狂気というラグジュアリー

文・嶽本野ばら

多くの芸術家と親交を持ちその作品を取り込んだエルザ・スキャパレリを中心にマルタン・マルジェラなど、奇抜なデザイナーの被服を集めた東京都庭園美術館の『奇想のモード 装うことへの狂気、またはシュルレアリスム』展に行こうと思っていたら終わってしまいました。

コルセットを使うことをやめたポール・ポワレ以降の近代モード史を語る時に、シャネルやディオール等と共に必ず登場するスキャパレリが僕は昔、結構、苦手で何故に彼女が評価されるのかよく解りませんでした。ショッキングピンクや騙し絵を持ち込んだファッションは、造形的過ぎて、着る者の意思をないがしろにしているように思えた。

1925年に開業し、54年には人気が翳り引退。2013年、メゾンはクリスチャン・ラクロワをデザイナーに迎え復活、現在はダニエル・ローズベリーがアーティステック・ディレクターを務めます。コクトーやマン・レイともタッグを組みましたが、最も成功したのはロブスター柄でも知られるよう、サルバドール・ダリとのジョイントでしょう。

SCHIAPARELLIの概要を写真と解説で綴った『MEMOLRE DE LA MODE SCHIAPARELLI』1997年 光琳社出版(*著者所有)

SCHIAPARELLIの概要を写真と解説で綴った『MEMOLRE DE LA MODE SCHIAPARELLI』1997年 光琳社出版(著者所有)

1936年、ダリは受話器部分を石膏でロブスターに仕立てた電話機のオブジェ(実際に使える)を発表。これにインスパイアされ、翌年、スキャパレリはシルク地にロブスターを描いたイブニングドレスを創作します。ヒールを逆さにした形の帽子もダリの作品からの発想。現在もスキャパレリのメゾンではダリのモチーフが用いられ、2022ssにもフランスパンを模した黄金のバッグなど、ダリなアイコンが登場しました。

小学生の時にダリに感化された僕は、大人になってからはダリを好きというとミーハーっぽいので封印しました。が、瀧口修造の『シュルレアリスムのために』を読み返し、恥じるをやめた。

ダダ、シュルレアリスムの勃発をリアルタイムで日本に紹介した瀧口修造は、批評の多くをダリの賞賛に充てておられます。『サルバドール・ダリの出現とともに、超現実主義の領域にはひとつの未知な新要素、すなわち偏執狂方法がもたらされた。』――ダリを語る時、彼の文章は熱情で燃え上がる。アメリカに於いてスーパースターとして受け入られたことなぞ、ダリの登場が“事件”であったことは、同時代の目撃者であるからこそ伝えられる内容。アーカイヴには残らない。現代なら瀧口修造の記述の間違いを容易に探し出すが可能でしょうが、粗探しにさして意味はないと思います。多分、今の若い人に橋本環奈より、デビュー当時のアグネス・チャンの方が可愛かったと写真を観せても、半分も解って貰えぬようなもの。瀧口修造は、1937年の原稿で『ダリの絵で人体の胴から事務机の抽斗しが出ているものからヒントをえて、一流のデザイナーのスキャパレリが工夫した変わったポケットのあるスーツがいち早く紹介されたことがある。』という記述さえ怠ってはいません。

詩人、瀧口修造はブルトンの著作の翻訳を手掛けるなど、ダダ、シュルレアリスムをいち早く日本に紹介し多くの優れた美術評論を遺した。写真は『シュルレアリスムのために』1968年 せりか書房(*著者所有)

詩人、瀧口修造はブルトンの著作の翻訳を手掛けるなど、ダダ、シュルレアリスムをいち早く日本に紹介し多くの優れた美術評論を遺した。写真は『シュルレアリスムのために』1968年 せりか書房(著者所有)

スキャパレリのお洋服の展示を観て造形的過ぎて……と感じるのは僕がその時代に生きていなかったが故の感想で、時代を共有していれば夢中になっていたかもしれない。少なくとも、ポワレに拠ってコルセットから解放された被服を、スキャパレリは被服そのものから解放しようと企てた(ポワレとスキャパレリは師弟関係にある)。その有効性を問うことは、何故、コムデギャルソンはわざわざ服に穴を開けて着辛くするのか?という疑問を抱くのと同じようなものかも。

東京都庭園美術館の『奇想のモード 装うことへの狂気、またはシュルレアリスム』というタイトルは中々、秀逸です。

かつて僕達はこの世界は狂気に拠ってのみ革命出来ると思っていました。ブルトンはシュルレアリストになるには街に出て無作為にピストルを発砲すればいいといいました。寺山修司の市街劇だって、観客なのにステージのシド・ヴィシャスに殴られてしまうセックスピストルズのライブだって、狂気に世界を変え得る可能性が与えられていたから成立したのでしょう。ましてやコムデギャルソンのボロルックやコブの付いたドレスなんて、どう言い訳したところで正常な訳はない。しかし少なくともコムデギャルソンをデビューから辛うじて知る僕は断言します。コムデギャルソンの狂気は贅沢であった――と。

いい素材に貴石がちりばめられたドレスを纏うことよりも狂気を纏うことの方が贅沢であるを、コムデギャルソンは宣言しました。最早、お洋服への欲望に狂気は必要なくなったのかもしれません。フロントに『焼肉』とか『凡人』とプリントされたTシャツは、面白いでしょうが一欠片の狂気も持たない。

マリー・アントワネットが頭に軍艦の模型を載せたのも、つまりは狂気が贅沢であるが故だった筈です。狂った者のいない世界は平和だけど貧しい。時代錯誤かもしれませんが、僕は乞う、狂気を! 僕は頭に載せる、ヒールや軍艦を! 僕は宿す、胸に抽斗しの付いた事務机を! 同じ時間の街角にいる者にしかピストルの弾は当たらない。だから着る、スキャパレリを! 否、やっぱり着ない。ロブスターではなくドレスの柄は花やクマさんじゃなきゃ嫌だもの……。

(1/06/2022)