コボリの道「五輪」作・長谷川義史(2020年コボリさん年賀状より)

 

かつて名古屋の『名古屋プレイガイドジャーナル』と、大阪の『プレイガイドジャーナル』で「最後の編集長」をつとめた編集者・小堀純さん。インタビュー第2回は『名古屋プレイガイドジャーナル』時代のお話を引き続きうかがっていきます。劇作家・北村想さんとの出会いと、北村さんの初めての本の出版。そして、ついに訪れた『名古屋プレイガイドジャーナル』の編集部解散……。決して甘くはない話ですが、それでも青春だなぁと思わずにはいられない。演劇、映画、音楽、サブカルチャーの渦の中に飛び込み、作家や演者とともにシーンを盛り上げてきた編集者の、希望と絶望、夢と現実。時代の証人による貴重なインタビューをぜひお読みください。(丸黄うりほ)

北村想さんの出世作『寿歌』と、『不・思・議・想・時・記』

——引き続き『名古屋プレイガイドジャーナル』時代のお話をうかがっていきたいと思います。1976年に小堀さんが入社してすぐに出会ったのが、当時はまだ無名だった劇作家の北村想さんだった。小堀さんが入る前から経済状態が悪かったという編集部に漂う「陰の気」と、それとは対照的な北村想さんの「キラキラした感じ」、この対比は面白いですね。1980年には、名古屋のプレイガイドジャーナル社から北村想さん最初の本『不・思・議・想・時・記』が出ます。

北村想 著『不・思・議・想・時・記』株式会社プレイガイドジャーナル刊,1980年

小堀純さん(以下、小堀) 『不・思・議・想・時・記』のことを話す前に話しておかなくちゃならないのが、この本にも収められている戯曲『寿歌(ほぎうた)』のことですね。この作品、今では海外でも上演されていて、戦後50年の演劇評論家が決めるベスト戯曲(演劇批評誌『シアターアーツ』「戦後50年ベスト戯曲と劇作家」1994年)の第3位(*)に選ばれたりもしているんです。1位が三島由紀夫の『サド侯爵夫人』、2位がつかこうへいの『熱海殺人事件』だよ。

——それは本当にすごい。

小堀 ですが、『寿歌』を書いた頃、想さんは神経症になっていたんですね。当時は神経症って言葉がまだ一般的じゃなくて、「ふらふらする、道が揺れてみえる」って。それで、おれらは「それはやっぱり肉を食ってないからじゃないかな」って。

——(笑)。

 小堀 「想さん、肉食ったらいいんじゃないか?」って言って。おれらは無責任なことばかり言ってて。想さんは全然よくならない。それで、想さんは真夏に滋賀の実家に帰って、ほぼ1日で書いたってのが『寿歌』なの。しかも、当時はガリ版印刷なんだけど、普通は原稿用紙に書いてからそれをガリ版に写し書く。なのに、直接ガリ版に書いた。

塚村編集長(以下、塚村) ええっ、すごいね。

小堀 だから元原稿が残ってない。想さん、ほんとに身体からだがシンドくて、原稿用紙に書くのがもどかしかった。ガリ版ってすぐ刷って、原紙はすぐ捨てちゃうじゃない。当時おれは想さんとほぼ毎週会ってたかな、想さんも金がないから「映画の招待券ない?」とかってしょっちゅう事務所に来て、一緒に松竹新喜劇を見に行ったりとか、大須演芸場に落語を聞きに行ったりとかしてた。なので、まだインクの匂いが残っているような台本をおれに見せてくれたわけ。

それまでのアンダーグラウンドの芝居っていうのは唐十郎さんの影響がすごく大きくて、時空を超えたり……とかっていう芝居が多いんだけど、『寿歌』は登場人物が、ゲサク、キョウコ、ヤスオの3人だけのすごいシンプルな芝居だった。しかも、核戦争が終わって廃墟になった関西らしきところを、リヤカーを引いた男と女の芸人があてのないまま旅していて、キリストらしき人と出会うっていう話なわけですよ。戦後の現代劇は『寿歌』がターニングポイントだったとよくいわれるのはそこで、世紀末の時代に「明るい虚無」って評されたけど。鴻上尚史もその影響を受けるわけです。

おれは想さんに「これいつやるの?」って聞いた。そしたら「まだ決めてない」って言う。当時、想さんの劇団には個性的な女性がいろいろいたので、キョウコっていう役をいろんなタイプの役者にやらせようってなって、それを実験公演的に12月にやった。

