コボリの道「2025 大阪万博」作・長谷川義史(2019年コボリさん年賀状より)

インタビュー第3回、舞台は名古屋から大阪へ移ります。『名古屋プレイガイドジャーナル』編集部が解散し、知り合いの『プレイガイドジャーナル』関係者に声をかけられて大阪へやってきた小堀さん。しかし、大阪のほうも経営状態は厳しく、雑誌のサイズをB6からB5に変更するなどして建て直しをはかりますが……。びっくりする話、ハラハラさせられる話が続きます。(丸黄うりほ)

鼻血も出ない名古屋から、ゆるゆるの大阪へ

——『名古屋プレイガイドジャーナル』は1982年2月に休刊した、ということであっていますか?

小堀純さん(以下、小堀) 1982年2月に、3月号を出して終わりですね。

塚村編集長(以下、塚村) 3月号で終わって、切りがいいですね。

小堀 いや、でも、あとで別の人がまた始めたりするんだけど。休養させたはずの社長が出てきてさ……、よくありがちな話なんだけどね。まあ、おれたちがやっていた雑誌はいったんそれで無くなるんですよね。それで、おれは82年の5月20日に近鉄特急で大阪に来るんです。山登りやってたから、背負子に段ボール箱二つくくりつけて、かついでやってきました(笑)。

——小堀さんが、大阪の『プレイガイドジャーナル』(以下、プガジャ)に呼ばれたのはどういうきっかけだったんですか?

小堀 それは、つかこうへいさんの芝居や自由劇場の『上海バンスキング』といった演劇を通じての縁が大阪のプガジャとはあったわけです。それと『寿歌』に戻るけど、80年の『寿歌』大阪公演をオレンジルームでやって、プロデューサーの中島陸郎さんにお会いできたのが大きかった。

——あれ?「寿歌」は島之内教会でやろうという話でしたが。

小堀 島之内教会に電話したら、断られて。大阪のプガジャから中島陸郎さんを紹介してもらったんです。中島さんに想さん手書きの『寿歌』の台本を送ったら、「これはいい、ぜひ、やりましょう!」と言ってくれて。台本読んだだけで、中島さんは即、公演を決めてくれた。見識ある凄いプロデューサーがいると。中島さんにはその後、たいへんお世話になるんですが。だから、大阪に来るのを決めたのには“中島さんがいる大阪”に行こうというのがありました。

塚村 『上海バンスキング』の関西公演は何度か行きました。プガジャが制作していたのでしたか?

小堀 『上海バンスキング』の最初の旅ですよね。名古屋では「中小企業センター」ってところでやったんだけど。串田(和美)さんと吉田日出子さんと一緒にきしめんを食べに行ったりしたよ。困ったな、おれ全然金ないのになと思ってさ。「きしめんは、素うどんもそうだけど何ものってないのが一番おいしいんですよ」と言ったりして(笑)。要するに金がないからさ。

吉田日出子『上海バンスキング』 amazon music はこちら

そうしたら、それはまあ案の定、串田さんが払ってくれるんだけど。で、『上海バンスキング』の大阪公演は大阪のプガジャが制作していた。おれらは、大阪のプガジャから言われて、名古屋公演を企画したわけです。

塚村 『上海バンスキング』もたいへんな人気でしたが、つかこうへいさんの舞台もえらい人気でしたよね。

小堀 そうそうそう。つかこうへいさんの『広島に原爆を落とす日』っていう名作があるんですが、『いつも心に太陽を』との二本立ての初演を名古屋でやったときは、名古屋の制作協力はおれらがやりました。かとうかず子(当時はかとうかずこ)さんが初々しかったですね。ものすごいお客さんが来て、おれは開演前に舞台に上がって、“お膝おくり”っていうんだけど「お客さん、前に詰めてください!ヨイショ!」とか言って、場内整理していた。ようやくすべてのお客さんが座ってホッとしたら、「小堀、芝居の前に盛り上げてどうすんだ!」とつかさんに怒られましたが(笑)

つかさんのときも大阪からの話でしたし、一緒に仕事をしていたわけです。何より本を交換しているし、お互い読んでいるし。関西の劇団が名古屋でやるときは必ず連絡があって、おれが新聞社に連れて行ったりしていたし、そういう横のつながりがずっとあったわけね。

塚村 逆に名古屋の劇団が大阪に行くときには、大阪のプガジャに連絡したりもしたでしょうね。

——演劇以外の仕事も一緒にしたのですか?

