【インタビュー】嘉ノ海幹彦・東瀬戸悟 『vanity records』著者 その6/6

『ロック・マガジン』の編集長であった阿木譲氏が、1978年に立ち上げたインディーレーベル「Vanity Records」。その作品群の正式な再発と、それにあわせて今年7月に発売された総括本『vanity records』(きょうRECORDS)について、著者の2人、嘉ノ海幹彦さんと東瀬戸悟さんにお話を聞いてきました。今回はいよいよ最終回。かつての『ロック・マガジン』編集部の、外からみると無謀とも思える独特のやり方と、阿木氏のポリシーについて迫ります。 (丸黄うりほ)

向かって左から東瀬戸悟、嘉ノ海幹彦。フォーエバーレコーズ難波店で(2021年7月21日)

 

当時の『ロック・マガジン』編集部にはまったく余裕がなかった

塚村編集長(以下、塚村) 『vanity records』を読んで、私は嘉ノ海さんのインタビューが面白かったです。ノー編集というか、普通カットするようなことも拾ってあって。そんなこと聞くの?って思ったら、やっぱり佐藤薫さんにツッコまれたりしてて(笑)。あと、パンデミックのことを必ず話題にしてらっしゃいますよね。

嘉ノ海幹彦さん(以下、嘉ノ海) ありがとうございます。そう、パンデミックのことは全員に聞きましたね。これは阿木さんも言ってたことなんですが、音楽は今のちょっと先の気配をいちばん早く感じとるから、それを言葉として表現したい、雑誌として表現したいとずっと思ってきました。だからミュージシャンにパンデミックのことを聞いたら、その人が考えている今のことがわかるんじゃないかと思って、それだけは聞こうと決めていました。で、佐藤さんが一番面白い返し方をしてきたので、ぜひ読んでほしいなあ(笑)

3.11のこともね。新沼好文くんの話(前回5/6)でも出たけど、DEN SEI KWANの斎藤英次さんも福島の人で、被害にあっているみたいなんですよね。彼が1980年前後に作っていた音楽もインダストリアルっぽくて、若い子に聴かせたら「暗いですね」って言われるけど、その当時は、イメージとしての暗い世界というのを好きな世界としてやっていた。でもそれは、「現実的に起こっている今の暗さとは違う」って言っています。彼は今また新しい音源を作ってカセットでリリースしているのね。まだ音楽をやろうとしている。そういうことを聞けて面白かったな。

塚村 インタビューの途中で嘉ノ海さん、DEN SEI KWANの斎藤さんに怒られてましたよね。リリースを知ったのが『ロック・マガジン』誌上だったということについて、嘉ノ海さんが「失礼な話ですね」と答えたので、「というか、嘉ノ海さんもその時期、編集者だったんじゃないですか!?」って。そのへんは、嘉ノ海さん個人として反省点とかあるんですか?

嘉ノ海 ないです(笑)。というか、今なら作った人に了解を得たりするのが普通だと思うけど、当時はそんなコンプライアンス的発想は全くなかったです。それに正直言ってね、余裕もなかったです(笑)

藤本由紀夫さんへインタビューした時に、僕らのことをどう見てたのかっていうのがよくわかった。彼は僕らに余裕がないのがわかってたんですよ。まあ、さっきから実物を見てもらっているこの『ロック・マガジン』を隔月で出してたんですよ。

東瀬戸悟さん(以下、東瀬戸) 隔月で、ソノシートまでつけてね。

塚村 奥付を見たら、嘉ノ海さんと阿木さんと雨宮さんしかスタッフの名前がないですもんね。

嘉ノ海 おまけに、これを出しながら隔月で『fashion』も発行していた。ということは、あの少ない人数で1カ月に1回は出してた。一方で『ロック・マガジン』の動きと連動してVanity Recordsもあったしね。時代を反映させる音楽雑誌としては、速度と連続性が重要な特性だとおもっていたので、スピード感をもって発行していました。だからとてもじゃないけど本当に余裕がなかった。

