ウェスティン都ホテル京都 西館宴会場ロビーの階段(2024年撮影, 京都)

「ウェスティン都ホテル京都の階段」

文・写真 下坂浩和

日本の建築家の中で、階段の名手として真っ先に挙げたいのは村野藤吾(1891-1984年)です。20世紀の日本を代表する建築家のひとりで、1929年に独立して設計事務所を開設し、初期には1920年代にヨーロッパで生まれたインターナショナル・スタイルの影響を受けたモダニズム建築も手がけましたが、戦後は装飾的な要素を取り入れたデザインや、純和風の建築も数多く設計しました。20世紀の日本を代表するもうひとりの建築家、丹下健三(1913-2005年)より22歳年上、少し世代が違うにもかかわらず、戦後の活動時期が重なっているのでよく比較されます。国際的にも知名度の高い丹下が、直線的な柱梁の構成や構造力学的な幾何曲線をそのまま現した普遍的な合理主義を目指したのに対して、村野のほうは、情念が結実したとも言えるような個性的な建築を多く生み出しました。

今回ご紹介するのは、京都、蹴上のウェスティン都ホテル京都の西館宴会場ロビーの階段です。このロビーは宴会エントランスの車寄せから直接入ったところに位置していますが、ホテル全体が斜面地に建てられているので、本館との関係で2階となっています。天井の高いこの空間には北東角と南西角の2箇所に同じデザインの階段がありますが、下の駐車場階まで繋がっている北東角の階段を取り上げます。ウェスティン都ホテル京都は、今の名称になったのは2002年ですが、その100年以上前の1900年に都ホテルとして開業した歴史のあるホテルです。村野藤吾が関わるようになるのは1936年竣工の5号館(当時の名称)以降で、戦争を挟んで1959年竣工の和風別館「佳水園」など、その後も継続して設計に携わってきました。西館が竣工したのは没後の1988年ですが、計画は生前に始まっていたようで、亡くなる前日まで鉛筆を持ってスケッチしていたという晩年の村野でしたから、設計段階には直接関わっていたと考えられます。以前の現場では工事が始まった後も竣工するまで最終段階の製作図に朱を入れ、デザインを細かく修正し続けましたが、この現場ではそれは叶いませんでした。それでも、たとえ事務所に遺された所員が最終的に形にしたものであったにせよ、この階段は村野デザインの真骨頂と言って差し支えないと思います。

さて、この階段、前回のヴェネツィア・アカデミア美術館の螺旋階段と同様、平面形は楕円が基本になっています。と言っても、厳密に幾何学的な楕円ではなくフリーハンドで描いた優美な曲線に見えます。アカデミア美術館の螺旋階段と違って、周囲を壁で囲まれていないので、有機的な螺旋状の姿がロビーからよく見えて、ホテルの宴会場にふさわしい華やかな造形です。楕円の片方の先端から上り始めて、逆側の先端が踊り場で、その間の直線に近い部分が段々になっているのはアカデミア美術館の階段と同じです。村野は戦前の若い頃から精力的に海外の建築情報を収集し、視察にも出かけていたので、パラーディオの『建築四書』の楕円螺旋階段を知っていたのかも知れません。

ホテルのパブリックエリアにあるこの階段は上り下り自由なので、ホテルのスタッフの方の目を気にしつつ、何度も内側と外側を上ったり下りたりしてみました。寸法を測ってみると階段の幅は1.5メートルで、蹴上寸法は145ミリ、踏面寸法は一律ではありませんが、内側は230ミリ〜240ミリ、外側は400ミリ〜480ミリです。そしてこの寸法、内側も外側もとても上り下りしやすい寸法なのです。これはいくら先達の作例写真や図面を見たり、自分で図面を描く鍛錬をしたりしても習得できるものではありません。きっと、いろんな寸法の階段を上り下りして試しながら、この範囲内なら大丈夫、ということを身体的に習得したに違いありません。ひょっとすると事前に原寸で試作した階段を上り下りして寸法を決めたのかもしれません。

この階段がよくできているのは寸法に間違いがないだけではありません。まわりに階段を支える壁や柱はなく、2本組の太さ25ミリのスチール製の細い棒で、上の階から3カ所吊って支えられています。2階ロビーから上がり始める最初の段は床から浮遊して見えるように工夫されていて、軽快な造形が重力の支配から解放されているようです。さらに、この階段は、工場でつくられた運搬可能なサイズのスチール製のパーツを現地で溶接してつくられたものであるにも関わらず、溶接の跡がどこにも見えないように研磨した上に塗装して仕上げられているのです。溶接跡が研磨してあるのはステンレス製の手摺も同じで、どこにも継ぎ目を見つけることができません。まるで芸術家がつくった彫刻作品か、工芸作品のような精緻なつくりです。

生前の村野のまわりには、彼の独特な造形を実現できる熟練の職人が呼び寄せられていました。この階段が村野没後に完成したものであるにも関わらず、いかにも村野らしい造形であるのは、遺された職人たちが師匠の望んだ完成度で仕上げなければならない、と労を厭わずつくりあげたからに違いありません。今の建設業界では、同じ階段をつくることはほとんど不可能ではないかとさえ思われます。文化遺産として後世に伝えていく価値のある階段だと言うこともできます。

以上の写真すべて2024年撮影

ところでこの階段、ロビーの下の1階から見上げると上階の床に穿たれた開口の形がハート型に見える、と2018年にホテルのインスタグラムで紹介され、インスタ映えスポットになっているようです。そのように狙って設計したわけではないでしょうが、竣工してから30年もたって、設計者の意図を超えて発見された形が人々から親しまれるというのも、いかにも村野藤吾らしいと言えます。近代の合理主義建築が寸分の隙もない厳密な抽象美学を至上としたのに対し、村野藤吾の建築デザインには合理的なプランニングを基本にしながらも、そこに何かを付け加えて独自の価値を生み出そうとしているのが見て取れます。戦後の合理主義建築の全盛期には、装飾的な作風が理解されないこともありましたが、村野本人は社会に受け入れられる建築には、一般市民にも理解しやすい庶民感覚と上質な手わざを掛け合わせる手法が必要だと考え、信念を貫いたのではないかと思います。改めて振り返ると、多様な価値観を認め合う現代社会にこそふさわしい建築を遺したと言えるのではないでしょうか。

(2024年4月17日)

  • 下坂浩和(建築家) 1965年大阪生まれ。担当した主な建物は「大阪市立東洋陶磁美術館エントランス棟」(2023年)、「W 大阪」(2020年)、「六甲中学校・高等学校本館」(2013年)、「龍谷ミュージアム」(2010年)、「吉川英治記念館ミュージアムショップ」(2004年)、「宇治市源氏物語ミュージアム」(1998年)ほか。