小堀 いしいひさいちさんの『バイトくん』(プレイガイドジャーナル社発行,1977年)が出たときには本がどっと送られてきて、愛知県で売ってくれとか言われて、例によって直販で本屋まわって、売りに行ったりもしてたんです。いや、よく売れましたね。本屋さんから、名古屋プガジャより『バイトくん』持ってこいって言われました。

いしいひさいち『バイトくん』プレイガイドジャーナル社刊, 1977年 現在『バイトくん』は双葉文庫で発売中

——名古屋と大阪、会社としては別だけど、人同士の交流はあったということですね。

小堀 今思えば、金銭のやりとりはまったくなかったと思うんだけどね(笑)。まあ、名古屋にいたころから、こちらも村上知彦のことはよく知っていたし。

塚村 村上知彦さんは、当時のプガジャの編集長ですね。

小堀 GYA(ギャー)こと村上知彦さんとは付き合いがあったし、ほかのスタッフも知ってたわけです。ひさうちみちおさんの『山本さん家の場合に於るアソコの不幸に就て』(プレイガイドジャーナル社発行,1982年)の出版記念イベント「不幸」のときにも大阪に行ったし、その時もGYAに会った。何せ、彼は“役者”として舞台に出てましたから。当時、けいせい出版にいた小松杏里が構成・演出をしてましたね。小松くんは大鷹明良や美加理がいた演劇舎螳螂の主宰者(作・演出)で、おれもよく知っていました。「不幸」では、公演後のプレゼント抽選会で、おれ、ひさうちさんの「不幸」Tシャツが当たって。思えば、そのときが、大阪での「不幸」の始まりだった(笑)。

ひさうちみちお著『山本さん家の場合に於るアソコの不幸に就て』プレイガイドジャーナル社刊, 1982年 ebookはこちらから

——そんなこともあって、大阪のプガジャから声がかかった。

小堀 公式的によく言っているのは、「東京なんかいつでもいけるやないか、小堀」と言われて(笑)。東京からも誘いはあった。流山児祥に、「小堀、ゴールデン街の店が空くから、おまえやんないか?」って言われたりもしてたんですけど。

——そんな話もあったんですか?

小堀 「ゴールデン街でとりあえず店やってな」とか言って。ゴールデン街なんかに行ったら、3日後におれ死ぬんじゃないかと思って……。それは冗談だけど。

——東京からもそういうお誘いが……。

小堀 ゴールデン街を拠点にして、ときどき仕事しませんか、とかね。

——ゴールデン街の店って飲み屋ですよね?

小堀 新宿のゴールデン街ですよ。飲み屋が櫛比している魔界ですね。流山児は友だちだから、おれのことを心配して言ってくれたんだと思う。なんか東京に出てきてやんないかと。でもおれには東京は違うかなという思いもあった。大阪は近いし、大阪のプガジャの人たちと一緒に仕事していたということもあって。当時は大阪の人たちを、おれはある種尊敬していたし。先輩だしね。

——で、東京じゃなくて、大阪へ。

小堀 そう。「東京なんかいつでも行けるやないか」と、「大阪は食べ物もおいしいし、女の人はかわいいし」と言われてね。

——(笑)。

小堀 おれが大阪に来て思ったのは、その二つだけは本当のことだったって(笑)。

——いいじゃないですか、二つもあったらね。

小堀 その二つがあれば十分だよね。

——でも、小堀さんは名古屋生まれだし、深く関わった名古屋のシーンや場所がある、大切な人との交流もある。それで、名古屋を去ることにためらいはなかったんですか?

小堀 それはね、じつはおれの中ではすごく大きなことなんだ。「おれはすぐ帰るから」、「大阪には2年ぐらい行ってくるけど、すぐ帰ってきて、また名古屋でやるから」って言って出てきて、名古屋の当時のスタッフのなかには、それを信じてくれてた人もいるわけです。

あと、労働争議もしていたから、二手に分かれて未払いの闘争する、裁判するやつもいて。おれは編集長で、社長代行もしたからその責任もあるんで、未払いの闘争には加わらなかったわけ。それで大阪に来るわけです。名古屋でやめた、夢なかばでやめたのが悔しい、仕事の途中で終わっているわけだから。

また、想さんの話になるけど、おれが名古屋プガジャをやめて大須の呑み屋で打ちひしがれていたら、想さんが「おれは猫だから、犬とは違って三日で恩は忘れない。応援するから名古屋に残って小さな出版社やらないか」と言ってくれて。ほんとに涙が出るくらいうれしかった。で、想さんのそのひと言で背中を押されたわけです。

だから、大阪でもう一回修行して、名古屋に帰るっていう気持ちだった。

——名古屋でもう一回やりたいと思ってらしたんですか?

