2021年コボリさんの年賀状より。「謹んで新年のご挨拶を申し上げます。相変わらずパソコンは使えませんが、相変わらず酒だけは呑んでおります。1月1日 小堀純」

 

1970年代から80年代にかけて、大阪には『プレイガイドジャーナル』(通称プガジャ、後に『ぷがじゃ』)という情報誌がありました。映画、演劇、音楽、美術、イベントなどの月ごとの情報が、カバンに入れてもかさばらないB6サイズ(後にB5)に収められ、注目すべきアーティストのインタビューや面白い読み物もしっかりと載っている。当時の若者たちはこの冊子をもって街に出て、サブカルチャーや街の出来事と出会ったわけです。

小堀純さんは、その『プレイガイドジャーナル』で最後の編集長をつとめた人物。フリーランスの編集者となってからは演劇雑誌『劇の宇宙』を創刊し、「OMS戯曲賞」の企画推進役となるなど、関西の演劇界を育て、盛り上げ、見守ってきた人でもあります。出身は名古屋で、編集者としてのキャリアのスタートは『プレイガイドジャーナル名古屋』(後に『名古屋プレイガイドジャーナル』)でした。

この連続インタビューでは、そんな小堀さんに名古屋と大阪の『プレイガイドジャーナル』最後の編集長として見てきたこと、考えてきたこと。そして、編集という仕事を通して出会い、関わってきた人々の思い出をたっぷりと語っていただきます。

第1回は、『プレイガイドジャーナル』をはじめ1970年代初めに大都市で一斉に創刊された情報誌事情について。また、小堀さんが最初に関わった『プレイガイドジャーナル名古屋』のこと、劇作家・北村想さんとの出会いを中心にお話しいただきました。(丸黄うりほ)

 

サブカルチャーの隆盛と『プレイガイドジャーナル』の創刊

——大阪で『プレイガイドジャーナル』が創刊されたのが1971年なんですね。そして、1972年には『プレイガイドジャーナル名古屋』が創刊された。

小堀純さん(以下、小堀) 東京の『ぴあ』と『シティロード』も同時期の創刊だと思います。

塚村編集長(以下、塚村) ざっと検索したところによると、『ぴあ』は1972年7月に創刊、『シティロード』はその前身の『コンサートガイド』が1971年12月創刊で1975年9月号から『シティロード』になったようです。『プレイガイドジャーナル』は71年7月創刊なので、『シティロード』より半年早くて、『ぴあ』より1年早いですね。

小堀 『ぴあ』はみなさんよくご存知だと思います。雑誌が休刊して一時期しんどかった時もありましたが、それこそ今の時代に適応して情報産業としてかなり急成長していますね。『シティロード』は、新宿の西口に編集部があって、雑居ビルの一室。いつも音楽がかかっていて、そういうところもまあ名古屋の『プレイガイドジャーナル』と一緒だった。『シティロード』は批評や評論、インタビューが充実した読み物が中心で、『プレイガイドジャーナル』と似ているところも多かった。『ぴあ』は第一情報に徹してた。

で、『プレイガイドジャーナル名古屋』はなんで大阪の『プレイガイドジャーナル』と同じ名前にしているかっていったら、まあオリジナリティがない話でね。おれは創刊の頃にはまだ編集部にいない、そのころはまだ大学生でしたけどね。当時はいわゆる関西フォーク、岡林信康さん、五つの赤い風船、高石ともやさんたちのムーヴメントがあった。あとアンダーグラウンドの演劇ですね、寺山修司さん、唐十郎さんをはじめとする。そういうのに関わる人たちが大阪で『プレイガイドジャーナル』をはじめたわけです。名古屋も同じようにフォーク、ロック、アングラ演劇に関わる人たちがいて、大阪が面白いことやっている、じゃあおれらもやろうっていって、名前もそのままつけた。

——だけど、会社としては別の会社なんですよね?

