コボリの道「不動の人」作・長谷川義史(2018年コボリさん年賀状より)

村上知彦編集長の時代に名古屋から大阪の『プレイガイドジャーナル』にやってきた小堀さんは、雑誌のサイズをB5版に変更するなどテコ入れを図ります。ところが、小堀さん曰く「公家のような商売をしていた」プガジャの体質改善はなかなか難しく……。今回は、1984年に小堀さんが『プレイガイドジャーナル』6代目編集長、つまり最後の編集長として就任されたあたりから引き続きお話をうかがっていきます。(丸黄うりほ)

『プガジャ』編集長になってすぐ、売却の話が出た

——『プレイガイドジャーナル』がB5サイズになったのが83年1月号。そして、小堀さんが6代目編集長になられたのが84年の4月号ですね。

小堀純さん(以下、小堀) 82年2月末で名古屋のプガジャをやめて、同じ年の5月に大阪にきて、翌年の1月号で判型変更して、それでその翌年には編集長になって。さらに1年後には会社を身売りして(笑)。経営が変わるのが85年の夏だと思いますね。85年10月号から新体制になりました。86年4月号から誌名を『ぷがじゃ』に変更して。最終号になるのが87年の12月号ですから、2年しか続かなかったんですが。

——本当に、毎年何かあるって感じですね。では、ここからは小堀さんが編集長になられてからのお話をうかがっていきたいと思います。

小堀 自分で言うのもなんですけどね、雑誌の評判は良かったんですよ。おれが編集長になって翌年の85年4月号から、中島らもさんの連載「たまらん人々」を始めるんです。

——らもさんの話はいっぱいありそうですね、また次回にお聞きするとして。ともかく評判は良かったと。

 小堀 ただ、経営状態はどんどん厳しくなっていって、おれにとっては“名古屋時代”と変わらぬ暗黒の日々が訪れる。おれはもちろん、プガジャを続けたかったので、「身売り先」を探すことになるわけです。社長の村元さんは「小堀がやるなら」とおれたちに付き合うことになる。近鉄、大阪ガスといった地元大企業からの話もあったし、今では死語だけど、某“ニューメディア”会社の話もあった。毎月、雑誌を出しながらプガジャの身売り先を探すという、今から思えば30代前半でよくやったなと思いますが。このへんのいきさつは『プガジャの時代』(ブレーンセンター発行, 2008年)をご参照ください。おれにとっては、今でも夢にみる「忘れようとしても思い出せない」(©鳳啓助)、つらい思い出ですから。

85年夏、『プガジャ』は学生援護会の傘下に

小堀 それで、結局85年の9月に『プガジャ』は当時、印刷を頼んでいたエイエヌオフセットの親会社である学生援護会の傘下になって、エイエヌオフセットの社長が発行人になるわけ。経営が苦しくて、印刷費が払えないわけだから、いわば“借金のカタ”に身売りしたわけです。出張校正に行くと、今までは営業マンがいつも昼の食事は面倒見てくれたわけだけど、その月からは「編集長、今月からはうちの食堂でお昼は食べてください」って言われた。おれ、そういうところ大好きだから、「ありがとう」って言うと、「いや、食券買ってください」って言われた(笑)。

塚村 お客さんじゃなくなったんだ。

小堀 そうそう。ちょうど兼田(由紀夫)と春岡(勇二)と一緒にいたから、「ちょっと気分転換したいから、おれらは外で食べるわ」って言って、3人で外に飯食いに行って、兼田と春岡に、「な、身売りするってことはこういうことだぞ」って言ったの覚えてる。まあ、でもちゃんとした企業に吸収されたから、社会保険はあるし、給料もきちんと毎月出る。それは助かりましたね。おれ、68(歳)になるけど、まともに給料があったのは、その時の2年間だけでしたね。

新体制になって、学生援護会から営業職が来るようになった。プガジャにいきなり背広姿の人がやってくるわけです。総務部長の人は元自衛隊でした。朝礼をやるべきだとか言われて。 

