ヒカシューの最新アルバム『なりやまず』はほぼ即興録音。その録音スタイルのルーツは『転々』(2006年)にありました。では、ヒカシューの即興指向はいつごろからはじまったのでしょうか? 今回の話題はヒカシューのデビュー当時(1979年)、さらにはデビュー前(1974年)のロンドンにまでさかのぼります。当時の破天荒なライブパフォーマンスとは?プロデューサーとの関係は?知られざるエピソード満載、プログレ、ニューウェーブファンも必読です!(丸黄うりほ)
1曲も演奏しなかった「20世紀の終りに」発売記念ライブ
――ヒカシューの音楽に即興の要素が多くなってきたのはいつごろからでしょうか? ジョン・ゾーンと巻上さんの関係が深まった『殺しのブルース』(1992年)あたりからかな、と私は感じているんですが……。
巻上公一(以下、巻上) いや、ヒカシューは最初からですよ。初期のライブを聴くと半分くらい即興ですね。デビュー前から即興をやっていたんですよ。
過去のテープを聴いていたら、なかには歌を歌わないで全部即興のライブもありました。なにをやっているんだって感じ(笑)。だって、「20世紀の終りに」のシングル盤を出したとき(1979年)、発売記念ライブを渋谷の「屋根裏」っていうところでやったんだけど、人が入れないくらいいっぱい来ちゃったのに1曲も演奏してないんですよ。
――えっ?
巻上 若者なの。若者だから、妙に反発。商業主義に反発心があって、なんで出した曲ばかりやらないといけないのかと思っちゃって、「屋根裏」ではずっとパフォーマンスやって、最後にジョン・ケージの曲やって終わったよ。
――ヒカシューの曲は、やらなかったんですか?
巻上 1曲も演奏してない。マイクを立てて発泡スチロールこすったり、歩いてみたり、ゴソゴソやってみたり。それで、みんなラジカセもってきて、ケージの「ラジオ・ミュージック」って曲をやったんです。全部のカセットテープに同じ曲が入っているんだけど、それを再生して、音がずれてワーッてなるっていうパフォーマンス。山下さん(山下康)が指揮して、ビー、ゴー、ガギーとかやって(笑)。あと、レーザー光線使って遊んだりとか。
――「20世紀の終りに」を聴きたいと思ってやってきたファンはどんな反応でしたか?
巻上 超満員でね、入りきらなくて2回やったんだよ。誰も怒ってなかったです。がっかりした人はいたかもしれませんけど。
――もうそれは即興演奏どころじゃないですね(笑)。でも、見たかった!
巻上 だから、ジューシィ・フルーツとヒカシューに、「田園コロシアム」でサザンオールスターズの前座やれって言われたときも、「やーなこった」と思って。
しかも、サザンだけ生演奏で、「お前らはカラオケでやれ」って言われたの。で、「僕らカラオケでは絶対にやりません。違うのやっていいですか?」って言ったら、「しょうがねえな、やっていいよ」って言われて。結局演奏しないで、ごはんを食べるだけっていうパフォーマンスをしたの。
――サザンのお客さんの前で?(笑)
巻上 ウケるわけないよね。
――観客の反応は?
巻上 「おおーっ」とか言ってた。というのはね、客入れのときから、僕らずっとステージにいたのよ。で、動かないっていうパフォーマンスしてたの。ずっと動かない、60分間。60分間動かないって結構大変なんだけど、演劇出身だからね。黙ったままずっといて、60分たったら合図があって、このへんにナイフとフォークが置いてあるんだけど、そのフォークをこうやって……持ち上げるんですよ。そしたらお客さんが…「ウオオオオーッ」って(笑)
動かないものがちょっとでも動くとものすごい大きな動きに見えるっていうパフォーマンス。あとは料理が運ばれてきて、それを食べた。
――(笑)
巻上 それ、よくやりましたね。
――よくやりましたということは、事務所にも怒られなかった、と。
巻上 ヒカシューのファンは誰もきてないから。サザンオールスターズのファンだからね。別にやっても宣伝にならないし、せっかくだから遊んだほうがいいだろうって。
東芝EMI時代のヒカシューは、近田春夫プロデュース?
――当時はアミューズ所属だったんですよね。
巻上 そうです。プロデューサーの近田さん(近田春夫)がアミューズに入っちゃったからね。
――近田さんとしてはヒカシューをプロデュースして、すごく売ってやろうって感じだったんですよね?