小堀 全く別の会社です。だから本の作りも違ってて、サイズは同じB6なんだけども、スケジュールの載せ方が違うし、レイアウトも名古屋は横組みなんです。

——4つの雑誌はだいたい同じ頃にできたけど、いちばん早かったのが大阪の『プレイガイドジャーナル』なんですね。

小堀 大阪で『プレイガイドジャーナル』を始めたのは「大阪労音」にいて、その後『フォークリポート』編集に携わる村元武さんたちです。その辺は村元さんの『プレイガイドジャーナルへの道』『プレイガイドジャーナルよ』(いずれも東方出版)を読んでください。“名古屋人”のおれがいろいろ言うと差し障りがありますし、その頃はまだ学生だからね。

塚村 初代編集長の村元武さんが書いた本によると、『プレイガイドジャーナル』より前に、別の人たちが『月刊プレイガイド』(芸術月報社、1970年3月号〜11月号)という情報誌を出していたようです。愛読者だった村元さんは編集部を一度訪問しているのと、休刊後、編集部の人に会いに行っていますね。時代は、フォークジャンボリーとか、アングラ演劇とか、自主上映会とかがあちこちで行われはじめた頃です。私は小学生だったので、リアルには知りません。

——その頃にそういうシーンができて、情報を知らせる媒体が必要とされてきたということですか?

小堀 昔は、アングラというと風俗ととらえられることが多くて、世相を騒がす風俗的な、なんか変なことやっているとみられたというのがあって。たとえば寺山修司さんの「天井桟敷」にしても街中で妖しいことをやっていることばかり言われたりとか、唐十郎さんの芝居でも裸体になっているとかね、いかがわしいことやっているって言われていて、いわゆるマスコミ、新聞社が文化の情報として取り上げなかったんですよね。

今は時代が変わって小劇場の人も記者会見やるし、劇団出身者が大学教授になったりとか、子どもが劇団に入っていても親は怒らない(笑)、昔はそういうふうじゃなかったんで。

それなら、自分たちが好きな表現の媒体をつくるのがいちばん早いんじゃないかというコンセプトがあった。そうすれば自分たちの見たいものを自分たちが編集して紹介できる。しかも本が売れたら一石三鳥くらいになる。

——『プレイガイドジャーナル名古屋』は何から始まったんですか。

小堀 名古屋も最初は音楽に係わる人が多かったかな。名古屋もフォークやロックは盛んでしたから。たとえばセンチメンタルシティロマンスや友部正人さん。友部さんは名古屋の街で歌ってましたよね。友部さん自身も芝居に参加したことがあるそうです(名古屋小劇場・阿修羅劇場合同公演「真田風雲録」1969)。当然そのへんの横の繋がりが創刊時の人たちにはあったと思う。

——ほぼ同時発生的に4誌が創刊されたのはなぜでしょうか?

小堀 こういう雑誌をシティマガジンっていう。ニューヨークには『ニューヨーカー』、パリには『パリスコープ』っていう映画や音楽の情報誌があって、そういうのに感化されているというのはあった。

——『ニューヨーカー』はもっと昔からある雑誌ですよね?日本ではなぜこの時期に集中したんでしょうか?

小堀 60年代から70年代にかけてはサブカルチャーが、いまは意味が違ってきているけど、当時はカウンターカルチャーっていうのかな、それまであった既成の表現に対抗する“新しい表現”が同時多発的に出てきたわけですよ。美術も音楽も映画もね。ATGの映画であるとか、芝居だったら寺山さん唐さん、美術は横尾忠則さんとか赤瀬川原平さんたちの活動であるとか。そういうのに若い人は敏感じゃないですか。それで芝居なんかを見にいくとチラシをもらうわけだけど、よくわかんないじゃない。映画はかろうじて新聞に広告が載っていたけれども、『キネマ旬報』や『映画芸術』なんて雑誌を見ても、地方の映画館のスケジュールの詳細はわからないよね。

まさに、60年代から70年代にかけて今まで見たこともないような新しい表現が各ジャンルで同時多発的に起こってきた。そのことがすごく大きかった。やはり自分たちが見たいもの紹介したいものがないとさ、雑誌つくっても面白くないからね。

——文化や思想において「68年」が一つの区切りってよく言われますけど、新しい表現がたくさん出てきて情報誌が必要になったということなんですね。

小堀 とくに『ぴあ』の成功が大きかった。『ぴあ』が飛躍的に部数を増やして、まあ及川正通さんの表紙のインパクトも大きかったと思う。そういった情報誌は大都市だけで発行されていたけど、後には『ぴあ』に対するアンチテーゼも当然でてきて、そんな中、全国でタウン誌がブームになる。北海道から九州までシティ情報っていうことでね。それらの雑誌はだいたいスポンサーがあったと思うけど、そんなに長く続かなかったと思う。