塚村 大変だね。

小堀 その人も大変だったと思う。生まれて初めて、プガジャのようなヘン・・なところを見たわけですよ。おれは当然いっぱいぶつかったけど、その人は真面目な人で、よく飲みにいって、話もしました。今、思うのは、プガジャは“身売りできた”わけです。名古屋のプガジャはとてもじゃないけど、借金を肩代わりして買うところなんてなかった。大阪のプガジャはそれだけ時代の中で意味があったわけです。おれにとっては、「解散」→「身売り」と悲惨な経験が続いたけれど、得たものも大きかったと思う。

「風噂聞書」「関西達人伝」— 名物コラムとスタッフたち

——当時、関西のタウン情報誌はほかに『エルマガ』と『ぴあ』もあったけど、ずっと私は『プガジャ』派だったんです。なんで『プガジャ』を買っていたかといいますと、やっぱり読み物が、ほかと違う。だって、書き手が南伸坊さん、ひさうちみちおさん、みうらじゅんさんとかね。載ってる連載やコラムや編集記事が、どれも面白かったんですよ。

小堀 だって、一般情報は一緒だしね。

——そうなんです。 

小堀 音楽は、たら(東良子)の力は大きかったと思うね。向井久仁子さんも。

塚村 向井久仁子さんの記事は、私、本当によう読んだわ。

小堀 向井久仁子さんはインタビューもうまかった。音楽がメインなんだけど、四谷シモンさんへのインタビューは向井さんにしてもらった。唐十郎や金子國義、澁澤龍彦……いい話をいっぱい引き出してくれました。向井、東のふたりは本当に書けるんでね。こういう、例えばレコードの紹介記事やライヴ情報だとかの短い記事も、みんなしっかり書いてくれてて。

——『プガジャ』は記事がとてもしっかりして、読み応えがありました。

小堀 それがね、よかったなと思う。

——たとえば、このページ……、ディスクレヴューの場合だと、レコードのセレクトは誰がされていたんですか?こういうセレクトも他誌とは違ってたんですよね。

小堀 基本的には担当に任せるんです。美術は兼田、映画は春岡、講座はほゆみ(林芳裕美)、スポーツは坂本(隆司)、テレビラジオは近藤(洋行)……。東良子は最初、演劇担当だったけど、音楽のほうに特化するわけです。入ってすぐは、演劇の吉川佳江のアシスタントをしていた。吉川はB6の頃からですからキャリアが長くて、劇団☆新感線や維新派も積極的にとりあげていた。プガジャを離れてからは天然酵母を使ったパンづくりの仕事や、パンの本(『自家製天然酵母のパンづくり』自然食通信社刊)の編集もした。ライターもしていましたが、2010年に急逝しました。演芸はおなじみガンジー石原こと、石原基久ですね。個性豊かなやつばかりで。

石原はまちこ(廣瀬万知子)のイラストで街歩きの連載をしたり、吉本興業とけんかしたり、いい仕事してくれました。まちこはたぶん『プガジャ』で一番たくさんカットを描いてくれたんじゃないかな。

おれは編集長だから、当然、全ページ読むわけですよ。全部読んで、校正するわけですね。生原稿から読んで、原稿チェックして直して。版下があがってきたら、その校正もするわけです。それは、編集者としてはすごく良かったと思う。

——各情報コーナーは、編集者さんたちがライティングもされていたんですね。ではグラビアとか、最初のほうに載っている特集ページは?ここも他の雑誌と違う。

小堀 それはおれがやってるんですけど。GYA(ギャー/村上知彦5代目編集長)がいたころは一緒にやってて。エッセイなどの読み物ページはGYAの流れで、手塚能理子さん、沢田としき君に原稿を依頼した。

——手塚能理子さんは、当時『ガロ』にいた人ですよね。こういう人が出てくるんですよねぇ。

小堀 そうそう。北村想さん、流山児祥はおれからだしね。流山児には名古屋時代にもエッセイの連載を頼んでいて、大阪の『プガジャ』でもやってもらってたんだけど、連載始めた号(1984年4月号)の表紙に「流山児祥 村上春樹 新連載開始!!」と入れた。流山児祥と村上春樹を並べたのは、たぶん、おれだけです(笑)。村上春樹さんはGYAの流れです。ひさうちさんや川本三郎さん、蛭子能収さんもそうですね。最初のころはGYAとセレクションを一緒にやってた。後半になると、内田春菊、鴻上尚史、竹内義和といった人たちにも書いてもらいました。

『プレイガイドジャーナル』1984年4月号/表紙イラスト:栗岡佳子

『プレイガイドジャーナル』1985年4月号/表紙イラスト:栗岡佳子

『ぷがじゃ』1986年12月号/表紙イラスト:南伸坊

『ぷがじゃ』1987年6月号/表紙イラスト:あおきひろえ

——小堀さんが編集長のころには、『プガジャ』の人脈はすでに出来上がっていた?