名古屋の大曽根にあった鈴蘭南座でした。元々は大衆芸能の旅芝居を掛ける木造の雰囲気ある劇場で、『寿歌』によく合ってましたね。おれにとって南座といえば鈴蘭南座で、七ツ寺共同スタジオと共に、当時の演劇シーンには欠かせない劇場でした。「黒テント」や「東京ヴォードビルショー」、「満開座」など演劇公演のほか、麿赤兒の「大駱駝艦」などの舞踏公演、浅川マキや「生活向上委員会」とかフリージャズのライヴもやってました。

もうすごい感動しちゃってね。打ち上げで「想さん、この芝居で東京に行こう!本も作ろう!」って言ったんだ。3人しか出ない芝居だから金がかからないと思ってた(笑)。で、そのときはそれで終わったんだけど。

しばらくして編集会議をしてて、表4に入れる広告もないし、自社広告もネタがつきたし……っていう暗い話をしているときに、想さんがふらっと事務所に現れた。「小堀くん、こないだおれの本を作ろうって言ってくれたじゃないか。ここに50万ある。50万じゃ足りないと思うけど、ATGだって監督とATGが折半して映画を作ったという話もあるから、これでおれの本を作ってくれないか」って言われたわけ。

——北村想さんがお金を出したわけですか。自費出版ということですか?

小堀 違う。50万円で本はできないよ。でも、こんなにうれしいことはないじゃない。好きな作家が50万という大金をね、しかも想さんもどこかで借金してきたと思うんだよ。おれ、生まれて初めて「50万」という金を見た。当時の東海銀行の封筒に入ってて、おれが仮領収書を切って、よしやろうってなるわけ。それが、79年の暮れで、3月に『寿歌』を所収した単行本『不・思・議・想・時・記』を出版して、4月に東京公演、5月に大阪公演をやった。そしたら扇田昭彦さんをはじめ評論家の人たちが「面白い!」って言ってくれて。

——50万で本は作れないってことは、あとのお金はどうしたんですか? 当時、『名古屋プレイガイドジャーナル』は社員の給料も出ないくらいに逼迫していたんですよね?

小堀 もちろん、「あとで何とかします」の借金。営業担当の林正樹くんが金をかき集めてくれて、印刷屋に無理言ってやったわけ。このとき東京、大阪に行ったキョウコ役の俳優の一人が火田詮子。火田詮子さんのことは「実録 火田詮子」(火田詮子舞台活動50周年記念誌刊行委員会)を読んでください。彼女は自分の本の出版を待たずに2019年5月に亡くなったんです。キョウコは佳梯かこ(当時は佳梯カコ)も演じていて、彼女は『名古屋プレイガイドジャーナル』でおれのアシスタントもしていた。かこちゃんも2016年に急逝してしまう。機会があれば、ふたりのことは話しておきたいし、書きたいと思っています。

『実録 火田詮子 アングラの交差点に立ち続けた役者』火田詮子舞台活動50周年記念誌観光委員会 発行 丸善名古屋本店  ちくさ正文館書店にて取り扱いあり

それで、演劇界の芥川賞とよばれる岸田國士戯曲賞(主催・白水社)というのがあって。この賞は今年で65回になりますけど、岸田賞候補になるための当時の絶対条件は、戯曲が活字になっていることだったの。

——『寿歌』は、活字になっているし!

小堀 そう。活字になるってことは、地方の作家にはまずないじゃない。単行本で出るか雑誌に掲載されるかしかないわけですよ、でもそんなことは地方の作家にはほとんどないわけじゃない。で、本が出て白水社の人にあった時に「小堀さん、これで北村さんは岸田戯曲賞の候補になるかもしれません」って。実際、候補になるんです。惜しくも受賞には至りませんでしたが。

——ああ、なるほど。そうだったんですね。

小堀 本が出ると当然いろんな人が読む。それで、加藤健一事務所が『寿歌』をやるわけですよ、それでさらに話題になっていく。

——北村さんにとってはプレイガイドジャーナル社から『不・思・議・想・時・記』を出し、そのなかに『寿歌』がはいっていたことが大きな意味をもった。

小堀 同じタイトルの「不・思・議・想・時・記」という連載を名古屋のプガジャでずっとしていたのね。この本に載っているのはそれをまとめたのと、『寿歌』と『挽歌「R・Aブルース」』という戯曲と、あと「おでん屋の呪文」という書き下ろしの童話。その挿絵は伊藤秀男さんです。