 

当時の『プレイガイドジャーナル名古屋』は直販だった

小堀 最初の頃おれらが苦労したのは、それらの雑誌に情報を無料で掲載しているシステムが、書店の人や一般の人たちにはよくわからなかったことなんですよね。

とくに『プレイガイドジャーナル名古屋』は直販っていって、取次を通してなかったんです。関西の場合は東販、日販とは別の地元の小さな取次がいくつかあって、そうしたところを通じて「紀伊國屋書店」とか「旭屋書店」のような大きな書店に入れていくっていうのがあった。だけど名古屋はそういうのがまったくなかったので、本屋さんを一軒一軒まわって開拓した。おれらはそれを配本って呼んでたけど、一週間くらい使って愛知県、岐阜県、三重県の何百軒という書店をまわってくわけですよ、できたばかりの本と伝票もって。書店は七掛けで、プレイガイドとかロック喫茶は八掛けで、その場で精算してくる。大口はあとで振り込んでもらう。それをずっとやってた。当時『プレイガイドジャーナル名古屋』は150円で、大阪の『プレイガイドジャーナル』は100円だったんだけど。

新しい本屋さんを開拓に行くと、本屋さんが「なんやこれ、全部広告やないか」って言うのね。「これでお前商売すんのか」って。「いや、この情報は全部掲載無料で、それを編集して商品として売っているんですよ」って説明してもなかなか分かってもらえなかった。

で、「ためしにご主人、1カ月でいいですからおいてください」って言って10冊おいていくのね。それで8冊くらい売れると、「なんでもっと早くもってこないんだ」って言われたりした。あとね、本が10冊入るケースを作って一緒に預けておいたら、次に行ったら本は売れてて、おれたちのケースに同じサイズだからって『PHP』が入っている(笑)、そういうこともありましたね。

直販やっててよかったのは、自分たちで実際に本屋さんの反応を見ることができたことかな。

塚村 ひとり何軒くらいまわるんですか。

小堀 50軒。最低でも50、だから朝から晩までですよ。いちばん遠いとこは津かな、三重大の生協に行ってた。四日市や桑名も近鉄電車で行ってた。

——今までそういう本がなかったから、本屋さんも戸惑ってたんですね。

小堀 そうそう。『ぴあ』も最初は直販でやってたらしい。

——そうなんですか!

小堀 山手線を本を持ってまわってたって。だけど、とある大書店の社長がね、「そんなことしなくていい」と言って取次に話をしてくれたらしい。

『ぴあ』と『シティロード』は判型がB5だったけどね。『ぴあ』がすごかったのはカラーの広告が入ってたね。彼らの中心になっているのは中央大学の映画研究会出身者だった。「ぴあフィルムフェスティバル」もそうだし、映画の企画でいい仕事をしている。

——『シティロード』は後にA4変形になってますね、『シティロード』はどういう人が始めたんですか?

小堀 始めた人はよく知らないけれど、おれとほぼ同時代に『シティロード』で演劇を担当していたのが、渡辺弘くん。彼は取材力も文章力もあるので、演劇雑誌に寄稿したり、演劇評論家の扇田昭彦さんのインタビュー本『現代演劇は語る—劇的ルネッサンス』(Libro刊)を手伝ったり、今でいう演劇ジャーナリストの草分け。『シティロード』の後は、演劇プロデューサーとして「銀座セゾン劇場」「シアターコクーン」「まつもと市民芸術館」「彩の国さいたま芸術劇場」のプロデューサーを歴任した“歩く同時代演劇”のような凄い人。プガジャでも仕事してもらったし、おれとは1988年に西武美術館で演劇のポスター展「現代演劇のアート・ワーク60’s〜80’s」を一緒に企画している。

東京国際演劇祭’88池袋開催記念 : ポスター・舞台美術にみる小劇場運動の軌跡「現代演劇のアート・ワーク60’s〜80’s」展図録(1988年, 西武美術館)

事務所のドアを開けたら何とも言えない「陰の気」が……!