『fashion 』1号, ロック・マガジン社刊, 1980年4月/特集1960’s

塚村 『ロック・マガジン』の編集をしていた一人、澁谷守さんに聞いたことがあるんですけど、紙は紙屋さんに頼んで、写植は写植屋さんに持っていって、製版は製版屋さんに、印刷は印刷屋さんに、製本は製本屋さんに頼んで、全部回ったって。たいてい印刷会社に頼んで一括でやってもらいますが、もう、それ考えるだけでもういっぱいいっぱいだと思う。

嘉ノ海 だから僕も全部行きましたよ。印刷屋さん、製版屋さん、製本屋さんに行ったし、お金払えないから作業を手伝ったりもしました。

東瀬戸 その最も分かりやすい例が、これ(『ロック・マガジン』第41号, 1982年/タイトル写真の東瀬戸さんの手にある)ですね。

嘉ノ海 ああ、これこれこれ。Normal Brainのジャケットにスリットを空けてもらった時と同じで、製本屋さんにここに穴開けてほしいって。「そんなんできるわけないやん」って言われたけど、裁断機の部品を変えてこうしたらどうかみたいな話をして。

『ロック・マガジン』第41号, ロック・マガジン社刊, 1982年

東瀬戸 普通じゃないね。中の紙とかいちいち違うし。

塚村 紙を揃えるために、いろんな紙屋さんで集めて?

嘉ノ海 いや、紙屋さんは1軒だけど、紙見本をもらって、ここはこの紙、このページはこれって指定して。

塚村 クラクラします。包装紙みたいな薄い紙も使ってますね。

嘉ノ海 で、輪転機にこの紙がかからなくって。巻きついちゃうんですよ。印刷屋さんが用紙を変える都度インクの濃度を微調整してやってくれました。もう職人技(笑)

——いや、すごいです。よくまあこんな本を作りましたね。

塚村 これ、台割(印刷に合わせてページを割り振りする)するだけでも大変ですよ。

東瀬戸 でもそれ、阿木さんがやってたんよね。

嘉ノ海 そう、阿木さんが指示して写植を切ったり貼ったりはスタッフの仕事でした。ブック・デザインは全部阿木さんでしたね。この薄いクラフト紙は昭和30年代くらいに駄菓子屋さんで使っていた包装紙なんだけど、その世代には懐かしいでしょ。阿木さんがコレに印刷したら面白いっていきなり言い出して決めたんです(笑)。いきなりですよ(笑)

でもこの部分は写真だけのページなんで、記憶を閉じ込めた中から、郷愁を誘うような効果がある。直感的なんだけど理由はちゃんとあるんですよ。そこが阿木さんのデザイナーとしての才能だと思います。自己流だけどね(笑)

結果的には、原稿から写植、版下、製版、印刷、製本と、すべての工程に関わることができて、きつかったけど面白かったです。

 

『遊』や『ユリイカ』に影響を受けて、スタイルを変えていった

——ここまでして阿木さんは何がしたかった?変わった本を作りたかったのかな?

東瀬戸 自分がその時かっこいいと思う、最先端のものを作りたかったんでしょうね。ただ、何か必ず参照した本はある。

——工作舎の雑誌『遊』とかですか?

嘉ノ海 僕らの時は『遊』ですね。阿木さんも『遊』にレコード・レヴューで寄稿していたし、工作舎とは人的な交流もあったしね。

先ほども話したけど、時期によって判型も表紙もどんどん変化してきたんです。1979年の『ロック・マガジン』27号からは明らかに工作舎との交流が生んだ産物だと思います。27号ですが、2001号とナンバリングしてある。『遊』の第2期は1001号からスタートしているけど、『ロック・マガジン』はいきなり2001号からスタートです(笑)。松岡正剛さんから「阿木君には先を越されたなあ」と言われました(笑)。この辺りの『ロック・マガジン』を見ると記事やデザインが『遊』を真似ています。

