1970年代から80年代にかけて、大阪には『プレイガイドジャーナル』(通称プガジャ、後に『ぷがじゃ』)という情報誌がありました。映画、演劇、音楽、美術、イベントなどの月ごとの情報が、カバンに入れてもかさばらないB6サイズ(後にB5)に収められ、注目すべきアーティストのインタビューや面白い読み物もしっかりと載っている。当時の若者たちはこの冊子をもって街に出て、サブカルチャーや街の出来事と出会ったわけです。
小堀純さんは、その『プレイガイドジャーナル』で最後の編集長をつとめた人物。フリーランスの編集者となってからは演劇雑誌『劇の宇宙』を創刊し、「OMS戯曲賞」の企画推進役となるなど、関西の演劇界を育て、盛り上げ、見守ってきた人でもあります。出身は名古屋で、編集者としてのキャリアのスタートは『プレイガイドジャーナル名古屋』(後に『名古屋プレイガイドジャーナル』)でした。
この連続インタビューでは、そんな小堀さんに名古屋と大阪の『プレイガイドジャーナル』最後の編集長として見てきたこと、考えてきたこと。そして、編集という仕事を通して出会い、関わってきた人々の思い出をたっぷりと語っていただきます。
第1回は、『プレイガイドジャーナル』をはじめ1970年代初めに大都市で一斉に創刊された情報誌事情について。また、小堀さんが最初に関わった『プレイガイドジャーナル名古屋』のこと、劇作家・北村想さんとの出会いを中心にお話しいただきました。(丸黄うりほ)
サブカルチャーの隆盛と『プレイガイドジャーナル』の創刊
——大阪で『プレイガイドジャーナル』が創刊されたのが1971年なんですね。そして、1972年には『プレイガイドジャーナル名古屋』が創刊された。
小堀純さん(以下、小堀) 東京の『ぴあ』と『シティロード』も同時期の創刊だと思います。
塚村編集長(以下、塚村) ざっと検索したところによると、『ぴあ』は1972年7月に創刊、『シティロード』はその前身の『コンサートガイド』が1971年12月創刊で1975年9月号から『シティロード』になったようです。『プレイガイドジャーナル』は71年7月創刊なので、『シティロード』より半年早くて、『ぴあ』より1年早いですね。
小堀 『ぴあ』はみなさんよくご存知だと思います。雑誌が休刊して一時期しんどかった時もありましたが、それこそ今の時代に適応して情報産業としてかなり急成長していますね。『シティロード』は、新宿の西口に編集部があって、雑居ビルの一室。いつも音楽がかかっていて、そういうところもまあ名古屋の『プレイガイドジャーナル』と一緒だった。『シティロード』は批評や評論、インタビューが充実した読み物が中心で、『プレイガイドジャーナル』と似ているところも多かった。『ぴあ』は第一情報に徹してた。
で、『プレイガイドジャーナル名古屋』はなんで大阪の『プレイガイドジャーナル』と同じ名前にしているかっていったら、まあオリジナリティがない話でね。おれは創刊の頃にはまだ編集部にいない、そのころはまだ大学生でしたけどね。当時はいわゆる関西フォーク、岡林信康さん、五つの赤い風船、高石ともやさんたちのムーヴメントがあった。あとアンダーグラウンドの演劇ですね、寺山修司さん、唐十郎さんをはじめとする。そういうのに関わる人たちが大阪で『プレイガイドジャーナル』をはじめたわけです。名古屋も同じようにフォーク、ロック、アングラ演劇に関わる人たちがいて、大阪が面白いことやっている、じゃあおれらもやろうっていって、名前もそのままつけた。
——だけど、会社としては別の会社なんですよね?
小堀 全く別の会社です。だから本の作りも違ってて、サイズは同じB6なんだけども、スケジュールの載せ方が違うし、レイアウトも名古屋は横組みなんです。
——4つの雑誌はだいたい同じ頃にできたけど、いちばん早かったのが大阪の『プレイガイドジャーナル』なんですね。
小堀 大阪で『プレイガイドジャーナル』を始めたのは「大阪労音」にいて、その後『フォークリポート』編集に携わる村元武さんたちです。その辺は村元さんの『プレイガイドジャーナルへの道』『プレイガイドジャーナルよ』(いずれも東方出版)を読んでください。“名古屋人”のおれがいろいろ言うと差し障りがありますし、その頃はまだ学生だからね。
塚村 初代編集長の村元武さんが書いた本によると、『プレイガイドジャーナル』より前に、別の人たちが『月刊プレイガイド』(芸術月報社、1970年3月号〜11月号)という情報誌を出していたようです。愛読者だった村元さんは編集部を一度訪問しているのと、休刊後、編集部の人に会いに行っていますね。時代は、フォークジャンボリーとか、アングラ演劇とか、自主上映会とかがあちこちで行われはじめた頃です。私は小学生だったので、リアルには知りません。
——その頃にそういうシーンができて、情報を知らせる媒体が必要とされてきたということですか?
