名古屋市市政資料館(旧名古屋控訴院)の階段(2024年撮影, 名古屋)

「旧名古屋控訴院の階段」

文・写真 下坂浩和

映画やテレビを見ていると、ドラマやコマーシャルの背景に映っている建物のほうが気になることがあります。背景の方に目がいってしまうのは自分の知っている場所であることが多いのですが、たまに知らない場所だけどこれはどこだろう、と気になって、内容が頭に入ってこないこともあります。今回取り上げるのはNHKの連続テレビ小説「虎に翼」で、はて?この階段、セットには見えないけれど、どこの階段だろうか?と興味を持ったものです。これまで取り上げた建築史や建築家の作品としてよく知られているものとは異なり、いわば特別編というわけです。

インターネットで調べると、テレビで見てこの階段が気になった人は多かったようで、書き込みもたくさん見られます。すぐに名古屋市市政資料館の階段であることがわかりました。1922年(大正11年)に完成したこの建物は旧名古屋控訴院の庁舎として建設されたもので、設計は司法省営繕課がおこない、工事計画総推主任の山下啓次郎(1867-1931年)と設計監督工事主任の金刺森太郎(1863-1929年)が担当しました [*1]。

控訴院というのは明治憲法下で地方裁判所の上級に置かれ全国に8カ所造られた裁判所で、おおよそ現在の高等裁判所に相当します。1979年(昭和54年)に名古屋高等裁判所が別敷地に新築移転された後、1984年(昭和59年)に重要文化財に指定されて保存修理工事がおこなわれました。そして、1989年(平成元年)の開館以来、名古屋市市政資料館として現在も利用されています。ちなみに設計を担当した山下啓次郎は奈良刑務所をはじめ、いくつもの監獄の設計に携わった建築家で、ジャズピアニストの山下洋輔さんの祖父にあたります。

この建物は、文化庁が運営する文化遺産オンラインでは「赤い煉瓦壁と白い花崗岩の色調の対比がうつくしいネオ・バロック様式を基調とする官庁建築である。」と記されています。そもそもバロックというのは16世紀末から17世紀初頭にかけてイタリアで誕生し、ヨーロッパ全土に広まった凝った装飾と劇的な空間が特徴的な様式で、18世紀には装飾を抑制した新古典主義に取って代わられました。しかし19世紀のヨーロッパでやっぱり権勢を誇示するためには装飾に彩られた劇的な空間がふさわしい、とバロックのような様式が国や地域を代表する建物に再び取り入れられ、これがネオ・バロックと呼ばれています。

明治時代の日本に西洋建築が紹介され、近代化を目指す国家プロジェクトには西洋の建築様式が取り入れられたのですが、欧米に実在する建物をお手本に、どうすれば日本でもつくれるかを模索しながら建てられました。それ以前の日本には、ルネサンスもバロックも新古典主義もありませんでしたが、ネオ・バロックは当時のヨーロッパでも最先端に近い様式として日本の近代建築に取り入れられたようです。

ネオ・バロックの代表的な建物としは、シャルル・ガルニエ設計のパリのオペラ座(1974年)が知られていますが、日本国内では1909年に建設された旧東宮御所(片山東熊設計、現在の迎賓館赤坂離宮本館)が挙げられます。どちらも内外に豊な装飾が施されています。

さて、旧名古屋控訴院に話を戻しましょう。この階段は中央玄関を入ってすぐの階段を1階分上がった正面にあって、2階から3階に上がる階段です。まっすぐ上がって途中で左右に分かれる階段で、同じタイプの階段としてはやはり、パリのオペラ座の大階段が知られていています。オペラ座のほうは左右に分かれる踊り場の正面に劇場への入り口があるのですが、旧名古屋控訴院では正面の壁にステンドグラスが嵌められています。