東瀬戸 嘉ノ海さんがいた1979年から1982年ごろは『遊』だろうね。1978年の月刊時代はイギリスの『ZIGZAG』、その前の小さな判型のころは『ユリイカ』。

——『ユリイカ』は、ここまで凝った造本じゃないけど。

東瀬戸 もっと初期、創刊当時の『ロック・マガジン』にはね、楽しい漫画も載っていたんです。

塚村 びっくりしました、創刊号。「きみたちはこれから先/本当にいいものだけを、純粋に/しかも確実に、/自分のものにして行って欲しい。/この本は、そういう頭のよい君の為の、「面白い教科書」だ」。最初はこんなふうだったのが、次にはがらっとスタイルが変わってしまう。

『ロック・マガジン』創刊号, ロック・マガジン社刊, 1976年

——創刊号のノリは、3号までだけだったんですね。

嘉ノ海 このころはまだお金があったから、全部こんなふうに作ってほしい、って印刷会社に一括してお願いしてたんだと思う。僕らが関わりだしたころは、阿木さん「だまされたんだ」ってよく言ってた。

——それはどういうことですか?

嘉ノ海 最初は本ができるまでの工程すべてを任せていたんですね。だから相場も分からずにいい値で支払っていたということです。実体はどうだったか本当のところは分からないですけどね。

東瀬戸 1976年の創刊号から1977年の7号あたりまで、今は怪獣絵師として有名な開田裕治さんが主にレイアウトを担当してました。

——創刊号の雰囲気は、『ALLAN』とか『JUNE』に近くないですか?

東瀬戸 いや、『ロック・マガジン』は1976年創刊なので、それより前ですよ。このころの誌面は楽しい同人誌の感じですよね。実際、土曜、日曜は編集室が女子高生の遊び場みたいになってた。

『ロック・マガジン』創刊のチラシ, 1976年

——『ALLAN』や『JUNE』が出る前にも、ロック好きの少女たちが作っていたロックスターのやおい漫画の同人誌がありました。やおいとかいう言葉もないころですけど。それに近い雰囲気がある。

東瀬戸 三本柱はロック、漫画、SF。そういう時代でしたね。

——そういう時代の空気感が出ていますね。それが3号だけ出て、4号からは急に『ユリイカ』みたいになってしまう。

東瀬戸 1976年の夏にニューヨークとロンドンに取材に行った後、ニューヨーク・パンクを紹介して文芸誌っぽくなった。

——『ユリイカ』みたいな時代はまだいいとして、『遊』みたいになってくると編集も印刷も大変ですね。

嘉ノ海 松岡正剛さんが『ロック・マガジン』に連載し始めたのが、月刊になった1978年16号(10月号)からですね。それに『遊』には、何㎏のどの種類の紙を使用したとかの情報も載っていましたからね。雑誌でそんな情報を普通載せないでしょ。表紙に文字デザインし始めたのは『遊』が最初だったけど、阿木さんはインレタを使ってローマ字にしています(笑)。こんなセンスも阿木譲(笑)

インスタントレタリングを使用したロゴは上段左から3つ目。

塚村 写真家の高嶋清俊さんとか、グラフィックデザイナーの永原康史さんとかが関わっていたのはそのころ?

嘉ノ海 彼らとの出会いも工作舎の影響はあったと思います。工作舎では読者が集まってテーマに沿って議論や勉強会をする「遊会」が全国各地で定期的に開催されていました。ちなみに「岡山遊会」が今でも毎月続けられています。

つまり、雑誌というメディアを使って会の告知をしていたんです。読者よ、集まれって(笑)。『ロック・マガジン』では、勉強会はやらなかったけど、「遊会」と同じように月1回のレコード・コンサートを開催して読者が集まった。阿木さんがレコードをかけながら話をしたり、読者同士が交流していました。その中から、僕もそうだけど(笑)、『ロック・マガジン』の編集や翻訳に関わるスタッフが現れるんです。

そんな中で写真を撮っている高嶋君やデザイナーの永原君と知り合いました。1979年の年末に開催したイベント「NEW PICNIC TIME」を共同作業としてやっていく過程で、彼らや明橋大二君とも親しくなりました。