小堀 昔は、アングラというと風俗ととらえられることが多くて、世相を騒がす風俗的な、なんか変なことやっているとみられたというのがあって。たとえば寺山修司さんの「天井桟敷」にしても街中で妖しいことをやっていることばかり言われたりとか、唐十郎さんの芝居でも裸体になっているとかね、いかがわしいことやっているって言われていて、いわゆるマスコミ、新聞社が文化の情報として取り上げなかったんですよね。
今は時代が変わって小劇場の人も記者会見やるし、劇団出身者が大学教授になったりとか、子どもが劇団に入っていても親は怒らない(笑)、昔はそういうふうじゃなかったんで。
それなら、自分たちが好きな表現の媒体をつくるのがいちばん早いんじゃないかというコンセプトがあった。そうすれば自分たちの見たいものを自分たちが編集して紹介できる。しかも本が売れたら一石三鳥くらいになる。
——『プレイガイドジャーナル名古屋』は何から始まったんですか。
小堀 名古屋も最初は音楽に係わる人が多かったかな。名古屋もフォークやロックは盛んでしたから。たとえばセンチメンタルシティロマンスや友部正人さん。友部さんは名古屋の街で歌ってましたよね。友部さん自身も芝居に参加したことがあるそうです(名古屋小劇場・阿修羅劇場合同公演「真田風雲録」1969)。当然そのへんの横の繋がりが創刊時の人たちにはあったと思う。
——ほぼ同時発生的に4誌が創刊されたのはなぜでしょうか?
小堀 こういう雑誌をシティマガジンっていう。ニューヨークには『ニューヨーカー』、パリには『パリスコープ』っていう映画や音楽の情報誌があって、そういうのに感化されているというのはあった。
——『ニューヨーカー』はもっと昔からある雑誌ですよね?日本ではなぜこの時期に集中したんでしょうか?
小堀 60年代から70年代にかけてはサブカルチャーが、いまは意味が違ってきているけど、当時はカウンターカルチャーっていうのかな、それまであった既成の表現に対抗する“新しい表現”が同時多発的に出てきたわけですよ。美術も音楽も映画もね。ATGの映画であるとか、芝居だったら寺山さん唐さん、美術は横尾忠則さんとか赤瀬川原平さんたちの活動であるとか。そういうのに若い人は敏感じゃないですか。それで芝居なんかを見にいくとチラシをもらうわけだけど、よくわかんないじゃない。映画はかろうじて新聞に広告が載っていたけれども、『キネマ旬報』や『映画芸術』なんて雑誌を見ても、地方の映画館のスケジュールの詳細はわからないよね。
まさに、60年代から70年代にかけて今まで見たこともないような新しい表現が各ジャンルで同時多発的に起こってきた。そのことがすごく大きかった。やはり自分たちが見たいもの紹介したいものがないとさ、雑誌つくっても面白くないからね。
——文化や思想において「68年」が一つの区切りってよく言われますけど、新しい表現がたくさん出てきて情報誌が必要になったということなんですね。
小堀 とくに『ぴあ』の成功が大きかった。『ぴあ』が飛躍的に部数を増やして、まあ及川正通さんの表紙のインパクトも大きかったと思う。そういった情報誌は大都市だけで発行されていたけど、後には『ぴあ』に対するアンチテーゼも当然でてきて、そんな中、全国でタウン誌がブームになる。北海道から九州までシティ情報っていうことでね。それらの雑誌はだいたいスポンサーがあったと思うけど、そんなに長く続かなかったと思う。
当時の『プレイガイドジャーナル名古屋』は直販だった
小堀 最初の頃おれらが苦労したのは、それらの雑誌に情報を無料で掲載しているシステムが、書店の人や一般の人たちにはよくわからなかったことなんですよね。