小堀 そうだったんだけど、大阪は大阪で、本当に大変で。あっという間に時間がたってしまった。

塚村 小堀さんがプガジャの編集長時代、私は同じ情報誌でも『Lマガジン』に勤めていました。プガジャの人たちは、時間も自由で、好きなように文章を書いてて楽しそうでした。でもお給料は安そう。Lマガは親会社が神戸新聞でボーナスも出てました。プガジャはゆるゆるなイメージがあって、それは良さなんですが、名古屋から来た小堀さんとはノリが違ったのでは?

小堀 ゆるかったですね。『プガジャの時代』(ブレーンセンター発行,2008年)でも言ってるけど、“公家”かと。

森晴樹、村上知彦、春岡勇二、ガンジー石原、山口由美子、小堀純 著『「プガジャ」の時代 (新なにわ塾叢書1) 新書』ブレーンセンター刊, 2008年 amazonへ

——公家?お公家さま?

小堀 そう、貴族ですね。武士じゃない。食えない武士は傘張りとか、地道に内職とかやるじゃないですか、そういうことはしない。名古屋は本当に金がないわけよ。本当に振っても鼻血も出ないというぐらいにないんだけど、大阪はないことはない。おれからしたら、ある。で、「えーっ?」と思って。で、どんどん仕事が増えるわけね。社長で初代編集長だった村元さん(村元武)から言われてさ、「小堀は苦労しているから、営業とか販売もやってくれ」とかね。

——ああ、またですか……。大阪へ来ても営業。

小堀 取次まわりとか、書店まわりとかやって。ポスター作って書店に貼りに行ったりとか。あと、広告を全部チェックして、広告の入出稿表を管理したりとかね。あと、未払い広告がいっぱいあるんで請求の電話したりとか。そんなことをどんどんするわけ。それで、これではあかんなと思った。

 

『プレイガイドジャーナル』の判型をB6からB5に

小堀 当時はGYA(村上知彦)が編集長だったんだけど、プガジャを新しくしようっていう動きが当然出てきたわけ。なぜかというと、ずっと100円で、B6サイズでやってきたじゃないですか。最後の方は130ページ以上あったのに100円のまま。取次を通したら100円でできるわけない。だから、まずそこをなんとかしなきゃならないというんで、構造改革ですね。それで、判型をB5サイズにしていくって動きになった。

当時のおれはどんどん肩書が変わっていって、「雑誌プロデューサー」とか、わけわかんない肩書になって(笑)。B5になってからですが、「編集人・村上知彦、制作・小堀純」とか入っていたりする。

——『プレイガイドジャーナル』がB6からB5に変わったのはいつですか?

小堀 1983年の1月号からです。

『プレイガイドジャーナル』1982年9月号(B6判)と1983年2月号(B5判)

——小堀さんが大阪に来られて半年ほどたったころですね。

小堀 これは、かなり大きなことだったと思いますね。B6からB5に判型を変えて、定価をそれまでの100円から180円に値上げしたわけですから。

塚村 そりゃもう大々的でした。

小堀 おれはいろんな人たちからボロクソに言われました。だけど、100円だったら構造的に赤字なわけ。取次を通したら65円なんだけど、作るのに65円以上かかっているから、やればやるだけ赤字が増える。

——でも単純に値段を上げるんじゃなくて、なぜサイズを変えたんですか?