——話は前後しますが、小堀さんが『プレイガイドジャーナル名古屋』に社員として入られたのは1976年ですね。

小堀 それはね、あまり定かじゃなくて(笑)、しっかり覚えてない。逆算すればそのへんになるだろうということで。最初はもちろん「社員」じゃないです。

——何がきっかけで入られたんですか?

小堀 編集者になりたかった。10〜20代の頃は、社会人の山岳会にも入ってて、山に行くのがすごく好きだったので山岳雑誌の編集者になれたらいいなと思ってた。「山と渓谷社」っていう出版社が東京にあって、そこに入りたかったんだけど、当時募集もなかったし、おれの実力じゃたぶん無理だろうと思って悶々としていた。

おれが大学生のときに、高校時代の友達が、その人は木村一郎くんっていって演劇部だったんだけど、日大の芸術学部に行って。木村くんが「夏休みに名古屋で一本芝居をやるから一緒にやろう」って言ってきた。それで、別役実さんの代表作の「マッチ売りの少女」を手伝うんです。おれ、別役さんの自宅に電話して上演許可もらったんです。ちなみに一郎くんの弟は、舞台を中心に渋い演技で知られる実力派俳優の大鷹明良くんです。

その情報を『プレイガイドジャーナル名古屋』に載せてもらったわけです。おれは演劇をやる気は全然なかったんだけど、『プレイガイドジャーナル名古屋』はずっと読んでたわけですよ。そんなこともあって、試しにちょっと行ってみようかと思って、ふらっと事務所に行ったのね。ほんとにふらっと。

塚村 そのときは学生だった?

小堀 もう卒業してた。それが就職活動の一環だったのかもわかんないね。なんか仕事がないかなと思って行った。本を出しているくらいだから、ちゃんとした会社だと思ってた。

塚村 そりゃそう思いますよね。

小堀 本屋にも大学生協にも本をおいてたしね。

それがね……、もうビルと呼ぶのはおこがましいような、名古屋の栄っていう繁華街にあったんですけどね、もうこれビルかよ?っていうところで(笑)、事務所のドアを開けたら何とも言えない「陰の気」が立ち込めてて……(笑)。

——(笑)。

小堀 まあおれも若かったから、当時22くらいかな。大学院に行こうとしてたんだけど失敗して。

——何を専攻していたんですか?

小堀 愛知大学で国際政治史を。本当は国際政治史もしたかったのね。卒論で賞をもらったりしたし。だからもうちょっと頑張ればよかったんだけどね。

——ふらっと行っちゃったんですね(笑)。

小堀 行ったら、さっきも言ったけど何とも言えない「陰の気」が立ち込めてて。中へ入ったら、三人くらい人がいた。で、ポスターが裏返して貼ってあるのね。それに「アルバイト募集」って書いてあった。「バイト募集してるんですか?」って聞いたら、「あれは、おれらがバイト募集してるの」って。

——は?

小堀 そこにいるスタッフの人たちが、なにか自分たちにいい仕事ないかなと思って……。

塚村 え、逆?

小堀 情報誌だから読者プレゼントっていうのがあって、いろんな人が映画の券とか取りにきたりするわけじゃないですか。来た人にいい仕事ない?って聞いてたらしい。会社はすでに一回倒産してたらしい……。

塚村 あ、そんな状況だったんですか。

小堀 これはあかんと思ったんだけど、「まあまあ座って」っていうから話してたら、「演劇はやったことある?」と聞かれて。「やったことはないけど、情報を前に載せてもらった」って言ったら、「いまここ演劇担当がいないから、やってくれる?」って言われて。

——え。いきなりですか?

小堀 いきなり。それで、交通費は出すからって。当たり前だろ、今思えば。明日から来てって言われて……。こっちはさ、大学院落ちて、ほかに行くとこもないから、行ってみたんですよ。

——バイト代は出たんですか?

小堀 あのね、2万円出ました。

——2万円っていうのは……。

小堀 月額。

——げつがく?

小堀 それでね、ちょっと聞いてくれる?おふくろ、認知症を10年患ってて2018年に亡くなったんだけど、押入れ整理していたら、黒いハンドバッグがあったの。冠婚葬祭に持っていくようなちょっといいやつ。開けてみたらさ、おれが最初にもらった2万円の封筒が入ってたの。封筒の中には半分の1万円が入ってた。

塚村 どういうこと?

