「麺とおしぼり」

 

せっかく東京に来たのだからと、毎夜中央線沿線に繰り出して、ライブを観て飲んだくれて帰るという生活を夢想したこともあったが、いざ住み始めてみると、勤め先で考えごとをしているうちに夜も遅くなり、どこに寄るでもなく家に戻るといういたって地味な暮らしぶりになった。とはいえ、そのままおとなしく寝るのもシャクなので、夜半を過ぎてから近所に飲みに行く。そういう時間に一人で気安く飲めるところとなると、深夜営業のラーメン屋ということになる。

テーブル席はない。終電前の時間帯、狭いカウンター前に据え付けられた脚の長い椅子に次から次へと客が座り、ラーメンを食い、立ち上がる。その波が止むまで隅の席で安いアテを頼みチューハイをちびちび飲み、地元民であることのぜいたくをゆっくり味わう、という、これはこれで誠に鼻持ちならない趣味なのだ。

どの人もたいていどこかの店ですっかりできあがって来ているから、声も動作も大きい。客足が一段落ついた頃、椅子を一つはさんで隣の男が大声でしゃべり出した。ちらちら見ると、二十代後半から三十過ぎとおぼしき背広姿で、半ば突っ伏すようにカウンターにしがみつきながら、置いたスマホに話しかけている。「ぼくはれ、好きっていうんじゃあれですろ、ただえ、きれくれあろ」。ろれつはまるで回っていないが、相手は女性だろうか。どうも話がねちねちと長い。電話の向こうの相手も、きれくれあろによくつきあっている。目が合うととばっちりがくるかもしれないので、ぼんやり正面を見ながらアテをつまんでいるが、完全に彼の声に包まれているので居心地が悪い。早めに出て行こう。そう思ったら、どん、と音がした。見ると、床に座りこんでいる。椅子に座ろうとして腰から落ちたらしい。痛いとも言わずにうなだれているところを見ると、自分に何が起こっているのかもわかっていない。おにいさん、と声をかけるとなんとか起き上がりだしたので、手を貸して椅子に座ってもらう。若い中国人の店主が、男の顔をのぞきこみながら、ゆで上がってしまったからもう出すしかないという風に「食べる?」とつけ麺を出す。

きれくれあろは、うなずいたものの、椅子の上でなおもうなだれている。しばらくうなだれて、それからおしぼりを手にとり、広げるでも、手をふくでもなく、ただロールのまま握って、しばし持ち上げ、それから、ゆっくりとつけ麺の麺に押し入れる。おしぼりの先に麺がからみついたのを口に運ぶ。つけ汁は使わない。麺を幾筋か唇でおしぼりからなめるように剥ぎ取ると、またおしぼりを麺に押し入れる。麺がくっついてくる。また口に運ぶ。

幻覚を見ている人の世界観を、そのまま見ているようで、しばらく見惚れていたのだが、さすがに放っておくのも悪い気がして、余計なお世話と思いながら、おにいさん、こっち、と箸を差し出す。きれくれあろは、しばらく箸を見ていたが、なかなか正解には見えぬらしく、おしぼりを手放さない。こういうときに、関西弁なら「あんな、この箸もってみ。おしぼりおいといてな」とかなんとか、もう少しフレンドリーなふるまいができるのだが、そういう言い方や物腰を疎ましく思う人がいるかもしれないから、箸を麺のどんぶりに入れて「こっちで食べて。こっちで食べた方がいいから」と、よそよそしいアドバイスをする。きれくれあろはなおもおしぼりを丼に差し入れようとするが、あいにく、わたしのさした箸が邪魔になる。宙でおしぼりをくいくいと二三度揺らすので、もしかして怒られるかと思ったら、残念そうにテーブルに置き、箸を握った。箸は、おしぼりに比べてなんと便利な道具なのだろう、麺を引き寄せると、おしぼりではありえないほどの塊が口元にやってくる。それを、やはりつけ汁をつけずに、一気に口に頬張る。店主もわたしも、次はどうなるのかただ見守っている。

きれくれあろは、三口ほど麺だけを頬張って丼を空にしたあと、とよこせんはありますか、と店主に言った。「とよこせん? ない」。店主は、もう注文を受け付けるつもりはない、とでも宣言するように、つっけんどんに言う。もちろん、とよこせんは注文ではなく電車のことなのだろうが、何線であれ、もう終電は終わっている。店主と目が合った。わかった、とよこせんがなんであれ、わたしはもう店主の側だ。このまま隣に居座られても困る。サイフサイフ、とうながしてお金を払ってもらい(これにまたえらく時間がかかった)、出ましょう、出ますと、一緒に表に出た。酔っ払いの体を支えるのは難儀だ。おしぼりにまとわりつく麺の如しだ。そんな難儀なときに「タクシーにしましょう、タクシー」などと東京のことばを使っている自分の態度が、身にそわなくて気持ち悪い。

それにしても、こんな時間にタクシーが簡単につかまるのはさすが東京だ。乗り込んだきれくれあろはなにごとか行き先らしきことばをつぶやき、それで運転手は納得したらしくタクシーのドアは閉まった。東京からとよこせんのどこまで行くのだろう。たぶん、散財することになるのだろうが、しかたがない。カウンターに戻ると、店主が麺付きおしぼりを片づけているところだった。人の食べ残しは気持ち悪いものだ。

わたしのレモンサワーも残っている。

(10/6/19)