小堀 ひとつは、B5サイズというのは輪転機にかかるんです。で、中綴じにした。そしたら製本まで機械で一気に出来上がる。B6は特殊なサイズなんで、輪転機で印刷できない。無線綴じだったから、製本に時間がかかるし、部数が増えたら製本代がその分かさむ。しかも印刷屋からは製本が上がった分が順次、納品されてた。B5にしたら、たくさん刷っても原価率は抑えられるし、納品日が確定するから、発売日もズレないわけです。B6の頃は出来たものから取次に通してたから、発売日が一定していなかった。

それから、『Lマガジン』と『ぴあ』がすでにあって、そっちはB5サイズなわけです。当時の広告は版下でデータじゃないから、『プレイガイドジャーナル』だけ違う版下を代理店はわざわざ作らないといけない。それは代理店にとっては面倒くさいわけ。だからB5サイズにしないと広告が取れないし、広告料金が上げられなくてライバル誌に負けてしまう。

さらに、B5サイズにすれば情報量が増える。読み物をもっと増やすことができる。それでB5にしたわけです。

——サイズ変更は小堀さんと村上知彦さんが中心になって進めたんですね。

小堀 GYAは、チャンネルゼロっていう漫画の編集プロダクションから出向で来ていたんです。当時のチャンネルゼロは、『漫金超 まんがゴールデンスーパーデラックス』っていう、その名に恥じない本当にもの凄い本を出していたけど、なかなか出ないということがあって、そっちに『プレイガイドジャーナル』の編集長だった森晴樹さんが行って、『漫金超』のほうからはGYAが来た。だけど、両方とも大変になることがあって、そういうときにおれが来たんです。いま思えば、それで、おれたちがプガジャをどんどん変えていくわけじゃないですか。

季刊『漫金超 まんがゴールデンスーパーデラックス 創刊号』チャンネルゼロ刊, 1980年/大友克洋、川崎ゆきお、雑賀陽平、さべあのま、高野文子、いしいひさいち、ひさうちみちおの作品を掲載

やっぱりみんなB6サイズに愛着があるし、「100円」も、もうプガジャの圧倒的な「定価」でしたから。イメージというのはすごく大きいから、それを変更するのは大変でしたね。

——どんなことを言われましたか?

小堀 やっぱり「『プガジャ』じゃなくなった」と。「なんで『Lマガ』のマネするんだ」とか、「なんで『ぴあ』のまねするんだ」(当時、『ぴあ関西版』は刊行前だったが、『ぴあ』は全国的にかなり浸透していた)とか言われて、「いやマネはしていない、中身見てもらえばわかるんじゃないか」って言っても、やっぱりサイズのもっている影響力はすごく大きいんで。

——いま『Lマガ』と『ぴあ』の名前が出たんですけど、たとえば名古屋だったら『Lマガジン』とかないじゃないですか。ライバル誌がない。大阪は、よく似たものがほかにもあった。そうすると差別化というのがあると思うんですけど、『プレイガイドジャーナル』はどういうものを目指してたんですか?

小堀 おれとしては、イベントだけじゃなく生活情報も含めた情報量をさらに充実させたいというのと、読み物をもっと増やしたい。単純にB6サイズだったら、載せられる情報量が限られてるじゃないですか。B6サイズからB5にしたことで、エッセイだったり、評論だったり、スケジュール欄も飛躍的に増えるわけですよね。それもしたかったということです。

——小さいサイズの『プレイガイドジャーナル』を、私はぎりぎり買えてた世代だったんですけど、このサイズが私はよかったんです。かばんに入れやすかったんです。

小堀 それはおれもわかる……。たとえば大手出版社、マガジンハウスだったり文藝春秋だったりしても、全部の刊行物が黒字なわけじゃない。たくさんの点数を出して、単行本や、週刊誌や月刊誌や漫画本を出して、出版社をやっていくじゃないですか。プレイガイドジャーナル社も確かに単行本を出したけど、いしいひさいちさんの本以外は売れてなくてね。いしいひさいちさんの『バイトくん』がすごく売れたおかげで、その売り上げで会社を支えていたわけです。会社としては主力商品はあくまで『プレイガイドジャーナル』だから、すごくいびつな状態だった。

——そうだったんですね。いしいひさいちさん、すごいですね。

小堀 『プガジャ』を続けていくためには、まず本体を変えて、意識というか経済とか全部を変えていかないことには、もう先がないじゃないかと。

ほかで儲かるものがあれば、そのままでもよかったと思うわけ。部数を減らして、これでしかできないことをやって、また別の本を出していくこともあってよかったと思うんだけど、そうはできないじゃない。本体は『プレイガイドジャーナル』なんだから。

いしいひさいちさんは、その後、双葉社から『がんばれ!!タブチくん!!』をはじめ、どんどん出すようになって。プレイガイドジャーナルが出版社として、他の黒字になる媒体も出してたらなんとかなったけれども、当時はこれしかなかった。もちろん、プガジャも外部からの依頼でムックをつくるとか、いろんな仕事をこなしてたんですが、大きかったのは『バイトくん』だったと思います。それはおれが大阪へ来る前の話ですが。