小堀 そうですね。で、そこからさらに広げていこうと。おれがもうひとつ力を入れたのは、これは山口由美子さんが作っていた企画なんですけど、「風噂聞書」ていう、B6のころからずーっと続く名物ページ、街ネタですね。「かぜのうわさのききがき」というタイトルも大好きで力を入れていました。ほゆみや吉川佳江、表紙の絵を描いてもらったひろえちゃん(あおきひろえ)、B6の頃は日下潤一さんのアシスタントだったとっちん(土橋とし子)もイラスト入りでコラムを書いていましたし、藤原ヒロユキくんも長くコラムを書いてた。プガジャの“スタッフライター”はみんな書いていたと思う。

ミコさん(山口由美子)は、歴代『プガジャ』のいちばんの名編集者だと思う。彼女が編集長のときに、いろんな企画をやって、『プガジャ』がどんどん『プガジャ』になっていくわけだけど。ミコさんはサイズが大きくなってからもずっとつきあってくれて、おれたちは本当に助かった。おれが来た時は、ミコさんはもうプガジャからは離れてたけど、デザイナーとして、ライターとして、何よりひとりの“山口由美子=ミコさん”としておれらに付き合ってくれた。ロットリングで書く独特の手書き文字がすばらしくて、おれは「平野甲賀 和田誠 山口由美子」が昭和の“三大オリジナル書体”だと思ってる。手描きの地図も素晴らしかったですよ。ミコさんは『プガジャの時代』が出た2008年6月に亡くなりました。最後のインタビューが『プガジャの時代』に収録されています。

——とにかく人脈というか、情報や書き手のセレクトが『エルマガジン』や『ぴあ』とは全然違ってて、そこはすごい魅力やったんです。

小堀 そこはやっぱり、一人が持ってる情報量じゃなんともできない。今までの『プガジャ』が持っていた関係性を頼って、誰かに頼むってことをしていくわけです。

——雑誌としての成り立ちが、最初、アングラ演劇や音楽の情報を新聞に載せられなかったところからはじまったっておっしゃってたと思うんですけど、そのへんがちょっと違うのかな。たとえば、『エルマガジン』は……。

塚村 『ぴあ』みたいなのを作ろうって始まったように聞きました。神戸新聞の子会社の出版センターが出していました。役員会議の日には、神戸から恰幅のよい背広姿のおじさんたちが数名やってきていました。あとで別会社になりますが。わたしは入社してすぐ、編集長に、これは面白いから大きく取り上げて、こっちは削る、と言ったら、うちは“情報カタログ”だから、数多くもれなく掲載する、と言われました。

——『プガジャ』のほうが、もっとインディペンデントというか、サブカルチャーというか。

小堀 見たり関わったりすることが好きな人が中心になっているから、どうしてもプロデュース感覚っていうのが大きい。出会った人との関係性を大切にしていく。GYAが村上春樹を知っているということがあって、春樹さんにエッセイを書いてもらったり、当時の自宅までおじゃましてインタビュー(1985年10月号「村上朝日堂訪問記」取材・文:村上知彦)をするわけですが、それは村上知彦と村上春樹さんの関係性なわけです。

漫画家の川崎ゆきおさんにも長く連載してもらいました。おれ、名古屋時代から川崎さんの『猟奇王』の大ファンで、「無計画とアドリブで疾る」は、おれの座右の銘(笑)です。川崎さんとガンジー石原コンビによる『大阪もののけ紀行』は、単行本にもなりました(白水社、1989年)し、その後も、『アイプレス』(伊丹市立演劇ホールAI・HALL発行)、『季刊 劇の宇宙』((財)大阪都市協会発行)と、おれが編集する雑誌で「新・大阪もののけ紀行」として連載が続きました。そうしたことも『プガジャ』の成せる業でしょうか。