——この本があったから、北村さんが世に出たといっても過言じゃないですね。

小堀 想さんが、日経新聞の「プロムナード」っていう連載エッセイ(2002年)で、おれのことを“育ての親”っていうふうに書いてくれて。海のものとも山のものともわからない自分の本を出してくれた。当時の社長がこんな売れないものは捨ててしまえって言ったけど、小堀くんたちがなんとか頑張ってやってくれた。小堀くんはそのあと大阪に行って、いっぱい人を育てた……と。

それで、ただひとつだけ小堀くんに言いたいのは、「想さんは早い安いうまいの吉野家作家だから」って彼は言ってたけど、早いとうまいはちょっと自信があるけど安いだけは勘弁してくれって(笑)

——正直、北村さんが事務所に来て本を出してほしいっておっしゃったとき、二つ返事で出せるって思いましたか?

小堀 いや、それはまったく思わない。でも50万円っていうお金を預かったから、やんなきゃいけないと思った。

——当時は北村さんも無名じゃないですか。でも、この人には才能があると、小堀さんはそのときから感じてらしたんですか。

小堀 それはね、自分で言うのもあれですけどね、人様の作品を見る目はそれなりにあると思うのね。それに想さんはおれじゃなくても才能は分かると思う。やっぱり編集者としては才能に惚れて、なんとか本を出したいというのがあるわけ。それは大阪に来てからもずっとそうですね。でも金はないわけ、それは如何ともし難くて。この歳になった今でも一緒なのが情けない(苦笑)

だけど、あとは大変だった。この本、カバーと帯、“手巻き”なの。「おまえんとこは金が足りんからな、あとは自分たちでやって」って印刷屋に言われて。3000部刷っちゃったから。それを想さんとこの劇団員(当時は「T・P・O師★団」)と編集部で、七ツ寺共同スタジオの二階で手巻きだよ。おまけに当時の社長が、重版がかかんない本はかっこわるいとか言い出して、帯を最初から2種類刷ったんだよ。だからカバーに「第2刷」がありますが、初版だけです。

それで、この本も雑誌と同じように愛知、岐阜、三重の本屋に直販でもっていくわけ。「これは何だ!?売れないだろう」って言われるわけですよ。でもまあ1冊でもいいからって置いてもらう。そしたらだんだん評判になっていく。想さんが評判になったり新聞で取り上げられたりすると置いてくれる本屋も増えてくるわけですよ。

『寿歌』の最初の東京公演は1980年4月の24日、25日です。浅草の木馬亭でやりました。木馬亭は「演劇★団」の流山児祥(現在は「流山児★事務所」主宰。日本演出者協会理事長)の紹介です。彼がいなかったら『寿歌』の東京公演は実現しなかった。そのとき、「七ツ寺共同スタジオ」に出入りしていた東京の劇団にみんな声かけて来てもらった。東京の新聞社にも想さんを連れて情宣に行きました。そこで扇田昭彦さんや山本健一さんにお会いした。

加藤健一事務所は、翌年の1981年10月の上演です。ただ、おれには情報がなくて、『ぴあ』の演劇欄を見たら、『寿歌』を「加藤健一事務所」でやるって書いてあって。

塚村 加藤健一さんは「つかこうへい事務所」の作品で人気が出た俳優さんですね。

小堀 当時は「加藤健一事務所」を旗揚げしていた。それで、想さんに「上演料の話、聞いてる?」って言ったら「知らん」って。しっかりとした形で連絡をしてなかったんだと思うね。それで、これはあかんやないかってなって、営業の林と一緒に話をしに銀座まで行った。銀座みゆき館で公演してたから。

「やっぱり北村さんに上演料払ってもらわないと困りますな」って。そしたら、制作の人は「もちろんお支払いしますよ」って言う。「え、払うって言ってるよ?」「びっくりするくらいふっかけてやればいいんじゃないですか?」「そうだな、高く言って下げればいいんだからな」って。それで、「10万円でどうですか?」って言ったら「あ、10万でいいんですか?」って。

