【インタビュー】塚本邦雄「花形文化通信」NO.77/1995年10月号1951年歌壇にデビュー。
以来、前衛短歌をリードしてきた歌人は、評論家にして、大学教授。
この白髪のお洒落男爵は、音楽、美衛、映画、文芸etc.と
桁外れにgourmetな芸術鑑賞家でもある。
旧仮名遣いの美しい日本語を巧みに操る言葉の錬金術師の本の一冊が、
この度、初めて現代仮名遣いを許された。
独断的シャンソン鑑賞録について、
寺山修司は「不思議図書館」で、こう惹句を附した。
「歌うゴリラのシャンソン読本」と。

――前衛短歌を、寺山修司とともにリードされていましたが、大変仲が良かったとか。

塚本 よく家へも遊びに来ていました。家の息子がまだ中学生の頃でした。息子が汗を拭いていたので、春か夏の頃だと思うんですが、寺山が「青史※※くん、こっちへ来いよ」と息子を呼んで「僕、いま上半身裸だから行けません」と答えると「いいよいいよ、下半身裸でもいいからこっちへ来いよ」なんて言って。そんなこともありました。

――先生は短歌で、怖いような大変美しい嘘をおつきになりますが……

塚本 日本の伝統には二つありまして、確かにあったことを事実のうえで正確に見つめて正直に写し取ることがリアリズム=写実主義であるというのがひとつ。私はそれと正反対の方なんです。つまり、有り得るであろうことを、まだ起こっていないんだけれども、実際に起こっているよりも、さらに迫真的に鮮烈に表現するのが、真のリアリズム=サンボリスムであると。それしかないんです。最初から最後までそうです。私は私の道を行っておりまして、やっと私の方がこのごろ正論として通用するようになりました。

――軽くて楽しい歌も時々混じっていますね。

塚本 猛烈に毒々しい皮肉を言うときは、その裏で必ず軽いユーモアを流すわけです。軽いと思って読んでると、今度は恐ろしい皮肉だったりする。

――親や兄弟が出てくる歌も多いですが、最初読んだときはなんて複雑な家なのかとこんがらかりました。

塚本 (笑)私生活べったりな歌は絶対作りません。四人兄弟の末っ子ですけれど、弟、妹の歌は腐るほどあります。私どもの大先輩に斎藤茂吉という大歌人がいましたね。私よりもっと幻想的な、事実なんかそこのけ、というような歌を作るんですよ。でも弟子に向かっては嘘はついちゃいけない、なんて言うんです。アララギという大きな集まりの中にいますとね、そういうこと(事実より美しい嘘がある)を言いますとね、異端扱いされます。心の底では、事実というのが一番大事と思っていらしたんでしょうね。ヨーロッパヘ留学された折りにゴッホの絵を見て、たとえばひまわりの絵なら花弁の一枚一枚に到るまで精緻に文章で描写している。そういうやり方を私は尊敬しますけど、でも虚しいことをするなと思うんです。ね、そんなことがどうだっていうんです。カメラで写せばいい。それより自分の心のエクランに写し取ったものが一番いいんです。茂吉はゴッホやゴーギャンを好みましたが、それ以後のシュールレアリスムは全然、受けつけなかった。

――先生の歌にはクレーやピカソなんかが出てきますが、お好きな絵は?

塚本 八月の終わりから九月の初めまでスイスに行きました。見残していた素晴らしい絵で、まだ見ていない絵を全部見ようと思って行ったわけです。その最たるものは、セガンティーニで、サンモリッツに美術館があるんですが、傑作はそこにはありません。最高作には「よこしまの母たち」という絵と「よこしまの母」という二つの絵と「悦楽の劫罰」という絵があるんです。「よこしまの母たち」はチューリッヒの美術館でつかまえました。図版ばかりで見ていて本物は見ていなかったんです。絵は雪原の中に枯木が一本立っていて、その枯木に女の人が三人髪を絡ませて宙づりになってるというものです。一人の「よこしまの母」の方はウィーンの美術館にあるんです。どうして一緒に置いとかないんでしょうね。「悦楽の劫罰」は手品で美女が中に浮いてる、そんな感じの絵です。ところがね、日本人にセガンティーニという絵描きがどう認識されてるかといえば「チロルを中心とした山と湖の中の素朴な農民の生活を実にたくましく描いた牧歌調の絵が有名」なんていう具合です。絶対に違います、若い晩年に近づくと幻想的な絵なんです。茂吉は滞欧時代のメモにも「アルプスの雪景色らしい。近景に女性が描かれているが、私はそういう人物は抜きにして、雪野原だけを見ていたかった」などと書いているんです。バカじゃないですか。あと、ホードラーの絵もいいのは全部ベルンにあって、これを見てきたのと、パウル・クレーもそこにいいのが集まっています。クレーの初期はエッチングなんです。「枯木の上の処女」という、イバラのような木の上に女の人が裸でまたがっている絵ですけれど、縫針の先に溝をつけて描いたんじゃないかと思うくらい繊細な、ゾッとするような絵です。その次には「船乗りシンドバッド」のような童話的な絵を描いて、最後には太い線でアブストラクトの出来損ないみたいな絵を描きました。私、あれは見る気がしません。