川崎ゆきお著『大阪もののけ紀行』白水社,1989年

雑誌がやっぱり面白いのは、特に月刊誌だから毎月出すわけじゃないですか。最低一年間ぶんは考えて本を作っているわけだよね。こういう特集しようとか、よし、この人とこの人を出会わせたらおもしろいのかなとか、そういう化学変化を考えてやっていくというのがすごく楽しくて。

特集でいえば「遊園地」「ビール」「電話」「日本酒」「インスタントラーメン」など、イベント情報ではない企画をやりましたね。そうした特集でもいろんな人に登場してもらいました。「日本酒」では、六代目笑福亭松鶴師匠に出ていただいたのが、うれしかったですね。

もうひとつ大きかったのは、「関西達人伝」かな。「市井に達人あり」っていうテーマで、いろんな職業の人たちにロングインタビューしてくっていう企画なんですけどね。連載の第1回目が、天満の東洋ショー劇場っていうストリップ劇場の照明の人(成瀬喜允さん)です。それをライターの大山健輔さんとカメラマンの垂水章さんの名コンビで取材した。ページ数が限られてるから、すごい小さい活字だったんだけどね。第2回が、天牛書店の天牛新一郎さんです。『プガジャ』だったら、たとえば、ひさうちみちおさんに書いてもらうことはこれまでの仕事の延長線上にあるじゃないですか。でも、照明さんや古本屋の人が出てくるってことはあまりないわけね。おれはこういうことがやりたかったわけです。大阪の街にこういう“ほんものの達人”がいるんだと。大山、垂水のおふたりには「達人伝」の後も「おおさか綺譚」「あんたに惚れた」と連載を続けてもらいました。

大山さんと垂水さんのコンビでは、『女子プロレス・ララバイ』(プレイガイドジャーナル社)っていう女子プロレスのルポの単行本を作ったんですよ。垂水さんの女子プロレスの写真を、当時『写真時代』っていう末井昭編集長の雑誌が載せてたから、その単行本を作ったときには末井さんに帯を書いてもらいましたね。そうやって話が広がっていく、そういうのがやってて面白いなって思う。

文・大山健輔 写真・垂水章『女子プロレス・ララバイ』プレイガイドジャーナル社, 1984年

大山さん、垂水さんは中島らもさんとも出会って、らもさんの最初の単行本『頭の中がカユいんだ』(大阪書籍/現在は集英社文庫)の出版記念パーティーの呼びかけ人にもなるんです。その会場も「関西達人伝」で取材した人の縁で出会った場所でした。

(続く)

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注釈

  • 川崎ゆきお:1951年、伊丹生まれ。マンガ家、エッセイスト。肉筆回覧誌『もののけ』を経て、71年、「うらぶれ夜風」でデビュー。底抜けにヘタクソだったため、ガロ誌上で物議を醸す。が、翌年から発表されるロマン活劇『猟奇王』シリーズは登場人物たちのやり取りがなんとも絶妙で少なからぬファンを獲得する。以降、マンガ家生活はラクではないようだが、ホームページの充実ぶりは驚異的! 毎日のように新作が発表される『千字一話物語』は4,000話を超えて久しい。川崎サイトへ(http://kawasakiyukio.com)
  • 猟奇王:悪事を企む猟奇王とその一味が大阪の東のはずれにあるアジトで愚にもつかないことを話している。怪人、社会人たちを巻き込んで街をパニックに陥れるにはどうしたものか? 江戸川乱歩『怪人二十面相』のパロディを通り越してズブズブヨレヨレの世界が展開されるロマン活劇。本作を原作とした8ミリ映画多数。北村想は『戯曲 猟奇王』を書いて1982年上演(『戯曲 猟奇王』白水社, 1990年)。「無計画は世の常よ」と声に出して言い放ちたい!
  • 大阪もののけ紀行:川崎ゆきおはマンガだけでなく文章も写真も面白い!とプガジャ87年4~12月号に連載。街に出没する妖怪を探して、梅田、中之島、帝塚山ほかを行脚する。追加取材分も収録して晴れて89年、白水社から単行本に。その後も1996~2006年にはアイプレス~劇の宇宙と発表の場を変えながら、下駄の雪のごとく連載は続く。川崎のお伴をするはガン爺ことガンジー石原。

(注釈:石原基久)