塚村 それは安すぎる(笑)。

小堀 いや(笑)、当時のおれの感覚だと10万って100万くらいの感じだから。それで、「本もってきたんで受付で本売っていいですか?」ってお願いして。おれたちはその本の売り上げで名古屋まで帰ってきた(笑)。おれがプロデュースした想さん演出のオリジナルより加藤健一事務所公演で『寿歌』は有名になっていくんですね。

その後、「加藤健一事務所」の10周年か15周年のときのパンフレットに想さんが原稿を書いてて、「僕が『寿歌』で初めて上演料をもらったのは加藤健一さんのところでした。たしか10万でした。当時としては結構なお金をいただきました」って書いてあってね。ああ、あれはおれが言ったんだなと思って。

加藤健一事務所の翌年1982年2月には、吉田日出子さんも『寿歌』のキョウコを串田和美さんの演出で俳優座劇場でやるんだよね。そして、そこに描かれている世界観がさらに評判になっていく。

そんなわけで、想さんはどんどん有名になっていくんだけど、『名古屋プレイガイドジャーナル』はどんどん厳しくなってくるという状況で。労働争議やってたんだけど、もうほんと埒があかないわけですよね。結局は解散しようっていう話になった。そのころ、大阪の『プレイガイドジャーナル』とは一緒に芝居の制作協力などをしてたこともあって、大阪に来ないかと言われたんです。

名古屋アングラの拠点「七ツ寺共同スタジオ」

——『名古屋プレイガイドジャーナル』にとって、また名古屋時代の小堀さんにとって、人として大きな存在だったのは北村想さんだったと思いますが、場所としてはやはり、七ツ寺共同スタジオが筆頭に上がってくるでしょうか。

小堀 そうですね。七ツ寺共同スタジオは、その名の通り、演劇だけでなく、さまざまな表現に係わる人たちが自主運営していた。中心になったのは、二村利之さんという元名古屋タイムズの記者です。七ツ寺共同スタジオには東京や関西からも才能のある人がたくさん来た。いま戯曲集(『竹内銃一郎集成 全5巻』松本工房)を作っている竹内銃一郎さんや、そのほかにも、つかこうへいさん、流山児祥さん、山崎哲さん……、戦後アングラ演劇の「第2世代」といわれる人たちがやって来た。そうした人たちに出会えたのは大きかった。おれ、酒は強かったから。みんなも金ないけど共同スタジオに酒だけは、差し入れの酒があるから酒飲んで話してたわけね。

七ツ寺共同スタジオは倉庫を改造した劇場なんですけど、二階が楽屋になっていて泊まれるのがよかった。自炊もできた。東京のアングラの連中は旅をしたいけど大阪は泊まるところがない、京都は西部講堂があるけど。名古屋は東京からも関西からも比較的近くて、共同スタジオは劇場に泊まれるっていうのがすごく大きくて、そういう人たちがたくさん来たわけ。想さんの劇団「T・P・O師★団」が運営していた時期もあって、その時代はまさにおれの名古屋どまん中ですね。

名古屋ってちょっと京都と似てると思う。画廊も多い、とくに現代美術系の画廊が多い。ジャズ喫茶、ロック喫茶もあって、かと思うと大劇場もあって、伝統と前衛が渾然一体となっている。街頭パフォーマンスで有名な岩田信市さんたちの「ゼロ次元」も名古屋ですし、日舞の西川流もある。まあ、あくまでも70年代のおれの印象だけども。そういうところで20代を過ごせたというのは大きかったと思う。

——小堀さん、もともと出身は?

小堀 名古屋生まれで名古屋育ち。ただ最近は、小堀純は大阪生まれなんて書かれたりもしますけど(笑)。

——名古屋アングラの聖地、七ツ寺共同スタジオは今もあるんですか?

小堀 「聖地」とはちょっとイメージが違います(笑)が。そろそろ50年になるけど、今も健在です。50年もたつと場所も一つの人格をもってくるようになってくるね。西部講堂もそうだけど。

七ツ寺共同スタジオがある大須は戦前からの名古屋の盛り場で、“新世界的浅草”とでもいいますか、大須観音を中心にして商店街があり、演芸場、映画館があり、かつては自由民権運動の拠点だったりしたというような濃いところです。まあそんなところにあるアングラの拠点ってことで、今は笑い話だけど、名古屋市の教育委員会がああいうところは悪いところだから、高校生は行かないようにって言ってたらしい(笑)。

