ダブルボギーズ 、MOGA THE ¥5、NOWON……
バンドの名前は変わってもベアーズは変わらず!
(監修:山本精一/取材・構成:石原基久)

▲長堀通りにて

 

──手もとの資料を調べるかぎり、ダブルボギーズのベアーズ初ライヴは1988年の11月26日ですね。

エスカルゴ そのころ、確かエッグプラントと併行して出させてもらってるはずです。エッグが89年末になくなって。その受け皿として、ベアーズに流れるバンドもいれば、ほかのライヴハウスに流れる人もいた……。

──その前はというと?

エスカルゴ ボクはもともと京都のはずれ、木津川出身なんで。遅めなんですけど、高校3年になって初めて大阪・寺田町のスタジオあひるに、原爆オナニーズ、アウシュヴィッツのライヴ(1984年5月19日)をひとりで観に行ったんですよ。原爆が始まったら、客もさほどいてないのに前のお兄さんふたりが大暴れしだした。壁にへばりついて怖っ! 何ちゅうとこやと思いました。後でわかるんですけど、泣く子も黙る重鎮先輩でした。いまでも鮮烈に憶えています(笑)。

──関西パンクの洗礼ですね。

エスカルゴ 高校でもコピーバンドみたいなのはやってたけど、梅田の写専(日本写真映像専門学校)に行きだして。そこで知り合うたのがダブルボギーズのメンバーになる。最初、ストライクスって名前でやってたけど、東京に同じ名前のバンドがあって。実際間違う人もいてたから、ダブルボギーズに改名する。80年代中頃いうと、ラフィンノーズを筆頭にAAレコーズの関西の大御所の人らが次々情報を発信し始めた頃にあたるんですね。

──当時、ダブルボギーズは〈ビートパンク〉で括られることが多かったよね。

エスカルゴ ボクらは、バズコックスやディッキーズといったポップなパンク・バンドを目指してたんやけど、たまたまそういう潮流にハメられたっていう。いまやっとネタとして笑って「ビートパンクです」って言えるようになりましたけどね。エッグに出てたバンドはノンジャンルだったじゃないですか。ボクらみたいなバンドもいれば、スタジオを覗いたら、餃子大王が練習してたりアルケミー界隈の人らもいてて。アウシュヴィッツの林(直人)さんやS.O.Bのトッツァンに良くしてもらいました。ボクらはハードコアではなかったけど、ボーダレスな感じでどんなバンドとも接してましたね。

──ダブルボギーズはキャプテンレコードからリリースもあった。

エスカルゴ たまたまだったんですけどね。ガーリックボーイズのラリーさんが紹介してくれはったんかな。演奏力も経験値もない状態で「キャプテンでオムニバスの話あるけど、どう?」って話をもらって。で、出たのが『ストレイト・アヘッドⅡ』(1989年1月リリース)。一緒に参加したのが、札幌のBLOOD THIRTHTY BUTCHERS、EASTERN YOUTHやったりしたから、繋がりもできて。一緒にライヴしたりするようになる。

1989〜92年頃のダブルボギーズ  フライヤー(提供:エスカルゴ)

──いい流れじゃないですか?

エスカルゴ 関西って変わったことやってナンボみたいなのあるじゃないですか。けど、そういうのは東京では通用せんみたいで、けちょんけちょんに言われて。上手いから何やねん! それがノンジャンルでやっていくことに繋がっていくんですけど。向上心とかそういうことにボクらはウトかったというか。ちゃんとしてたら、もうちょっと評価されたかなとは思うんですけど。ボク自身、いつまでお子ちゃまみたいなことやってるんやろ?ってのもありましたね。当時はベアーズに刺激を欲してたところもありました。スタッフの石隈(学)くんも同い歳だったから「エスカルゴ好きやと思うで」いわれて、ヰタ・セクスアリスとか観に行きましたから。そういうバンドに刺激を受けると、自分自身がブレ始めるんですね。好きな音楽をやってるだけなんですけど、無理してる自分がおったりして。どんどん自己嫌悪になって。その結果、ダブルボギーズを解散することになる(1992年末)。

最後のあたりでスーパーチャンク初来日のオープニングをすることなって。メンバーと少しでも喋りたいってのがあったから、通訳をデヴィッド(ホプキンズ)さんにお願いして。デヴィッドさんにはアメリカのオルタナティヴなバンドの情報をいろいろ教えてもらってた。そんな関係ができてたのもベアーズなしには考えられない。ダブルを解散してから自分で何か始めるために足繁く通ったのもベアーズだった。