巻上 多少はね。でもスタジオに来てませんから。僕らがプロデュースしてますから。
――えっ?
巻上 近田さん最近ね、『調子悪くてあたりまえ』(リトル・モア)っていう自伝を出したんですけど、それにも書いてるから。「おれはほとんど行ってない」って。
――それはどういうことですか?近田春夫プロデュースっていうのは……。
巻上 いや、近田さんプロデュースっていうのは間違いない。ただ、3枚目の『うわさの人類』(1981年)のときは一回も来てませんね。でも、僕らをデビューさせくれたので。で、たまに来て言うことは、「おまえら元気よくやれよ!」……以上(笑)。「巻上、思いっきりベース弾けよ!」「はい!」とかって(笑)。
――(笑)。じゃあ、プロデューサー的な人というのは別にいたんですか?
巻上 いや、自分たちでやりました。まあ東芝EMIのディレクターとエンジニアはいたし、エンジニアはベテランなので。でも、そのとき僕らみたいなバンドのレコーディングの仕方がわからなかったみたいで、相当苦労してましたね。普通のバンドじゃないから。いきなり即興演奏始めちゃうんですよ、レコーディングで。
ファーストアルバム『ヒカシュー』(1980年)の最初のところは、即興のなかからリズムボックスが出てくるっていうのを考えてたんですね。ピー、プォップォッて鳴ってから、ドンドンタッタ……ってリズム入ろうと思っていたのに、「何やってんだ」とか言われてカットされちゃった。もっと即興演奏が入ってるはずだったんですよ。
――初期のヒカシューにはそんなに即興がないと思っていたけど、それはカットされていたということですか?
巻上 そう。ずっと即興演奏をやってて、その中から生まれたバンドなので。
塚村編集長(以下、塚村) でも、そう受け止めてない人のほうが多いかも。ヒカシューの初期はテクノポップのバンドと思われていましたよね。
――私の場合は、NHKの番組『600こちら情報部』を見て、印象が決定的になりました。ヒカシュー、プラスチックス、P-MODELの「テクノ御三家」が同時に出て、ヒカシューが「20世紀の終りに」、プラスチックスが「COPY」、P-MODELが「美術館で会った人だろ」を演奏していました。で、この人たちは何なんだ?すごいものを見てしまった。見たことのないものを見た、って思いました。ヒカシューはとくに衝撃でした。あの印象を今も強く持っている人って、結構いるんじゃないかなと思います。
巻上 うん。そういう感じでデビューしたので、会社の基本方針としては即興演奏をカットする。でも、「プヨプヨ」には即興演奏のパートが入っています。
――そうですね。「プヨプヨ」をライブで見ると、レコードやCDに入っているのよりもかなりインプロが長くなっていて、おおかっこいいと思いました。
巻上 テクノ的なリズムがはっきりしたのと、よくわからない自由なものがあわさっているっていうのが、ヒカシューの楽曲のコンセプトだったんです。
1974年、ロンドンの劇団で即興演奏に出会った
――私は「テクノ御三家」のなかで、ヒカシューにはインダストリアルと呼ばれる人たちに近いものを感じていました。定型のリズムだけではなくて、変拍子になったり、すごい転調をしたり、曲の途中でノイズがはいってきたり、歪んだ音がはいったり。
巻上 ドイツの音楽に影響を受けてたからね。いちばんはクラフトワークなんだけど、アモン・デュールとかFAUSTとかGURU GURU とか、アバンギャルドなフォーク調に影響を受けました。
――クラフトワークも、初期は即興演奏していましたよね。
巻上 うん、フルート吹いたりしていたからね。あの感じに近いかも。
――初期の3枚、それと『アウトバーン』にはまだちょっと即興演奏ぽい感じが残っていますね。そのあとからは完全に……
巻上 ロボットみたいになっちゃうけど。すごく影響受けてますね。あとはもちろんロキシー・ミュージックも。
――ロキシーも初期の2枚はインプロがかなり入っていますよね。サックスも入ってて。
巻上 うん、だからヒカシューもサックスが欲しいと思いました。
――イーノのシンセもきちっと入らないですよね、かなり即興的。
巻上 ちょうど1974年にロンドンにいたんですけど。
――あ、そうなんですね?