東瀬戸 高嶋さんは『ロック・マガジン』でたくさん写真撮ってます。

嘉ノ海 イベントの後、引き込まれるんですよ(笑)。特に高嶋君と僕は、同い年ということもあり、親しくなりました。ちょうど今アップされている復刻『ロック・マガジン』29号の特集「MUSICA VIVA」の編集スタッフに僕と高嶋清俊の名前が記載されています。

それでレコード・コンサートが終わったら、阿木さんが、じゃあ今から飯食いに行こうかとか言って、その後みんなで心斎橋のディスコへ行ったりしました。そんなノリで編集室に行って版下作成の手伝いをしたりし始めた。で、ちょっとこれ翻訳して、とかって阿木さんが言う、遊びの延長のようなそんな感じでしたね。

——嘉ノ海さん、そんな阿木さんによくつきあってましたね(笑)。

塚村 それで、この本『vanity records』にも書いてありますよね。「僕も最後はボロボロでした」って。

嘉ノ海 そうそう。ボロボロやったもん。寝る時間とかもないしね。

——こきつかわれていた?

東瀬戸 みんなそうだと思う。お金もらった人間なんか誰もいてない。

嘉ノ海 後先を考えていなかったんで(笑)、今となっては楽しかったです。それまで考えていたことや時代や社会に対するリアルな感覚も新しい音楽をベースにして表現できるんですから。『ロック・マガジン』との関わりの深い浅いはあると思いますが、みんなもそれなりに楽しかったと思います。思い出したくないこともいっぱいありますけどね(笑)

 

阿木さんの『ロック・マガジン』はカルト?

——結局、阿木さんは自分のやりたいことがあった。それはわかりますけど、それを人につきあわせて、やらせて……。2、3年で入れ替わるかもしれないけど、それでも人が来るんですよね。それって、なんなんですかね。

東瀬戸 最初は阿木さんの人間性や仕事のやり方をよく知らないまま、本だけを見て凄い人だと思って近寄っていくわけ。それである程度までは頑張るんだけど。

——でもみんな2、3年で力尽きて。

東瀬戸 いや、早い人は1号だけで去っていく。それが繰り返されているだけ。

塚村 澁谷さんは高校2年生から関わって2年くらいいて、一度離れて(笑)また戻って、4年半くらい参加したと言ってました。

嘉ノ海 僕が抜けた後も残っていたから、長く関わっていたと思う。

東瀬戸 彼のことを、阿木さんは秘蔵っ子だって言ってましたね。実際、「シュルファシズム」特集のイギリスとヨーロッパ取材に同行してるぐらいですから。渋谷くんは自費で行ってるんですよ。普通だとありえないでしょ。

——『ロック・マガジン』の元スタッフのなかで、私は羽田明子さんが気になります。

東瀬戸 羽田さんは僕の高校時代の友達です。イギリス留学のために神戸のインターナショナルスクールに行ってた。彼女も『ロック・マガジン』の読者で、ミニコミ作ったり、一緒に編集室に行ったりしたかな。1979年夏にロンドンへ引っ越して、その時から『ロック・マガジン』に現地の最新の音楽動向を書き始めて、アーティストインタビューもとってきた。

塚村 羽田さんは、結構長年にわたって書いてますよね。

東瀬戸 といっても、ほぼ2年くらい。

嘉ノ海 羽田さんは僕がいた時期とかぶってるんですよ。彼女はロンドンから特集記事として送ってくれていたんでデザインして組み込みました。そのレポートからこちらでも刺激を受けて記事を書き、雑誌に厚みが出ました。単にインタビューの内容だけではなく、羽田さんの文章そのものもよかったし、『ロック・マガジン』の記事内容やレコード・レヴューにしても信憑性が出たしね。

——羽田さん以外にも、外国からアーティストインタビューとって送ってきてくれるような人はいたんですか?

