【インタビュー】 尾崎織女 学芸員(日本玩具博物館) その5/5 最終回

「日本玩具博物館」学芸員・尾崎織女さんインタビューの最終回は、ご自身の専門である七夕祭りのこと、そして玩具文化の背景にある精神性に焦点を当ててお話をうかがっていきます。9月に発売されたご著書『世界の民芸玩具 日本玩具博物館コレクション』(大福書林)にも、「日本玩具博物館」の企画展示にも一貫した、人とモノの関係への優しい眼差しと深い洞察を、読み取り感じていただければと思います。(丸黄うりほ)

現在の玩具と、昔の「手あそび」「手まもり」とは造形文化自体が違う

——最後に、尾崎さんご自身の玩具との出合いや思い出、思い入れなどについてうかがっていきたいと思います。

尾崎織女さん(以下、尾崎) そうですね、私は若いころから宗教的な造形物が好きでした。白鳳時代の観音菩薩像や天平時代前期の薬師三尊像など、長い長い歳月、人々が手を合わせて見上げ、拝み、祈りを捧げつづけてきた仏像の美しさにものすごく憧れを抱き、お寺めぐりばかりしていました。それと同時に、同じ目の高さで向き合い、人々が撫で親しんできた五百羅漢さんとか路傍の六地蔵さんや道祖神などにより強くひかれるものがあり、学生時代には「五百羅漢信仰」を追いかけていました。今も、そうした民間信仰の対象となるような造形物の延長線上に、人形や玩具をとらえているようなところがあります。

ところで、人類の造形文化って、近世に大きな転換が起きたんじゃないかなって思っています。人形がわっと増える時期って江戸時代以降なんですよね。

塚村編集長(以下、塚村)  庶民の間にってことですか?

尾崎 はい。近世、江戸時代に入って、庶民層に教育がある程度いきわたるようになったということや、士農工商という身分制度のなかでモノづくりが発展をみたこと、後期になると貨幣経済が発達したことなど、江戸時代の庶民文化の充実にはさまざまな要因があるとは思うのですが。この時代以降、庶民層が人形を身近に置いて愛しみ、おもちゃが盛んに作られるようになった背景に、モノづくりを支える精神文化の変化があったのではないかな、と。

急に、飛躍した話になりますが……、人間が身ひとつでこの世に生まれて落ちた太古、身のまわりにある自然、生き物や物体など、すべての造形物は、人間ではなく大いなるもの、それを神と呼ぶのがわかりやすいでしょうか、人知を超えた存在が創りだしたものだと感じたはずです。その世界に、人間が新たになにかを作り加えること、特に目鼻のあるものを作ることに対しては、ひどく畏れを抱いたのではないか……、そんなふうに思います。

塚村 インドでもお釈迦さまはずっと描かれていませんでしたものね。

尾崎 ええ。決して偶像となるようなものを刻まない、というイスラム教の教えは、そのような精神文化を受け継ぐものかもしれません。

いまもそのように宗教上の禁忌によって人形を作らない国々があり、また近年まで、シベリアに暮らす諸民族のように、目から悪霊が忍び込むことを畏れて、人形に表情を描かない地域もあったようですが……。

中央アジア・ウクライナのぬいぐるみ。民族衣装の残り裂で作った、赤ん坊を抱く母親の人形。目が表現されていないのは、悪霊が入り込み、抱いて遊ぶ女児たちが危険にさらされることを畏れたためといわれる。© Japan Toy Museum, All rights reserved.

塚村 へえ。そういうものだったのに、人はお人形さんを作るようになる。それが近世?