とくに『プレイガイドジャーナル名古屋』は直販っていって、取次を通してなかったんです。関西の場合は東販、日販とは別の地元の小さな取次がいくつかあって、そうしたところを通じて「紀伊國屋書店」とか「旭屋書店」のような大きな書店に入れていくっていうのがあった。だけど名古屋はそういうのがまったくなかったので、本屋さんを一軒一軒まわって開拓した。おれらはそれを配本って呼んでたけど、一週間くらい使って愛知県、岐阜県、三重県の何百軒という書店をまわってくわけですよ、できたばかりの本と伝票もって。書店は七掛けで、プレイガイドとかロック喫茶は八掛けで、その場で精算してくる。大口はあとで振り込んでもらう。それをずっとやってた。当時『プレイガイドジャーナル名古屋』は150円で、大阪の『プレイガイドジャーナル』は100円だったんだけど。
新しい本屋さんを開拓に行くと、本屋さんが「なんやこれ、全部広告やないか」って言うのね。「これでお前商売すんのか」って。「いや、この情報は全部掲載無料で、それを編集して商品として売っているんですよ」って説明してもなかなか分かってもらえなかった。
で、「ためしにご主人、1カ月でいいですからおいてください」って言って10冊おいていくのね。それで8冊くらい売れると、「なんでもっと早くもってこないんだ」って言われたりした。あとね、本が10冊入るケースを作って一緒に預けておいたら、次に行ったら本は売れてて、おれたちのケースに同じサイズだからって『PHP』が入っている(笑)、そういうこともありましたね。
直販やっててよかったのは、自分たちで実際に本屋さんの反応を見ることができたことかな。
塚村 ひとり何軒くらいまわるんですか。
小堀 50軒。最低でも50、だから朝から晩までですよ。いちばん遠いとこは津かな、三重大の生協に行ってた。四日市や桑名も近鉄電車で行ってた。
——今までそういう本がなかったから、本屋さんも戸惑ってたんですね。
小堀 そうそう。『ぴあ』も最初は直販でやってたらしい。
——そうなんですか!
小堀 山手線を本を持ってまわってたって。だけど、とある大書店の社長がね、「そんなことしなくていい」と言って取次に話をしてくれたらしい。
『ぴあ』と『シティロード』は判型がB5だったけどね。『ぴあ』がすごかったのはカラーの広告が入ってたね。彼らの中心になっているのは中央大学の映画研究会出身者だった。「ぴあフィルムフェスティバル」もそうだし、映画の企画でいい仕事をしている。
——『シティロード』は後にA4変形になってますね、『シティロード』はどういう人が始めたんですか?
小堀 始めた人はよく知らないけれど、おれとほぼ同時代に『シティロード』で演劇を担当していたのが、渡辺弘くん。彼は取材力も文章力もあるので、演劇雑誌に寄稿したり、演劇評論家の扇田昭彦さんのインタビュー本『現代演劇は語る—劇的ルネッサンス』(Libro刊)を手伝ったり、今でいう演劇ジャーナリストの草分け。『シティロード』の後は、演劇プロデューサーとして「銀座セゾン劇場」「シアターコクーン」「まつもと市民芸術館」「彩の国さいたま芸術劇場」のプロデューサーを歴任した“歩く同時代演劇”のような凄い人。プガジャでも仕事してもらったし、おれとは1988年に西武美術館で演劇のポスター展「現代演劇のアート・ワーク60’s〜80’s」を一緒に企画している。
事務所のドアを開けたら何とも言えない「陰の気」が……!
——話は前後しますが、小堀さんが『プレイガイドジャーナル名古屋』に社員として入られたのは1976年ですね。
小堀 それはね、あまり定かじゃなくて(笑)、しっかり覚えてない。逆算すればそのへんになるだろうということで。最初はもちろん「社員」じゃないです。
——何がきっかけで入られたんですか?