――そうですか。先生は恐ろしくいろんな芸術に知識が深いですが、どうしてでしょう。今度増補改訂版が出版された「薔薇色のゴリラ」ではシャンソン歌手を30人選りすぐられ、鋭い耳で聴いた鑑賞録をお書きになっているし。

塚本 私、貧欲なんです。シャンソンの本も書きましたけれども、本当に一番好きなのは“メロディ”。フランス語で歌曲のことをメロディといいまして、ドイツ語ではリートですね、そのほうがコレクションは多くてそればっかりなんです。幸いなことに1960年くらいからね、シャンソンの世界で、シャンソン・リテレールという文学的なシャンソンが出てきた。ボードレールもヴェルレーヌもアラゴンもシュピルヴィエルもジュネも歌ってます。「ああ、いいこと、やってくれたなあ」とそれから深入りしました。

――本ではかなり毒舌で、歌手を歌を斬ってらっしゃいますよね。

塚本 思いっきり書けるというのは素人の強みです。レコード会社のお抱えさんみたいな批評家には、私みたいには書けませんからね。宣伝にはどれもこれも名曲みたいに書いてある。嘘です、そんなの。ジルベール・ベコーもイベット・ジローも大嫌い。そして例え大好きなプラッサンスでも心に残るのはせいぜい5曲です。

――タイトルになっている「薔薇色のゴリラ」もブラッサンスの曲ですよね。

塚本 ブラッサンスは天才です。「トウール・デ・ミラクル(奇跡の塔)」というおそらく20代に書いた小説の本を先日、モレシャン夫人(永瀧達治夫人のフランソワーズ・モレシャン)からいただいて再認識しました。ブラッサンスが生まれた町、ヴァレリーが生まれた町、南仏のセートにも行ってきました。その町のヴァレリー博物館の中にブラッサンスの部屋がありますが、そこより私の方がずっといいコレクションも豊富です。あの人は「リラの門」というルネ・クレールの映画の頃が最高潮なんです。私は40歳以後のブラッサンスにはお別れしたい。レコードは持っていますが聴きません。

――そんなふうに、いろんなところで深入りなさってるわけですね。

塚本 浮気のせいでしょう。ひとつところに落ち着いていられない。何もかも試してみたいんです。で、すべて関連がありましてね。シュールレアリスムといいましても、絵だけじゃなしに文章ではアンドレ・ブルトン他20~30人はいますし、関連的に全部知らなければ、例え専門外としても中途半端じゃねえ。短歌という一番古典的な詩型に没入しながら、しかも私はなんでも深入りしていく。杓子定規に自分の学んだある方面だけを一所懸命穴を掘るように追及するのも感心ですけど、もうそんな時代じゃないと思うんです。学生をみていてそれは切実に考えてる。【インタビュー】塚本邦雄「花形文化通信」NO.77/1995年10月号

――近畿大学の教授でもあるんでしたね。

塚本 非常に優秀な大学院生がいて、彼は大きな電気工事店の息子なんですが、家業を継ぐというので、それはもったいないんじゃないかと、言ったんです。すると「日本浪漫派を修士論文にした男が電気商したらいけませんか」と言う。そんなことはない、私はそういう社会を望んでるんです。近代短歌をかなりマスターして卒業するゼミの学生も料理人を志望しています。いいじゃありませんか。私は学生がいいことを言ってくれて、かえって人生案内をしてくれたと喜んでいるんです。世の中そんなヤツばかりだったらいい、隣の煎餅屋のオッサンが連歌の達人とか、昔はそんなこともあったわけですよ。

――大学ではどんな研究を?

塚本 中世から近代までの定型詩と歌謡のすべて。殊に新古今、玉葉、風雅の世界です。相当奥が深いし、いわゆる国文学者の先生方の説にどうしても納得いかないところがありまして、それを真っ向から粉砕するためにいろんなデータを検証しています。勉強しなければいけないことがたくさんありまして、一日一日がすぐ経っていきます。

(インタビュー・構成:塚村真美)

「塚本」氏の本来の表記は「塚本」ですが、閲覧環境によって正しく表示されない場合もあるため「塚」としています。
※※「青史」氏の本来の表記は「靑史」ですが、上記(※)と同じ理由で「青史」としています。

「花形文化通信」NO.77/1995年10月1日/繁昌花形本舗株式会社 発行)