少年王者舘」の天野天街や、「劇団ジャブジャブサーキット」のはせひろいちもここでやってるし、豊田勇造さんもよくライブをしていた。瓜生良介さんたちの「発見の会」や、「維新派」の松本雄吉さんもそうですし、“前衛”のそうそうたる人たちは共同スタジオに出入りしている。20周年記念では野外劇で澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を松本雄吉の主演、天野天街の脚色・演出でやってます。演劇や舞踏、音楽だけでなく、岡部道男や、原将人の実験映画や、大森一樹の自主制作「暗くなるまで待てない」、井筒和幸(当時は和生)のピンク映画や日本維新派のドキュメント「足乃裏から冥王まで」も上映していた。そういうものを、意識的に仕事として見るようになると、取材もするし、どんどん内側に入っていくんですね。

この本『空間の祝杯』のいいところは年表がのってるんですよ、同時代史になっていて、七ツ寺共同スタジオの歴史だけじゃなくて、名古屋だけでもなくて、全国でこの時代に“何”があり、“何”が行われたか。共同スタジオのことだけじゃなくて、表現を中心とした同時代史になっている。しかも、スタジオができる前から歴史を入れているのがいい。歴史っていうのはそういうふうに振り返らないと、定点でそのときだけ見てもダメなのね。おれはそういう考えがもてるようになったのは、曲がりなりにも大学で国際政治史を勉強してたからよかったなと思うの(笑)。

七ツ寺共同スタジオ25周年記念誌『空間の祝杯』。小堀も執筆している。40周年記念誌『空間の祝杯II』もある。

カルチャーの化学変化の場『名古屋プレイガイドジャーナル』

——『名古屋プレイガイドジャーナル』の経営はずっと悪くて、でもそこで頑張ってこられたのは、さまざまな出会いがあり、やりがいを感じてらしたから?

小堀 雑誌の編集部も劇場と同じように、ひとつの場所ですよね。場所ってメディアじゃないですか。その場所で出会って交流していく、化学変化を起こしていく。

場所は場所にしか過ぎないけど、そこに来る人、何かやる人によってどんどん変わっていく。やっばりそこが面白いところで。でもそのためにはその場所が自由でなければならない。そんな場所を維持しなきゃならない。大変なんだけども。

——『名古屋プレイガイドジャーナル』もそういう場所であったということですね。

小堀 情報を載せるだけの情報誌じゃなくて、森田芳光監督の8ミリの名作『ライブイン・茅ヶ崎』とか映画の上映会や、演劇公演、コンサートも企画していた。編集部にはそうした表現者もやって来るわけです。

雑誌という場所と、掛ける小屋と、やる人たち、見にくる人たちっていう有機的な関係がないとできていかない。場所には場所の意味があって、雑誌には雑誌の意味があるんだけど、どれか一つでも欠けたらダメなんじゃないかな。それが名古屋の時にわかったっていうのが、とてもよかったんじゃないかなと思う。

——小堀さんが『名古屋プレイガイドジャーナル』に入社したのは、たまたまみたいな感じだったけど、やっているうちに……。

小堀 そう。やっぱりやってみないとわからない。

名古屋の今池にあるミニシアターの草分け名古屋シネマテークを創設したのが「ナゴヤシネアスト」という上映団体で。団体っていっても当時は倉本徹さんという人が一人で切り盛りしていた。シネアストとプレイガイドジャーナルが共同で、ゴダールの『男性・女性』やサントーニの『眼を閉じて』の上映会も企画してました。倉本さんもしょっちゅう事務所に来てて、飲みに行ったり映画の話したり。

シネアストは名古屋日仏協会から英語字幕のヌーベルヴァーグの映画を借りてきて、トリュフォーの『ピアニストを撃て』やルイ・マルの『地下鉄のザジ』の上映会をしていたから、おれも読めない英語でフランス映画みてました(笑)。

平野勇治 著『小さな映画館から』安住恭子 発行, 2021年。名古屋シネマテークの元支配人がさまざまな媒体に寄せた文章を書籍化。名古屋シネマテークの受付で販売。通販はこちらからお問合せを

——今ふと思ったんですけど、名古屋っていう場所だからそれができたのかな。東京くらいサイズの大きい街だと、ひとつの雑誌にそれだけいろんな人が関わってこない。もっと分かれていくと思うんですよ、専門家がほかにもたくさんいるから。