尾崎 人形を愛でる文化が世界各地に花開いたのは、近世になってからではないかなと思います。もちろん、商品経済の発達や他の社会的な要因もあるでしょうけれど、ヒューマニズムの時代がやってきたことが大きな要因ではないかと。神様を崇め、神の創造した世界観を駱駝のように背負って生きていた中世までの人々と、「我思うゆえに我あり」と、自分たち人間の思考する世界観のままに生き始めた近世の人々とは、精神構造が違うのではないかと。

たとえば仏像においても。崇拝する対象としての仏像ばかりだったのが、近世になると撫で仏などが多く作られ始めますよね。五百羅漢にいたっては、「亡くなった私のおじいちゃんに似ている……」とかいって、身近な人になぞらえていくわけじゃないですか。私はそんなヒューマニズムの時代の造形物にとても興味があって、人形や玩具もまさにその時代に花開いた造形文化だと思うんです。郷土玩具は、近世末期に生きた人々の美意識や造形感覚や、それから自然観や幸福観などを今に伝えるものだと思うので。

——人形や玩具、おもちゃの背景にある精神史や精神世界にひかれるということですね。

尾崎 メッセージが込められた造形が好きなんだと思います。

——たとえば、どんな造形でしょう?

尾崎 郷土玩具のなかには、達磨や鯛車、金太郎や赤べこ、ピンピン馬、猩々といった赤いものが数多く伝わり、それらはかつて「疱瘡除け」と結びついていました。疱瘡、また痘瘡、天然痘とも呼ばれる伝染病が慢性的に流行していた近世、病は疱瘡神が取り憑くことによって発症すると考えられていて、それはまるで断れない客人のようなものでした。疱瘡にかかると高熱を発して体中が真っ赤になることから、疱瘡神が赤を好むとして、子どもの病室を赤いものづくしにして疱瘡神をもてなし、機嫌よく去ってくれることを願う地域もありました。また逆に、赤は太古から魔よけの霊力をもつ色でしたから、病室を赤づくしにして疱瘡神を追い出そうと考える人々もあったようです。

「赤いみみずく」も江戸で盛んに贈答された疱瘡除けの張り子です。

疱瘡除けのみみずく。江戸後期の資料をもとに、埼玉県川越市の張り子作家・荒井良氏が平成初期に再現。日本玩具博物館の展示。

疱瘡の高熱が失明をひきおこすことも少なくなかったようで、らんらんと見開いたみみずくの目は失明除けのおまじない。また、みみずくにしては長すぎる、ウサギの耳のような羽角がぴっと立っているのは、飛び跳ねるウサギのように元気に回復してもらいたいという願いでしょうか。みみずくにウサギのイメージが重ねられているのは、ウサギの血肉を食べさせると疱瘡から回復するとされていたことと関わりがあるという研究者もあります。みみずくの胸の火炎宝珠の模様は意のままに願いを叶える仏の法力を象徴していますし、それから、これが土人形ではなくて、中が空洞の軽い張り子であるところにも、病気が軽くすむようにという願いがこもっていると思われます。

——ものすごくたくさんのメッセージですね。

尾崎 ええ。つまり、形にも色にも模様にも素材にも、何もかもに当時の人々の呪術的な思考が表現されているんです。そんなふうに、一点一点、見つめていくことで、近世の人たちの精神世界がほのかに見えてくるんですね。

私たちがいま、親しんでいる「玩具」と、近世のそれとはかなり違っています。

玩具といえば、子どもが楽しく持ち遊び、知性や情操を育む道具だと私たちはとらえますが、「玩具(おもちゃ)」という共通語とともに、そのような近代的玩具の概念が日本に定着し始めたのは、日露戦争後のことです。明治時代の終わり、20世紀初頭に当たります。それまでの日本においては、地域や階層によって玩具を表す言葉が違っていたんですよ。近世以来、江戸・東京の庶民は「手あそび」、京阪の人々は「もちゃそび」「手まもり」などと呼んでいたようです。

塚村 「ガング」に比べると、素朴な響きがしますね。

尾崎 材料も竹や木、土、紙などの自然素材で、家内工業によって作られた素朴な品々でした。地域の気候や産業や伝説などとも結びついていました。それに、対象となるのは子どもだけではありませんでしたし、持ち遊んだり傍に置いたりすることで魔を除け、持ち主に幸福を招くお守りとしての役割を強く背負った品々でした。達磨も鯛車も、金太郎や赤べこも赤いみみずくも、そんな江戸時代の「手あそび」世界の住人です。