東瀬戸 彼女のように継続的に協力してる人はいなかった。ジョイ・ディヴィジョンやスロッビング・グリッスル、バウハウス、モノクローム・セット、ワイヤーなんかの記事を書いてます。

嘉ノ海 それに『fashion』創刊号ではイギリスのモッズを中心に「1960年代」を特集したんだけど、羽田さんは現代のモッズについてのレポートを書いている。

東瀬戸 ジョイ・ディヴィジョンって、今でこそしまむらでTシャツが売られてるような存在だけど、日本人でジョイ・ディヴィジョンのライブみているのって3人くらいじゃないかな。ミュートや4AD、クレプスキュール、その後に大きくなるインディーレーベルのごく初期に取材して、写真や資料もたくさん送ってきてました。

『ロック・マガジン』の情報の速さは彼女がいたから。向こうで起こっていることをどこの雑誌よりも早く、的確に伝えてきた。

——他の音楽雑誌はレコード会社の宣伝部なんかを通って情報がくるから、時間がかかりますもんね。

嘉ノ海 なんせ、ほとんどインディーズでしょ? それに『ロック・マガジン』というモノがありますからね。レーベル・オーナーやミュージシャンに見せたら分かりますよ。そういう意味で相乗効果もあったし、もちろんそれも意識して編集していました。だから阿木さんの海外取材にしても『ロック・マガジン』を読んでいるミュージシャンの写真が多いでしょ。一気に盛り上がる。

東瀬戸 みんな出始めの小さなレーベルだった。だから羽田さんの力はものすごく大きい。

嘉ノ海 そう。毎月のように新しい音楽がミュージシャンの手で出現している時代だったから、羽田さんが積極的に取材して送ってくれないとわからなかった。しかも生の声だしね。編集室ではワクワクしていた。

——今でこそインターネットがあって外国も近くなったし、誰でもできることかもしれないけど。当時はなかなか外国って遠かったですよね。

東瀬戸 羽田さんのほうも阿木さんと距離があったからできたんだろうね。ロンドンにいて、そこから情報送るわけだから、とくに阿木さんともめることはない。でも持ち出しですよ、彼女にしたら。

——でも、好きなことだからいいわ、っていう感じだったんですかね。

塚村 わかるような気はします。

東瀬戸 ただやっぱり、編集の現場にいた人たちはもう大変ですよ、それは。

塚村 阿木さんのことは、クラブや街でお見かけする程度で、その生の魅力は私にはよくわからないんですけど。藤本由紀夫さんは『vanity records』のインタビューの中で「オウム真理教」みたいと言っていますね。

嘉ノ海 まあ藤本さんの目にはカルトだと映ったかもしれないけど。連合赤軍とかね、極端ですけど。僕がなんで逃げなかったかっていうと、あそこで起こったことが僕のなかではね……。

——逃げられなかった(笑)。どうしてですか?

嘉ノ海 たしかに、洗脳されていた部分もあったのかも(笑)。カルトといった側面は否定できないけど、阿木譲という存在が魅力的だったということだと思う。雑誌編集という共同作業の現場の中で生き方まで問われ、傍観者ではなくなっていったんですよ。そんな現場での出来事は覚えていないことも多いです(笑)。聞かれたら思い出すけど(笑)。でもまあ、もめ事は多かったなあ(笑)

いい悪いは別にして、音楽という芸術は人の世界観をいとも簡単に変えますよね。場合によってはその人の生き方さえも変えてしまう。明らかに内部では化学反応が起こっているんです。この場合は、阿木という強烈な魂に出会うことによる化学反応です。逆にいうとそれだけ魅力的な人物でもあったと、まあ実際に関わってみないと分からないですけどね(笑)。でもさっきも言いましたが、スタッフとして関わった人により『ロック・マガジン』は判型も含め変化していきますから、阿木さんにも化学反応が起きていたんですよ。

——阿木さんには、いい人を見抜く目があった。

東瀬戸 結構うまいですよ、そういうのは。マインド・コントロールとまではいわないけど、その人にとっての痛いとこついてくるんですよ、すごく巧妙に。それで、自分が悪いのかなとうっかり思わせてしまうような力はあった。

——やっぱりちょっとカルト的ですね。

塚村 あと、スピリチュアル? 明橋大二さんもインタビューの中でおっしゃっていますけど、ちょっとスピリチュアルなことを雨宮ユキさんと阿木さんが言うと、実際にそんなことが起こるとか。

東瀬戸 僕は、それは感じたことなかったけどな。

嘉ノ海 僕もそれはなかった。でも、やっぱりユキさんという存在は大きかったと思う。阿木さんとの間に入って緩衝材になっていたしね。

——雨宮さんは阿木さんの配偶者なんですか?