ダブルは解散して3つに分かれるんですよ。ギターのシンちゃん(大西真)はハードコアに傾倒していって、ODD BALL結成したりグリフィン手伝うたりしとったし、ドラム(松山真悟)、ベース(和田直記)のふたりはBOO BOO’S BIRTHDAYっていうアート的なバンドを始める。ボクはPAGADOってプログレみたいなことやってみたりエモーショナルことやってみたり……。結局それがMOGA THE ¥5に繋がるんですけど。新しいバンドをやるたんびにベアーズでやらせてもらってた。いまでもこうして好奇心旺盛でいられるのは90年代ベアーズに出てたいろんなバンドによるところが大きいと思いますよ。

──山本(精一)さんからディランⅡにハマってた頃の話を訊いてくれとも頼まれてるんですけど。

エスカルゴ 話は遡りますけど、写専やめて次、京都の美術学校に行ったんですね。そこの先輩に「バンド……日本語でやってんのやったら、ディランⅡ聴け」って言われて、ドハマりした。「君の窓から」をカヴァーするようになって。『タイトロープ』(89年12月リリース)にも収録させてもらった。おかんにCD聴かせたら、「この歌ええうたやな」「それ、オレの曲ちゃうんやけど」って(笑)。

大塚まさじさん、西岡恭蔵さんもまだやってはったからライヴにも行って、ご本人に「やらせてもらってます」って挨拶させてもらったこともある。「君らかいな。知ってる知ってる」ってすごいいい人でした。いまもやらせてもらってて、知らん人はおれらの曲と思っている人もいるはず。PAGADOでは三上寛さんと対バンさせてもらったこともありました(94年7月3日)。その衝撃の連鎖いうてええのか、友川カズキさんとかも聴きました。ボク自身あんなことはよぉ歌わんけど、そういう人間の泥臭い部分には影響されましたね。

──95年に始めたMOGA THE ¥5は?

エスカルゴ ベアーズ界隈で知り合うたメンバーで結成した。その頃、ボクは自分を全否定してたんですね。作曲は向いてないから、ひとの曲で歌うということをしてみたかった。ボクが作ってもありきたりな3コードの曲しかできへんし。ハードコア的な曲展開にボクの高い声でシャカって歌うスタイルが……当時の激情的なオルタナティヴなバンドに通じるもんがあったんかどうか……ボク自身その時、自分で考えたこともないコード進行にどうメロディのせたらいいとかで必死やったから。金魚が水面に顔だしてパクパクしてるような感じがエモーショナルに見えたのか? 熱苦しいのがウケたんですかね? MOGAは何だかんだいって17年やらせてもらってましたけど(2011年解散)、ライヴもリリース・サイクルも生活も……ハードな17年間でしたね(笑)。

──MOGAではフェスとか大きなステージに立つことも多かったよね。

エスカルゴ ベアーズでライヴしたのって最初だけでしたね。自分とは違う世界におるなと常に思ってました。身の丈に合うてないというか。そこに自分の気持ちを持っていくとこまで達しませんでした。レーベルがPIZZA OF DEATHでしょ。はけるCDの枚数もケタ違いですからね。スタジアムみたいなとこにも出させてもらって。しょせんフォークかポップなパンクしかなかった人間がハードコア的なことに首ツッ込んだ結果があれ。でも、当時のPIZZA OF DEATHのスタッフにはいろいろな経験をさせてもらったことに感謝しています。

──ダブルボギーズ はMOGAをやってる途中で再結成したんですね。

エスカルゴ ダブルの再発盤が2005年に出て、それをきっかけに再結成の話が浮上した。解散したのが26歳の時で「40代になったらまたやろか」という話はしてたんです。メンバーに声かけたら、「やろ」いうてくれて。単純な話、オレには一番こんなんが似合うてたんやろなと再確認した。演奏力なんて当時のままですからね。85〜92年の6年しかやってなかったのが、再結成してから10年以上になりました。ライヴに来てくれて一緒に歌いたいって人がいるんやったら、みんな元気なうちはやらせてもらってええんかな……と思ってます。

復活ダブルボギーズ のフライヤー2009年(左)と2014年(提供:エスカルゴ)

──メンバーもよく集まったね。

エスカルゴ 和田や松山に子どもじみた話を持っていってもせえへんやろと思ってたんですけど、「お前がやるんやったらやるよ」いうてくれて。メンバーの気持ちが揃ってなかったらダブル復活もなかったでしょうね。誰がトンガってるわけでなし、ただただ居心地がいい。