小堀 1万円だけもらうよ、っておふくろが言ったんだと思う。その頃ですから聖徳太子の1万円札ですよ。

塚村 それ、お母さんがずっと持っててくださったの?

小堀 そうそう。初めてもらった「給料」らしきモノ。バイトとは違う、一応就職っていうかさ。おれは忘れてたわけよ。それをおふくろは、その1万円を大事に持っててくれてたんだ。『プレイガイドジャーナル名古屋』の封筒で。まあそれで、最初は2万円出たんですけど、そのあと、正式にスタッフとなって月額5万円!の時期があったんだけど、すぐに出なくなって——。

——それはまずいですね。

 

キラキラした人、劇作家・北村想さんとの出会い

——さっき直販の話がありましたけど、小堀さんは直販のような営業活動をしながら、演劇担当として編集もしていたんですか?

小堀 そうです。直販はスタッフ全員とアルバイトでやってた。それで、『プレイガイドジャーナル名古屋』に入社してすぐ、劇作家の北村想さんに出会うんですね。ある日、想さんが事務所に来たんですよ。芝居の宣伝と、想さんが当時自分の住んでいたところで喫茶店と人形の店(ファルス人形館)を始めるってことでやって来た。

——その当時、北村想さんの劇団は何という名義だったんですか?

小堀 当時は「演劇師★団」ですね。それが後に「T・P・O師★団」になり、「彗星’86」になり、「プロジェクト・ナビ」になっていくわけです。

名古屋の大須には1972年にオープンした「七ツ寺共同スタジオ」という小劇場があるんです。アングラの牙城みたいなところで、そのうち“アングラ世界遺産”(笑)になる。映画、音楽の催しもやるけど中心は演劇ですね。想さんも「七ツ寺共同スタジオ」を拠点にしていた。おれも「七ツ寺共同スタジオ」で行われていることが、当時はなんでも面白そうだと思ったわけですよ。高校生のころから演劇に興味はあったし、唐十郎、寺山修司は読んでたし、同級生の木村くんからイヨネスコ、ベケットも教えてもらって、「おおすごいな」とか言ってた。ただ、自分では演出をしようとか劇作家になろうとか、ましてや俳優になろうなんて気はぜんぜんなかった。それは今に至るまで、ずーっとそうですね。

でも『プレイガイドジャーナル名古屋』で演劇担当になって、北村想さんに出会った。

想さんはおれより一つ上、滋賀県出身で中京大学のニセ学生だった。本当はフランスに行きたかったらしいけど。演劇がやりたかったから、高校の友達がいた中京大学の演劇部に行った。その前から想さんの名前は知っていたけど、会うのはその時が初めてでしたね。

そしたらね。すごいキラキラしているの。明るくて、こんなにキラキラした人がいるのか!って思った。おれにとっては衝撃だったね。

——キラキラっていうのはどういう意味ですか?

小堀 文字通り輝いてる。オーラとかそういうのとは違う。唐十郎さんに初めて会ったときは怖いなと思ったけど、ああいうのはオーラっていうんだろうね。キラキラっていうのは可愛い女の子を見たときの感じに近いかな。たとえば、阪急電車で宝塚音楽学校の生徒を見かけたときみたいな。

——ハンサムだったんですか?

小堀 ううん、そういうのとも違う。これが当時の想さんですね。(写真を見せる)

北村想著『不・思・議・想・時・記』(株式会社プレイガイドジャーナル刊,1980)より著者近影

塚村&丸黄 うわー、可愛い!

小堀 すごいもてて、で、太宰治や坂口安吾をよく読んでいて、まあ要するにデラシネな雰囲気を漂わせてるんですよね。で、当時の劇団「演劇師★団」の解散公演を「七ツ寺共同スタジオ」でやったので、その話と、喫茶店を始めるってことで事務所に来たの。

おれは北村想さんのキラキラぶりにびっくりして、お互いの年齢も近いし、読んでいるものなども波長があって、それから生涯のつきあいになっちゃう。まだ20代のはじめで、おれにも感性のカケラがあったころだから。そういう時期に想さんに会えたということはすごい大きいね。

(続く)