同様の階段は、まだ見に行ったことはないのですがウィーンにあるオーストリアの最高裁判所「Justizpalast (The Palace of Justice)」(1881年)にもあって、ここでは正面に剣を手にした大理石の女性像が据えられています。正義の像を正面に見ながら上がってきて左右に分かれる階段です。旧名古屋控訴院のステンドグラスはよく見ると天秤がデザインされていて、やはり公正中立の象徴が階段の正面に据えられているのです。

この階段で一番目につく部分は大理石の手摺です。この石はいろんな色の破片が混ざった人造石のように見えますが、岐阜県の大垣市で採れた「更紗」という銘柄の大理石です [*2]。このような断面形状の手摺を石でつくろうとすると、表面は手で磨かなければなりません。大正時代にはこのような仕事が可能でしたが、今の日本でそれだけの手間をかけることはほとんど不可能です。特に階段が左右に分かれるコーナー部分では手摺が曲がりながら上っていくので、彫刻のような仕上がりになっています。

もうひとつの特徴的な仕上げ材料は、階段を取り巻く上階の廊下を支える黒い柱です。この柱の上の部分は黒い石に見えますが、実は漆喰塗りで石の模様を描く「マーブル塗り」という技法で仕上げられています。日本ではこの大きさで柱に使えるような大理石を採ることができず、当時は海外から輸入することもできなかったのでしょう。この柱は実は煉瓦を積んだ構造なので、それならば表面を左官で仕上げて石模様を描けばよい、という発想です。しかしこれはわが国の発明ではありません。

以前、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の本拠地である学友会館(ムジークフェラインザール、1870年竣工)に行ったときに、エントランスホールの柱が全て石模様を手描きで描かれているのに気づいてびっくりしたことを思い出しました。明治、大正期の建築家たちは裁判所建設にあたり、欧米の裁判所の視察に出かけたに違いないと思いますが、彼らはウィーンで最高裁判所や学友会館を見たのでしょうか。実際にこの柱を描いた大正時代の左官職人は本物の黒大理石を見たことがなかったのではないか、と想像しますが、建築家に言われて、あるいは写真を見せられて、苦労しながら仕上げたのかも知れません。

そして私が一番感心したのは階段の中央部分が黒い石で、まわりのグレーの石と色分けされていることです。中央に赤いカーペットを敷いて、階段を拡張高く演出することはよくあります。同様にそれを色違いの石でつくることもありますが、へりの部分は広く取らないで、中央の歩く部分を広くするのが一般的のように思います。

それに比べると旧名古屋控訴院の階段では中央の黒い部分は狭く感じます。正しい道は狭いけれど、真ん中を歩きなさい、ということでしょうか。さらに驚いたことに、下から3段分だけはこの中央部分が微妙に末広がりになっているではありませんか。ずいぶんと手の込んだつくりですが、下階(下界?)から上がるときに真ん中へと導かれるようです。

この階段、24段で1階分上がるのですが、そのうちまっすぐの部分が20段で、左右に分かれた後は4段だけです。この4段が設計者にとっては大事だったのではないでしょうか。途中まで上がったところで左か右か、まるで裁かれるかのような階段です。ここではやはり、右(Right)に上がるのが正しい道なのでしょうか。

*1 瀬口哲夫「再見 東海地方の名建築家③」(日本建築家協会東海支部機関紙ARCHITECT)による。
*2 西本昌司「名古屋で見つける化石・石材ガイド」(風媒社)による。

名古屋市市政資料館についてはこちら(名古屋市>市政情報>一般行政・その他>市政資料館(公文書館)>市政資料館案内)へ

(2024年9月3日)

  • 下坂浩和(建築家) 1965年大阪生まれ。担当した主な建物は「大阪市立東洋陶磁美術館エントランス棟」(2023年)、「W 大阪」(2020年)、「六甲中学校・高等学校本館」(2013年)、「龍谷ミュージアム」(2010年)、「吉川英治記念館ミュージアムショップ」(2004年)、「宇治市源氏物語ミュージアム」(1998年)ほか。

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