1986年、産声をあげたライヴ・スペース「ベアーズ」。
30数年になんなんとする歴史には、とかくさまざまな伝説がつきまとう。
それらの実態やいかに!?
本欄では、店長・山本精一を皮切りに、ゆかりの人たちにベアーズにまつわるアレやコレやを語っていただく所存。(監修:山本精一/取材・構成:石原基久)

写真:Taiqui

――『ぷがじゃ』(関西の情報誌,1971-87年,プレイガイドジャーナル社)に、ベアーズのスケジュールが載り始めるのは、1987年1月号が最初。それまでにもライヴはしてたんやね。

山本 86年の春にオープンしたはずなんやけど、情報誌にライヴ情報を持っていくことすらしてなかったんかも。ベアーズって一切アーカイブを残してないから。

――ぷがじゃに載った87年のスケジュールをコピーしてきたんで、見てもらえますか?

情報誌『ぷがじゃ』1987年1-12月号ライブスケジュールより抜粋

 

山本 わっ、懐かしいなぁ。ハーレム・リバーっていうのは初代店長の宮野くん(当時高校2年生)が関係してたバンドや。音はロックンロール。オレとかが関わる前、宮野くんたち高校生スタッフがやってた頃を象徴するバンドやね。2月の「サイクス、マイトレイア」とかはオレがブッキングした。憶えてる。

――A Decade-IN FAKEとかハレルヤズとかもそうでしょ。

山本 そやな。5月の花電車、ゴング・ビータ(のちのゴング・ダービー)とかは完全にそやわ。オレ自身もボアダムスに入ったのが86年の秋やんか。想い出波止場はもうやってたかな。自分の周りの連中に声かけるしかなかったというか。

――この頃はまだエッグプラント(ライヴハウス,大阪・花園町,1984年10月-89年12月)があったでしょ。ベアーズはどういうハコにしようと思ってた?

山本 どんなハコにしようまで頭が回ってなかった。もうとにかくバンドをどこから引っ張ってきてええか…ばっかり。でも、こうしてスケジュールみると、オルタナティヴって感じじゃないな。まだそういうのの黎明期で試行錯誤してる状態というか。フォークテイルズのメンバーなんてまだ全員学生ちゃうか。ライヴの数も少ないし。どうやって経営してたんやろ。この数やったら家賃払うのも無理やん。

――当時、大阪にあったライヴハウスは、梅田にバーボンハウス、バナナホール、アムホール、心斎橋にミューズホール……。

山本 まだ発想がホールやねん。

――10月に十三にファンダンゴがオープンするみたいな時期。

山本 オレらの前の世代、ラフィン・ノーズとかがブイブイ言わせてて。S.O.B.、OUTOとかハードコアの連中はエッグがメインやし。ネオアコのバンドもポツポツいたけど、敢えてうちに出てくれるにはどうしたらええんか…。必死やったよ。ファンダンゴはちゃんとしたハコだったよね。オレらにしたら、メジャーや。ヤバめのハコいうと、エッグ…あと徳さん(徳山喬一,アウシュヴィッツ等のギタリストとして活躍,故人)がやってたアウトクラブ(大阪・日本橋,1987年10月-88年4月)。そこに88年ごろからうちが加わる感じちゃうかな。いまでも出てるバンドはバラバラやけど、うちの色ってのがあるやん。オープン当初は、色もなんにもなくて…ロックンロール、サザンロック、メタル…それにオレが突っ込んだヘンなバンドが混じってる感じ。ほんまにバラバラ。色が出てくるは88、89年ごろからかな。やり出したら、そら、ブッキングするオレの色が出てくるわ。

――8月に「中之島まつり スーパーセッション」って企画をやってるけど、そもそも「中之島まつり」の企画団体に関わってたのが、ベアーズに繋がるんでしたっけ。

山本 そのへんは『がんばれ!ベアーズ』(2018年6月,DU BOOKS刊)でしゃべってるとおり。「中之島まつり」ってごく普通の市民まつりやん。大学に入ってすぐぐらいに、高校のツレがプロデュース・企画団体みたいなんやってて、誘われてんな。市民まつりの中でオレら浮きまくりで。まつり本編とは別にいろんなイベントを外でやったりしてたんやけど、オレがやった企画はことごとく失敗した。のいづんずりを中之島の野音に登場させたりもしたんやけど、場所が全然あってなかったり。やから、ベアーズ初期はあくまでスタッフやった高校生たちのサポートをするつもりだった。結果的に足引っ張ってばっかりやったけど。

――福岡風太さん(大阪春の風物詩「春一番」コンサートの名物プロデューサー)への憧れとかあったんじゃないの?

山本 「春一番」には中学くらいからよう行ってた。でも、実際自分でイベントなりプロデュースなりをするってなると難しいわけで。スタッフたちも高校へ行きながらライヴハウスなんてやっぱ無理やん。中退したり、PAやってた子は琵琶湖で水の事故で死んでしもたり…。そうこうするうちに、高校生スタッフが宮野くん以下全員やめてしもて。86年の秋ごろいったん閉店するんやな。そんで、改めてオーナーやった民野政道(愛称は「熊」,ベアーズという店名の由来の主)っていう人から頼まれる形で、オレはじめ、津山篤、柴山伸二、PAの奥成一志なんかが、87年の頭から関わるようになるんや。

 

2018年9月4日、大阪を襲った台風21号により、オープン以来「ベアーズ」の入口を飾ってきたネーム入りテントが無残に破れた。(写真:USGKZ)

2018年11月吉日、新調したテントには新たに「1986」の数字が。 ベアーズはまだまだやる気だ!(写真:石原基久)

 

 

 

 

 

 

 

 

現在のベアーズのスケジュールについてはこちら。LIVE SPACE BEARS