小堀 名古屋は目利きの人はいっぱいいるんですよね。編集部のなかにもおれの前の編集長で映画担当だった犬飼豊さんっていう人がいたんですけど、その人はすごいインテリで文学や映画に詳しかった。七ツ寺共同スタジオもそうだけど、大須には、大須実験ギャラリーという実験映画をやるスペースや今池には一時期、ジァンジァン(後に芸音劇場)もありました。ジァンジァンでおれは関西から来た「満開座」を初めてみて、衝撃を受けましたね。

——いろんなジャンルの人との関わりが、ミックスされて入ってきたというのは名古屋ならではだったのかも。出会いの広さという意味で。

小堀 安部公房さん主宰の「安部公房スタジオ」が名古屋公演をしたいっていうんで電話かかってきて。それで、劇場おさえて公演のお手伝いをしたこともあるし。安部公房さんにもお会いしましたね。

塚村 ほかに媒体がなかった?

小堀 商店街のスポンサーがついた情報誌はあったけどね。

——演劇、映画などの文化に強く入っていくのは断然『名古屋プレイガイドジャーナル』ですよね。

小堀 しかし、金がないのは如何ともし難く。こればっかりですが……。『空間の祝杯』にも自分で書いてるけど。

「あいかわらずの重苦しい雰囲気が編集部を支配していた。好きでやっている仕事とはいえ構造的な赤字体質は如何ともし難く、もうまともに何カ月も給料が出ていなかった。いや雑誌が創刊して会社がスタートした時点から給料というものがきちんと出たことはなく営業の林が血の汗を流しなんとかとってきた二、三万の金で編集部員たちが飢えをしのいでいた。みんな若かったし、己の体力だけを信じていた。名古屋栄の盛り場の一等地にあるとはいえ、日当たりと風通しの極端に悪いその四階建ての代物はビルというにはいささか気恥ずかしい、まったくもって当時の私たちにぴったりの入れ物だった。26歳の私はそこで演劇担当をしていた。翌年編集長になり、最後は労働争議の真似事をして…社長を休養させ、結果私たちは編集部を解散することになるのだが、冬の寒さが身にしみたその日はそうした青春漫画の結末がまだまだ何ヶ月も向こうにあった……」(小堀音読する)

——……27歳で編集長になったということですね。そして、『名古屋プレイガイドジャーナル』が1982年に終わる。そのときは?

小堀 編集長で社長代行。大学の先輩に労働基準局にいた人がいて、「小堀、少人数でも組合つくれ」と励まされた。

——結局何年いたんですか?

小堀 丸6年やっていたと思う。

——そんな状態で6年も。

小堀 2万円でも出た頃はまだよくて、その後まったく出なくなって。いしいひさいちさんの「バイトくん」や「安下宿共闘会議」の世界。その頃のことでおれがよくいうのが「ビンボーとマイナーを絵に画いて破り捨てたくなる」ような日々。まあ笑い話だけど、岐阜に行かなきゃいけないのに金がない。編集部に貼ってあった大入袋をあけたら50円、100円入っているのがあってそれを集めて岐阜に行けたね。

それで、おれよく言うんだけど、20代のころのおれに今は絶対会いたくないね。

——なんでですか?

小堀 怖いんだと思う、当時のおれは。今のおれに会ったらたぶん、「小堀さんは、なんでこんないいかげんなんですか?」って意見される。

塚村 当時はもっと気を張ってた?

小堀 うん。昔の方が活動的。だって東京まで片道切符で行くわけじゃない。頭の中はどうやって帰ろうかな、どうやって帰ろうかなって思ってる。

——まあ、ほんとに青春ですね。

小堀 そう、青春ですね。若くてバカじゃないとできないっていうのはありますよね。

それで『寿歌』の大阪公演を考えてて、どうしようかって迷っていたときに、そうだ、キリストのような人がでてくるので島之内教会でやろうかって思ったのね。

——では、このへんで名古屋のお話を終わって、大阪の『プレイガイドジャーナル』へ……。

(続く)

*その1はこちら

  • *演劇評論家が選ぶ〈ベスト20〉戦後戯曲の五十年 1945~1994(集計・前文=扇田昭彦)。第3位には同数で、唐十郎の『少女仮面』、太田省吾の『小町風伝』、斎藤憐の『上海バンスキング』が入る名作揃い。参考:AICT(国際演劇評論家協会)日本センター編『シアターアーツ1994—1』晩成書房。