演劇では、人気絶頂だったつかこうへい事務所、それから『上海バンスキング』や紅テント(状況劇場)のチケットも、プレイガイドジャーナルが窓口となって販売していた。しかも現金書留でチケット送ってもらってね。

塚村 私も学生の頃、現金送ってましたね。出版社だけど、演劇のイベンターみたいな感じでもあった。

小堀 そういうことをいっぱいやって回していた。だけどそれは出版社としては不健全なわけね。おれは「プレイガイドジャーナル社は出版社だ」と思っていたから。イベンター感覚ってのは、おれはそれは違うんじゃないかって思った。ぴあだって「ぴあフィルムフェスティバル」をやってるけど、それはあくまで『ぴあ』を売るためにやってるんだし、そうじゃなきゃいけないんじゃないかって。角川書店(現KADOKAWA)だって角川映画をやったことが、本を売ることにつながっていく。紀伊國屋書店だって、紀伊國屋ホールを作ったのは、本の売り上げにつながるわけですよ。そうして文化が産業になっていく。

塚村 甲子園での高校野球だって、朝日新聞を売るために始めたしね。ツールドフランスも新聞を売るためだし。

——つまり、小堀さんはイベンター感覚でやってるんじゃなくて、それを正しく、出版社にしようとしたかったということですか。

小堀 『プレイガイドジャーナル』をやってる人達は、やっぱり芝居が好き。映画が好き。音楽が好き。「春一番」や話題の映画や芝居をみたいし、ライヴにも行きたい。その気持ちはわかるし、そのチャンネルに特化した人は絶対いるんだけど、そればっかりだったら、だめじゃない。実際、当時もスタッフの給料は遅配だったし、欠配もあった。そうかと思うと、2代目編集長の林信夫さんは大阪21世紀協会に若手で入って、その後、会社を立ち上げて、いろんな事業をいっぱいやっていくんですが。

塚村 バブルでしたから。そのころは。

小堀 そういうなかでB5にしたときに、新人募集で来たのが、ほゆみ(林芳裕美)や、ガンジー(石原基久)だったりね。彼らは『プガジャ』の読者で、やっぱり雑誌を作りたいということで来る。たら(東良子)も、まちこ(廣瀬万知子)も、亡くなった高崎(真樹子)も、それから坂本(隆司)や、近藤(洋行)も、そういう人たちが雑誌を作りたいと思って来てくれたことはすごい大きかった。のちに副編集長となってプガジャの屋台骨を支えてくれた兼田由紀夫と春岡勇二はB6からのスタッフ、亡くなった吉川佳江もB6からです。編集部の仲間には、ほんと、恵まれましたね。

——雑誌を作りたい、ということで集まった人たちですね。小堀さんは『プレイガイドジャーナル』をプレイガイド的なものよりも、雑誌にしようと、サイズを大きくして。

小堀 今思えば、いろんなことをやりましたね。当時はチケットセゾンが出てきて、セゾンと組んで広報誌を作ろうとか。結局、実現はしませんでしたが。

——チケットセゾン、ありましたね。セゾングループは当時かっこよかったですよね。

小堀 ニチイがやってたプレイガイド21とも仕事をした。でも、おれ82年5月に大阪に来て、B5に判型変えたときは、まだ1年経ってないんだよね。

——いわば、「B5に変える要員」として来られたっぽいですよね?

小堀 それは、村元さんたちも言ってた。「小堀だったら、いろんなことやるだろう」って。大阪の人にはやりにくい。でも、名古屋から来た小堀だったらやるだろうって。

——名古屋で、大変な経済状況にかかわらず6年やられたっていうのはすごいですよ。

小堀 北村想さんの単行本も出したしね。

塚村 編集も取次も営業もひととおりわかってるし。

小堀 そういえば、取次の件で名古屋にちょっと話戻るけど。最初トーハン(当時は東販)に行って『プレイガイドジャーナル名古屋』の雑誌コードを取りたいって言ったときに、「大阪に同じ名前の雑誌があるから、頭に大きく名古屋ってつけろ」って言われたの。それで、「名古屋」を頭につけることになった。それまでは『プレイガイドジャーナル名古屋』という名前で、「名古屋」っていう文字は小さく書かれていて、最初に「名古屋」をもってくるのが当時はすごく抵抗があった。だけど、トーハンに口座を作るためにはいたしかたないんで、「名古屋」を付けたわけですわ。

左は『名古屋プレイガイドジャーナル』1981年8月号。右は1979年12月号の『プレイガイドジャーナル名古屋』。

それも直販で一週間ぐらい配本をやって、地道な成果が出て、ようやくトーハンが雑誌コードをくれたんだよね。そこはおれにとってすごく大きかったし、うれしかったな。

——小堀さんのそういう力を買われてたのでは?

