。その発表に際して丹下健三は装飾を排除した「単純で静穏な空間」の説明として「このような空間は、特にそこを訪れる人々が主役となるような空間であって欲しいのである。」(『SD』1983年9月号)と記しています。

雑誌発表時の写真には踊り場の白いピアノは写っていますが、自然木のオブジェもクッションも写っていません。ホテル側が、真っ白すぎて落ち着かない、と考えて後から置いたのでしょうが、丹下健三が思い描いた主役はピアニストやこの階段をかっこ良く歩く人であって、なんとなく座る人ではなかったということかも知れません。

ビアンコカララはルネサンスの時代から採掘されていて、ミケランジェロがダビデ像の彫刻に使った石でもあります。この階段には、ミケランジェロの芸術に憧れて、優れた空間造形によって人を感動させ、社会を豊かにすることができる、と考えた建築家の信念があらわれていたのでしょうか。踊り場に腰掛けてそんな想像を巡らせることはもうできません。

(2024年10月9日)

  • 下坂浩和(建築家) 1965年大阪生まれ。担当した主な建物は「大阪市立東洋陶磁美術館エントランス棟」(2023年)、「W 大阪」(2020年)、「六甲中学校・高等学校本館」(2013年)、「龍谷ミュージアム」(2010年)、「吉川英治記念館ミュージアムショップ」(2004年)、「宇治市源氏物語ミュージアム」(1998年)ほか。