巻上 そのとき、ロキシー・ミュージックが初期に練習していたところは、知り合いの演劇プロデューサーのジョン・アシュフォードのガレージでした。ヒカシューの井上誠(イノヤマランドBiography)は、その家に泊まってました。
当時入っていたのは、ルミエール・アンド・サンという、パフォーマンスの劇団です。即興演劇でもあり、即興演奏も加えたユニークなものでした。「光と音」という意味のフランス語なんですけど、パロディ的な名前ですね。イギリスの会社ってなんとかブラザーズとかスミス&サンとかそういうのが多いでしょう、そのパロディでフランス語でイギリスの会社風の劇団名だった。
ルミエール・アンド・サンにはピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズがお金を出してくれていた。当時ヘンリー・カウのメンバーだったリンゼイ・クーパーもいた。リンゼイさんはもう亡くなったけど、フィル・ミントンっていうボイスパフォーマンスの人も近しい関係で、そのときの仲間とは今も仲がいいんですよ。僕はそこで即興演奏に出会ったんです。だから日本に帰ってきても、そういう流れがあるんですよね。
塚村 もともとロンドンに行ったのはなぜですか?
巻上 東京キッドブラザーズのニューヨーク、ロンドン公演です。それで行って、ロンドンでやめたんです。
塚村 それは伝説のように聞いたことがあります。
巻上 「もう一本ロンドンでミュージカルを作りたい、で、君は残るか?」って東由多加に言われて「やめます」って、やめちゃったんだけど、帰るまでに何カ月かあったんですよ。そのときにルミエール・アンド・サンの演出家ヒラリー・ウエストレイクに「芝居があるんだけど出ないか」って言われて。東京キッドブラザースの先輩の楠原映二さんも参加していたので、安心だったし、ヒラリーさん宅に居候して、短い間に2本ぐらい出ました。
塚村 その短期間に知り合ったんですか?
巻上 そうです。ヘンリー・カウは大好きなバンドですよ。ピンク・フロイドも大好きだし。そんな身近になっちゃってびっくりしましたね。
コニー・プランクの返事は「ぜひやりましょう」だったが…
巻上 なので、ヒカシューの所属レコード会社が東芝EMIに決まる前、近田さんに会う前に、デモテープをブライアン・イーノに送ってるんですよ。そしたら、イーノのファンジンがあるんですけどね、そこにヒカシューが紹介されて載っていました。僕らは彼に「プロデュースしてほしい」って書いて送ったんだけど、「十分にプロデュースされている」って書かれていた(笑)。
そのあと、2枚目のアルバム『夏』(1980年)をコニー・プランクのスタジオで録音したいと思い、クラフトワークなどを録った彼に、「プロデュースしてもらえないか?」と手紙を書いて。そしたら、「ぜひやりましょう!」と返事が来た。なのに、東芝EMIにまったく理解がなかったので行けなかったんです。
塚村・丸黄 ええーっ!!
巻上 「せっかく良い返事もらったんですよ!」って言ったんだけど。東芝EMIの人たちには「誰だろうこの人?」みたいになっちゃって。Phewはその後、ドイツに行って録音しているんだけどね。
――それは残念すぎますね。もしコニー・プランクがヒカシューをプロデュースしていたら、その後の音楽シーンはどう変わっただろう?
巻上 本当にこういうのは難しい。今はもう全部自分でやっているからできるようになったけど、会社があるとなかなか理解してもらうのは大変です。お金の使い方も、そのときは自分たちでコントロールできなかった。『日本の笑顔』のアルバム制作から、作品のマネージメントに意識的になりました。
『殺しのブルース』は、会社と金銭交渉からはじめ、予算を自分でコントロールできるようになったんです。あのときは予算をいただき、旅行プランからなにからすべて自分で手配しました。大友良英の欧州ツアーのサポートもその予算の中でしました。内容は、ジョン・ゾーンと話し合いながら作りました。ニューヨークに到着してから、灰野敬二にも来てもらおうとか、スケジュールはスリリングでした。ロバート・クワイン、ガイ・クルセベク、ジョン・パットン、マーク・リボー、ナナ・バスコンセロスなど、メンバーは豪華でした。
――『殺しのブルース』は、巻上さんがやりたいようにやれた最初の作品なんですね。
巻上 まるごと東芝EMIからお金もらって(笑)。かなり自由がききました。
――それだけ年数がかかったってことですね。
巻上 かかりましたね。なかなか大変だなと思った。それ以後そして今、ずっと自分たちの好きな音楽がやれているんです。
●ヒカシュー 公式ホームページはこちら
●ヒカシュー 40年の軌跡はこちら
●ヒカシュー ミュージックストアはこちら