小堀 もちろん、おれ一人でやってたわけじゃないし、そういうふうにいわれると、逆に嫌な気もするけど(笑)。

——では、小堀さんが編集長になられてからのお話は、また次回ということで……。

(続く)

*その1はこちら

*その2はこちら

注釈

  • 中島陸郎(なかじま りくろう):1930~1999年。演劇プロデューサー、劇作家、演出家、詩人。1950~60年代にかけて、前衛演劇集団・大阪円型劇場月光会で活動。若き日の寺山修司や富岡多恵子らの詩劇を企画するなど、“アングラ以前”の先鋭的な公演を行う。78年からは梅田・阪急ファイブにあったオレンジルーム (現HEPホール)のプロデューサーとして、学生演劇の祭典「オレンジ演劇祭」を企画。辰巳琢郎(劇団そとばこまち)、いのうえひでのり(劇団☆新感線)、内藤裕敬(南河内万歳一座)、マキノノゾミ(M.O.P.)、岩崎正裕(劇団太陽族)らを世に出した。92年からはミナミの小劇場・ウイングフィールドのプロデューサーとして、深津篤史(桃園会)、大竹野正典(くじら企画)らの活動を支えた。著書に『阿片とサフラン』(長征社)、追悼集『跫の中から足音』、喜尚晃子との共著『聖歌が聞こえる』(共に手鞠文庫)がある。
  • 村上知彦:1951年、芦屋生まれ。父親は具体のメンバー、村上三郎。大学時代、自主映画『暗くなるまで待てない!』(監督・大森一樹 脚本・大森一樹、村上知彦)などに出演。スポニチの記者を経て、発行が遅れがちな『漫金超』のテコ入れにプガジャ4代目編集長・森晴樹と交換トレード、村上はチャンネルゼロからの出向という形で5代目編集長として迎えられた。マンガ評論家/編集者。長らく京都精華大学~神戸松蔭女子学院大学でも教鞭を執っていた。
  • チャンネルゼロ:いしいひさいちらが在籍した関西大学漫画同好会を母体にして1975年より同人誌「チャンネルゼロ」を刊行。80年には「株式会社チャンネルゼロ」を設立。いしいのマネージメントを行うほか、『漫金超』の編集などに乗り出す。トレードマークはスイカを切ったら中から現れたスイカ太郎の図。冨岡雄一社長の死去に伴い、2014年解散。
  • 漫金超(まんがゴールデンデラックス):1980年春、大友克洋、さべあのま、高野文子、いしいひさいち、ひさうちみちお、川崎ゆきおといった錚々たる顔ぶれで創刊されたマンガ誌。季刊の予定が発行は遅れに遅れ、83年夏に発行された5号で休刊。執筆陣はほかに、高橋葉介、やまだ紫、坂口尚、新田たつお、渡辺和博、湯田伸子、近藤ようこ、寺島令子、竜巻竜次、坂田靖子、平口広美、蛭子能収、古川益三、みね・ぜっと、雑賀陽平ら。
  • 小松杏里:1957年、東京生まれ。劇作家/演出家/編集者。76~87年、演劇舎螳螂を主宰。けいせい出版の編集者として多くの作品に関わった。演劇プロジェクト・月光舎を経て、いまは福岡に拠点を移し、地域の演出家を育成するワークショップを各地で展開している。
  • けいせい出版:1980年前後に起こった三流劇画~ニューウェイヴ・コミック・ムーヴメント時代の作品を精力的に発行した出版社。ブロンズ社、奇想天外社を向こうに回して、ひさうちみちお、川崎ゆきお、いしかわじゅん、中島史雄、村祖俊一、山田双葉(山田詠美)らのコミックスを次々と世に問うた。

(注釈:石原基久)