小堀 編集者になりたかった。10〜20代の頃は、社会人の山岳会にも入ってて、山に行くのがすごく好きだったので山岳雑誌の編集者になれたらいいなと思ってた。「山と渓谷社」っていう出版社が東京にあって、そこに入りたかったんだけど、当時募集もなかったし、おれの実力じゃたぶん無理だろうと思って悶々としていた。
おれが大学生のときに、高校時代の友達が、その人は木村一郎くんっていって演劇部だったんだけど、日大の芸術学部に行って。木村くんが「夏休みに名古屋で一本芝居をやるから一緒にやろう」って言ってきた。それで、別役実さんの代表作の「マッチ売りの少女」を手伝うんです。おれ、別役さんの自宅に電話して上演許可もらったんです。ちなみに一郎くんの弟は、舞台を中心に渋い演技で知られる実力派俳優の大鷹明良くんです。
その情報を『プレイガイドジャーナル名古屋』に載せてもらったわけです。おれは演劇をやる気は全然なかったんだけど、『プレイガイドジャーナル名古屋』はずっと読んでたわけですよ。そんなこともあって、試しにちょっと行ってみようかと思って、ふらっと事務所に行ったのね。ほんとにふらっと。
塚村 そのときは学生だった?
小堀 もう卒業してた。それが就職活動の一環だったのかもわかんないね。なんか仕事がないかなと思って行った。本を出しているくらいだから、ちゃんとした会社だと思ってた。
塚村 そりゃそう思いますよね。
小堀 本屋にも大学生協にも本をおいてたしね。
それがね……、もうビルと呼ぶのはおこがましいような、名古屋の栄っていう繁華街にあったんですけどね、もうこれビルかよ?っていうところで(笑)、事務所のドアを開けたら何とも言えない「陰の気」が立ち込めてて……(笑)。
——(笑)。
小堀 まあおれも若かったから、当時22くらいかな。大学院に行こうとしてたんだけど失敗して。
——何を専攻していたんですか?
小堀 愛知大学で国際政治史を。本当は国際政治史もしたかったのね。卒論で賞をもらったりしたし。だからもうちょっと頑張ればよかったんだけどね。
——ふらっと行っちゃったんですね(笑)。
小堀 行ったら、さっきも言ったけど何とも言えない「陰の気」が立ち込めてて。中へ入ったら、三人くらい人がいた。で、ポスターが裏返して貼ってあるのね。それに「アルバイト募集」って書いてあった。「バイト募集してるんですか?」って聞いたら、「あれは、おれらがバイト募集してるの」って。
——は?
小堀 そこにいるスタッフの人たちが、なにか自分たちにいい仕事ないかなと思って……。
塚村 え、逆?
小堀 情報誌だから読者プレゼントっていうのがあって、いろんな人が映画の券とか取りにきたりするわけじゃないですか。来た人にいい仕事ない?って聞いてたらしい。会社はすでに一回倒産してたらしい……。
塚村 あ、そんな状況だったんですか。
小堀 これはあかんと思ったんだけど、「まあまあ座って」っていうから話してたら、「演劇はやったことある?」と聞かれて。「やったことはないけど、情報を前に載せてもらった」って言ったら、「いまここ演劇担当がいないから、やってくれる?」って言われて。
——え。いきなりですか?
小堀 いきなり。それで、交通費は出すからって。当たり前だろ、今思えば。明日から来てって言われて……。こっちはさ、大学院落ちて、ほかに行くとこもないから、行ってみたんですよ。
——バイト代は出たんですか?
小堀 あのね、2万円出ました。
——2万円っていうのは……。
小堀 月額。
——げつがく?
小堀 それでね、ちょっと聞いてくれる?おふくろ、認知症を10年患ってて2018年に亡くなったんだけど、押入れ整理していたら、黒いハンドバッグがあったの。冠婚葬祭に持っていくようなちょっといいやつ。開けてみたらさ、おれが最初にもらった2万円の封筒が入ってたの。封筒の中には半分の1万円が入ってた。
塚村 どういうこと?
小堀 1万円だけもらうよ、っておふくろが言ったんだと思う。その頃ですから聖徳太子の1万円札ですよ。
塚村 それ、お母さんがずっと持っててくださったの?
小堀 そうそう。初めてもらった「給料」らしきモノ。バイトとは違う、一応就職っていうかさ。おれは忘れてたわけよ。それをおふくろは、その1万円を大事に持っててくれてたんだ。『プレイガイドジャーナル名古屋』の封筒で。まあそれで、最初は2万円出たんですけど、そのあと、正式にスタッフとなって月額5万円!の時期があったんだけど、すぐに出なくなって——。
——それはまずいですね。
キラキラした人、劇作家・北村想さんとの出会い
——さっき直販の話がありましたけど、小堀さんは直販のような営業活動をしながら、演劇担当として編集もしていたんですか?