嘉ノ海 籍は入れてないけど歌手時代からずっとパートナーで、実質的には配偶者ですね。

東瀬戸 雨宮さんはマネージメントや編集スタッフの身の回りの世話もされていました。

嘉ノ海 『ロック・マガジン』は僕が関わっていた時期と、その後、田中浩一さんが関わって、月刊誌に戻ったころでは全然違うものになっています。それだけその時々のスタッフの関わり方により変化が大きかったって思うんですよ。工作舎とはまったく違う。それに工作舎のスタッフは給料もらっていたしね。

東瀬戸 工作舎はちゃんとした会社だから代表として松岡正剛さんがいたけど、工作舎イコール松岡正剛ではない。でも『ロック・マガジン』はいろんな人たちがその都度関わっていたにせよ、最終的には阿木譲が一人なわけです。

——阿木さんは、とにかくいろんな人を巻き込んでいくんですね。

 

『vanity records』を、時代の痕跡ととして残しておきたい

塚村 でも、『vanity records』という本は、あまり編集や造本にこだわってないですよね。阿木さんが見たら怒るんじゃないか、とか。

東瀬戸 この本は中村さんが監修者なのでね。

——まあでも、あまり編集していない雑多な仕上がり、それが混沌とした阿木さんの作ってきたものをある意味象徴しているところもあると思います。

東瀬戸 こんなの、まとめようがないよなぁ。『アイデア』に阿木さんの仕事が取り上げられた時は「阿木譲のデザイン」に限定しているから紹介できた。けど、それに状況とか音楽性とかそんなことまで反映させてまとめることなんて無理だからね。

嘉ノ海 実はこの本『vanity records』には、あとがきがありまして、その文章がこれなんです。言いたかったのはね、要するにレコード、ヴィニール盤に刻まれているものが音楽の本質かも知れないってこと。

あとがきにかえて。

「石の中に宇宙の謎が文書として記録されている」。ロジェ・カイヨワの『石が書く』から再び引用しよう。

この石に刻まれた痕跡のように、ヴィニール盤の中で溝として刻まれ記録されているものが音楽の本質かもしれない。エジソンに先駆けて、フランスの発明家で詩人のシャルル・クロスが記録装置として最初の音源に使ったのは声だった。声とは息であり霊魂と同じ肌触りを持っている。あるいはドゥルーズの襞でもよいが、もうひとりの自分の記憶が、こうしてVanity Recordsの音源やインタビューを通して、こんな惑星の動きをどこかの天体で見ているのかも知れない。

各行為は創造であり、その対話だと思われる。こうしてあとがきを書いている間も、寸分の狂いもなく誰かと対話しているのだろう。

Vanity Recordsは、ドキュメントとしての役割を果たし時代の痕跡となり歴史と繋がることを証明している。

そしてまだ見ぬ後継者への受け渡しとなるだろう。

——これを読むと、ライブよりもレコードという感じですね。東瀬戸さんは「FOREVER RECORDS」というレコード店の人だし、嘉ノ海さんは『ロック・マガジン』の編集者だったから、お二人は本質的に音楽の記録に関わる人なんですね。

東瀬戸 阿木さん自身も基本的にライブパフォーマンスにほとんど興味のない人だったね。

——クラブを経営してたのに?