──MOGAでも詞は書いてたんでしょ。

エスカルゴ 詞は全部書いてました。そういう部分はエスカルゴらしいと言われてたんです。バンド始めた頃(85年)、COBRA周辺の人に歌詞について訊いたことあるんですけど、「歌詞なんかあらへんよ。サビしかない」って言い切ってた。それでもライヴできんのや……衝撃的でしたね。それからウソ英語ばっかりでやるようになって。ボクらも含めて、INDEX、CANDYS、サウスウェストラウディーズ……当時のCOBRAの落とし子みたいなバンドはどこも同じようなことしてたんちゃうかな。そのおかげでレコーディングする時、初めて歌詞に苦しむってことを経験するんですけど(笑)。

──ダブルボギーズ の再結成ライヴもベアーズでしたね。

復活ダブルボギーズ 。ベアーズにて

エスカルゴ 恐る恐る話を持っていったら、「空いてる日どこでも使こて」ということで日程も決まった(2007年11月10日)。十何年かぶりのライヴですよ。にも関わらずお客さんもパンパンに入って。うっそー!って感じでした。クラブで「BOGYS BOOGIEがきこえる」ってかけたら絶対盛り上がる曲になってたらしくて。ダブルのライヴ初体験いう若い世代のコらも大勢来てくれた。日本語やし歌いやすいんでしょうね。みんなでシンガロングできて楽しめたら、それが一番!

2013年からNOWONってバンドをやってるんですけど、たまたまそのメンバーはMOGAの大阪ラスト・ライヴで対バンした仲間やったりするんです。メンバー全員、ベアーズ育ちですね。

現在進行系のNOWON。エスカルゴ(左上)から時計回りに、藤岡亮二、佐藤ナオキ、高田トシロー。ベアーズ楽屋にて。

2022年夏、エスカルゴが出演するライヴのチラシ。7月17日(日)NOWON, 名古屋Live House HUCK FINN 8月6日(土)Double Bogys, 大阪Namba BEARS

──最後にシメの言葉をお願いできますか。

エスカルゴ ベアーズはボクの世界観を広げてくれたハコですね。ベアーズから世界を睨んでる人っていっぱいいるじゃないですか。初めて海外と繋がる音楽があるってことを見せつけてくれたのもベアーズでした。90年代、ボアダムスのメンバーとかに面白い話いっぱい聞かせてもろたから。そいういう人らの話を聞くのが楽しかったし憧れてましたね。あの小さいライヴハウスが世界への窓口だった。山本さん自身そうでしょ。

──エスカルゴくんは海外ツアーとかライヴの経験は?

エスカルゴ ないんですよ。やっぱり日本語でしょ。自分らで絶対無理やと思ってるんですけど、アメリカツアー経験のある原爆オナニーズもガーリックボーイズも「エスカルゴ、言葉なんて関係ないよ」いうてくれはって。それ聞いてから憧れるようになった。NOWONのメンバーも「いつかアメリカに行きましょ」いうてくれるから。世界を見据えるそういうコらが育ってるのは確かに感じます。ベアーズは世界へ導いてくれる箱舟ですね。

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*メモ

  • AAレコード:ラフィンノーズが1983年設立したインディーズ・レーベル。ZOUO、COBRA、OUTOなどを次々リリース。
  • キャプテンレコード:雑誌「宝島」を発行してたJICC出版局(いまの宝島社)が設立したインディーズ・レーベル。1985〜92年の間に、ウィラード、有頂天など、200タイトルをリリースした。
  • スーパーチャンク Superchunk:米国のインディーロックバンド。1992年を皮切りに、たびたび来日している。
  • ディランⅡ:1971〜74年に活動したフォーク・デュオ。メンバーは大塚まさじ、永井よう。楽曲提供していた西岡恭蔵(故人)は初期の矢沢永吉へも詞を提供した。
  • PIZZA OF DEATH:横山健率いるインディーズ・レーベル。Ken Yokoyama、Hi-STANDARDほかをリリース。
  • NOWON:エスカルゴ(vo)、藤岡亮二(ds/ex.ANTI JUSTICE,LAST LAUGH)、高田トシロー(b/ex.Creep,LAST LAUGH)、佐藤ナオキ(g/ex.FRUNTIC STUFFS)で2013年結成。2019年、Hardcore Kitchenよりアルバム『Pop Destroyed Pop』リリース。サブスク解禁! 次作も鋭意制作中。

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