小堀 そうです。直販はスタッフ全員とアルバイトでやってた。それで、『プレイガイドジャーナル名古屋』に入社してすぐ、劇作家の北村想さんに出会うんですね。ある日、想さんが事務所に来たんですよ。芝居の宣伝と、想さんが当時自分の住んでいたところで喫茶店と人形の店(ファルス人形館)を始めるってことでやって来た。
——その当時、北村想さんの劇団は何という名義だったんですか?
小堀 当時は「演劇師★団」ですね。それが後に「T・P・O師★団」になり、「彗星’86」になり、「プロジェクト・ナビ」になっていくわけです。
名古屋の大須には1972年にオープンした「七ツ寺共同スタジオ」という小劇場があるんです。アングラの牙城みたいなところで、そのうち“アングラ世界遺産”(笑)になる。映画、音楽の催しもやるけど中心は演劇ですね。想さんも七ツ寺共同スタジオを拠点にしていた。おれも七ツ寺共同スタジオで行われていることが、当時はなんでも面白そうだと思ったわけですよ。高校生のころから演劇に興味はあったし、唐十郎、寺山修司は読んでたし、同級生の木村くんからイヨネスコ、ベケットも教えてもらって、「おおすごいな」とか言ってた。ただ、自分では演出をしようとか劇作家になろうとか、ましてや俳優になろうなんて気はぜんぜんなかった。それは今に至るまで、ずーっとそうですね。
でも『プレイガイドジャーナル名古屋』で演劇担当になって、北村想さんに出会った。
想さんはおれより一つ上、滋賀県出身で中京大学のニセ学生だった。本当はフランスに行きたかったらしいけど。演劇がやりたかったから、高校の友達がいた中京大学の演劇部に行った。その前から想さんの名前は知っていたけど、会うのはその時が初めてでしたね。
そしたらね。すごいキラキラしているの。明るくて、こんなにキラキラした人がいるのか!って思った。おれにとっては衝撃だったね。
——キラキラっていうのはどういう意味ですか?
小堀 文字通り輝いてる。オーラとかそういうのとは違う。唐十郎さんに初めて会ったときは怖いなと思ったけど、ああいうのはオーラっていうんだろうね。キラキラっていうのは可愛い女の子を見たときの感じに近いかな。たとえば、阪急電車で宝塚音楽学校の生徒を見かけたときみたいな。
——ハンサムだったんですか?
小堀 ううん、そういうのとも違う。これが当時の想さんですね。(写真を見せる)
塚村&丸黄 うわー、可愛い!
小堀 すごいもてて、で、太宰治や坂口安吾をよく読んでいて、まあ要するにデラシネな雰囲気を漂わせてるんですよね。で、当時の劇団「演劇師★団」の解散公演を七ツ寺共同スタジオでやったので、その話と、喫茶店を始めるってことで事務所に来たの。
おれは北村想さんのキラキラぶりにびっくりして、お互いの年齢も近いし、読んでいるものなども波長があって、それから生涯のつきあいになっちゃう。まだ20代のはじめで、おれにも感性のカケラがあったころだから。そういう時期に想さんに会えたということはすごい大きいね。
注釈
- アングラ:アンダーグラウンドの略。オーバーグラウンド=一般社会に対して、既成概念を否定する反体制的な意味合いが含まれ、ビルの地下にあった小劇場も多く、主に演劇分野で用いられる。以下、展覧会「アングラ 日本のポスターのアヴァンギャルド 1960―1980」(武蔵野美術大学 発行)カタログに寄稿されたデイヴィッド・グッドマン「近代を乗り超えたポスター」冒頭から引用。「1960年代といえば、世界的に文化の花が咲いた時代だった。『まぎれもなく近代の日本文化史上でも、混沌として反体制的な、奔放な衝動がもっとも創造的に爆発した時代だった』と美術史家のアレキサンドラ・マンローはいう。中でも、とりわけ注目すべきは、初の日本固有の近代演劇として誕生したアングラ演劇と、そのためにデザインされたポスターである」
- センチメンタル・シティ・ロマンス:1973年に名古屋で結成されたロックバンド。オリジナル制作はもちろん、加藤登紀子はじめ数多くの国内アーティストのバックバンドやスタジオ・ミュージシャンとしても豊富な経験を誇る。