東瀬戸 やってたけれど、基本的にレコード。それもアナログ盤。CDもあまり買わなかった。

塚村 レコードをオブジェとして愛でる。

東瀬戸 そう。音楽の入ったオブジェとしてね。でも、コレクター的にフェティッシュに愛でるんじゃなくて時代を読み解くツールと考えてた。

嘉ノ海 モノなんだよね。石の中に刻まれているっていうのと同じように。

塚村 造本も、雑誌でこんなのなかなかないですよ。

東瀬戸 それもオブジェとしての価値を高めるために、って考えたんだろうね。

嘉ノ海 この『vanity records』という本では、「Vanity Records」に関する情報やインタビューを書籍化することによってアーカイブとして残したい。時代の痕跡として残しておきたい。だからこれはドキュメントっていってもいいかも知れないですね。

——大事なことだと思います。この花形文化通信のインタビューでもかつてのことを聞くことが多いんですが、まだ関係者が元気でしゃべれるうちに声を記録しておくってことにはある程度意義があると思います。

塚村 いまの嘉ノ海さんの発言をきいてすっきりしたんですけど、要するに阿木さんが作っていたブックとかブックレットとかマガジンというのと、今回出た『vanity records』という本は違う。ドキュメントだと思えばこの形はありですね。

嘉ノ海 最終的には、これを後継者や後続者、あとの人に受け渡したい。

——なるほど。阿木さんが作っていた本はオブジェで作品だけど、中村さんが作った今回の本はアーカイブで、資料なんですね。

塚村 手ざわりが違うもんね。

東瀬戸 阿木さんの本は全部「オブジェ・マガジン」なんですよ。

——「オブジェ・マガジン」っていう言葉、ありましたね。

嘉ノ海 『遊』のキャッチフレーズですね。オブジェとは物神、または物霊です。『ロック・マガジン』も『fashion』も阿木さんと編集スタッフの魂が込められている本でした。

塚村 えっと、やっぱりスピリチュアル(笑)

嘉ノ海 そこまでは……。阿木さんは、本が好きな人を嫉妬させるような本を作りたいってよく言ってた。

塚村 そういうワードにちょっとクラッとくる?(笑)

嘉ノ海 くるんですよ(笑)

東瀬戸 そんなこと言われたらね。『遊』は斬新だったけどページ割とかはちゃんと決まってた。当たり前ですが。

——『遊』はすごかったですよ。だってブックデザイナーが杉浦康平さん、羽良多平吉さんでしょう。一流の人ばかりじゃないですか。

東瀬戸 対して、こちらは阿木さん一人。こんな人が現場のたたき上げ経験とセンスだけで作っちゃったのはすごいよ。

塚村 だからいいんですよ、リードがなくても。

東瀬戸 そういうことです。

嘉ノ海 このデザイン力というかこの感覚が阿木さんの才能ですね。僕は軽々と『遊』を超えていると思ってます。

——セオリーからはずれている。手づくり感もありますよね。

東瀬戸 本だけでなくてフライヤーとかも手づくりでしたね。無料配布の冊子ですらこういうことをしていた。

塚村 阿木さんの熱量たるや、すごいですね。まだまだ阿木さんには面白い話がありそうですね。嘉ノ海さんは引き続き、ウェブで「Vanity Records」関係者のインタビューを続けておられますね。

嘉ノ海 そうなんですよ。前回お話したremodelのミュージシャンKENTARO HAYASHI、Junya Tokudaに続きIsolate Lineのインタビューをきょうレコードのホームページにアップしました。次はremodelを主宰し生前の阿木譲と公私にわたって関わりのあったenvironment 0g [zero-gauge] の現オーナーでDJでもあるJunya Hiranoを予定しています。

また、関係者のインタビュー記事と『ロック・マガジン』の復刻、非公開になっていた阿木のブログ抜粋、阿木譲論をまとめた単行本『阿木譲の光と影』(仮名)を来年2022年2月25日にスタジオワープから出版予定です。

ぜひご期待ください。

——お二人には長時間にわたり、いろいろお話いただいてありがとうございました。

(2021年7月21日、大阪市フォーエバーレコーズ難波店で取材。写真: 塚村真美)

*これまでのインタビュー記事はこちらから

『vanity records』

監修 中村泰之
著者 平山悠 能勢伊勢雄 嘉ノ海幹彦 東瀬戸悟 よろすず
発行元 きょうRECORDS
発売元 株式会社スタジオワープ
価格 3750円(税込)
B5版392ページ、CD 2枚付き

 

※発売中。お取り扱いはFOREVER RECORDSまたはAmazon で。 詳しくはこちら