- ATG:日本アート・シアター・ギルドの略称。1960~80年代にかけて非商業主義的な映画を配給。幅広いアーティストに影響を与えた。公開した洋画はベルイマン『野いちご』、フェリーニ『8 1/2』、ゴダール『気狂いピエロ』、トリュフォー『華氏451』ほか歴史的傑作が多数。国内では勅使河原宏、新藤兼人、黒木和雄、三島由紀夫、大島渚、今村昌平、岡本喜八、吉田喜重、松本俊夫、実相寺昭雄、寺山修司、若松孝二、神代辰巳、鈴木清順、井筒和幸、根岸吉太郎、高橋伴明、森田芳光、大林宣彦、石井聰亙(現・石井岳龍)、伊丹十三、相米慎二ほか、綺羅星のごとき監督たちを紹介した。67年からは格安製作費を独立プロなどと折半する、通称「1000万円映画」を開始。日本映画の発展に貢献した。なお、井筒和幸の出世作『ガキ帝国』では大阪のプレイガイドジャーナルと提携。
- 及川正通:1939年、旧・満州生まれ。イラストレーター。68年に横尾忠則と事務所を設立。翌年には寺山修司と出会い、『書を捨てよ!町へ出よう!』ほか演劇実験室◎天井桟敷の公演ポスターを手掛ける。75年から情報誌「ぴあ」の表紙イラストを担当。2007年に同一雑誌の表紙絵制作者として世界一長いキャリアが認められ、ギネス世界記録を打ち立てた。
- ぴあフィルムフェスティバル:1977年に「第1回ぴあ展〈映像部門〉」として始まった自主制作映画の祭典。81年から「ぴあフィルムフェスティバル」(略称PFF)と名前を改め、公募によるコンペティションを柱のひとつにする。84年にはスカラシップ制度を導入。新人監督の発掘、育成を本格化させ、黒沢清、園子温、橋口亮輔、塚本晋也ほか世界的人材を送り出してきた。
- 七ツ寺共同スタジオ:1972年に開場した名古屋の小劇場。名古屋の歴史ある歓楽街・大須にあり、当初は新たな文化拠点として演劇に限らずコンサートや自主上映会も開催された。90年代からはプロデュース公演も精力的に行い、特に劇団「少年王者舘」を中心に据えた20周年記念公演『高丘親王航海記』(原作・澁澤龍彦/主演・松本雄吉)はスペクタクルな野外劇として今なお語り草となっている。
- 唐十郎:1940年、東京都生まれ。劇作家・演出家・俳優・小説家。63年に状況劇場を結成。「紅テント(あかてんと)」の通称で知られる移動型劇場を公園や神社境内などに張り、既存の枠に収まらない公演を展開。「特権的肉体論」を掲げ、李礼仙(現・李麗仙)や麿赤兒、大久保鷹、根津甚八、小林薫ら強烈な個性を持った俳優たちと活動を共にしながらメッセージ性も色濃いアングラ演劇の中心的役割を果たした。『少女仮面』(69年)で岸田國士戯曲賞を、『佐川くんからの手紙』(83年)で芥川賞を受賞。
- 寺山修司:1935年、青森県生まれ。歌人・詩人・劇作家・演出家・映像作家。他にも競馬やボクシングの評論家など多彩な顔を持ち、「職業は寺山修司」という名言を遺す。高校時代から俳句をはじめとした文学活動を開始。67年、横尾忠則、東由多加、九條映子らと演劇実験室◎天井桟敷を結成。一般人を巻き込んだ市街劇に象徴されるセンセーショナルな創作活動は、常に社会の耳目を集めた。代表作は書籍『書を捨てよ、町へ出よう』、演劇『毛皮のマリー』『血は立ったまま眠っている』、映画『田園に死す』『さらば箱舟』ほか多数。83年死去。享年47。
- イヨネスコ:ウジェーヌ・イヨネスコ。1912年、ルーマニア生まれ。フランスの劇作家。36歳から創作を開始。物語を基調とした従来の劇構造に反意を示し、演劇にのみ可能な手法によって人間や世界を探求。笑いや皮肉、虚無などの入り交じる不条理演劇という新たな分野を開拓した。代表作は『犀』『授業』『禿の女歌手』ほか。
- ベケット:サミュエル・ベケット。1906年、アイルランド生まれ。フランスの小説家・劇作家。52年に発表した『ゴドーを待ちながら』が大反響を巻き起こし、後には不条理演劇の金字塔とまで謳われ、前衛劇や実験演劇というジャンルを越えて後世に多大な影響を与え続ける。他の代表作は『しあわせな日々』など。69年、ノーベル文学賞受賞。
(注釈:小島祐未子)