——持ち遊んだから、もちゃそび、で、おもちゃ、か……。先ほど館内を見せていただいたときに、「玩具という言葉は明治時代につくられた」とおっしゃっていましたよね。玩具という言葉は明治時代以降の教育思想と結びついたものであると。

尾崎 そうですね。欧米と肩を並べるような近代国家の建設に懸命だった明治時代、その国家を支える賢明な国民の育成が急務でしたから、迷信に満ちあふれた「手あそび」世界を退けて、合理精神を養う遊び道具が求められたのだと思います。物事の道理をよく理解させて科学的な知識を与え、知力や体力、巧緻性などを育むような遊び道具を「玩具(おもちゃ)」という言葉で表そうとしたのだと。

「教育」を冠した玩具が盛んに作られた明治時代の「教育動物園玩具」。© Japan Toy Museum, All rights reserved.

退けられた「手あそび」や「手まもり」の精神文化は、大正、昭和、平成と時代を経て、すっかり忘れられてしまい、ただ、郷土玩具のなかにその形骸だけが遺されていたように思えますが、今年、コロナ禍にあって、「アマビエ(アマビコ)」という、古い文献に描かれた霊獣が注目を受けましたよね。アマビエを描いたり、立体に作ったりして身近に置くことで守ってもらえるような気持ちを多くの人が抱きました。そんな私たちがいま、赤いみみずくに接すると、感じるところは大きいと思うんですよ。ああ、人の思いは昔も今も変わらないんだな、としみじみしたり……ね。なので、近世の手あそび文化をその姿形のなかにとどめている郷土玩具を大切に守っていきたいと思うんですよね。

おもちゃや玩具には、親の切実な願いが込められている

——いまのおもちゃ文化は、視覚に依りすぎているのかなと思いますね。かわいらしさ、美しさに依りすぎている。でも、その以前のおもちゃはたんに遊ぶとか愛でて美しいというだけじゃなかった。祈りとか、呪術的なものがこもっているんですね。 

尾崎 そうですね。また別の見方をすれば、たとえば「疱瘡除けに効きますよ」というメッセージを造形に盛ることによって、人々の心をとらえ、よく売れたというような、そこには、近世庶民の売り込み戦略があったとも考えられます。「この玩具を使えば手先が器用になりますよ」とか、「この玩具で遊べは幾何的な概念が楽しく身につきますよ」とか、「豊かな情操が養われますよ」とか……、近年、「知育玩具」という言葉をよく耳にするようになりましたが、江戸版のセールスポイントは「この手あそびを持たせたら、子どもたちが病気にかからず、健康に育ちますよ」ということだったと考えることもできます。

——ああ、そうか。知育玩具ってそれの現代版かもしれないですね。

尾崎 子育て中の親にとって、また社会にとって、何が切実かというところですよね。乳幼児死亡率が高かった時代において、いちばんの願いは何とか健康に育てたいということだったでしょうし、現在は医療の発達によってそれがある程度保証されているから、情緒豊かでかしこい子に育ってほしい……、自分の夢をかなえられる基礎力を身につけてほしいと親たちは切実に願うのでしょうね。

先ほどおっしゃっていたように、いまは、とにかく視覚的なものが優先されていると私も感じています。たとえば、江戸後期の竹製ウグイス笛は、「いったい、これは何だろう?」 っていうような形をしているんですが、上手に鳴らせば、ホー、ホケキョ!!ときれいな音色を奏でます。時代が下ると、竹笛には小さなウグイスがつけられ、「なるほど、これはウグイス笛だな」とわかる形になります。それが、さらに昭和40年代ころになると、ウグイスの方がどんどん大きくなって、肝心の笛はいい音で鳴らなくなってしまいます。ウグイス笛において重んじるべきは音色なのに、笛が付け足しになってしまっているというような。

塚村 ウグイスじゃなくて色がきれいなメジロだったりもしますね。 

尾崎 ほんとですね! 視覚的な面白さを重んじる面が強くなる一方のような気がしています。コロナ禍が去ったあとも、オンラインに頼って暮らす時代が到来したら、それが一層強調されるかもしれないなぁと心配になります。だからこそ、博物館はモノのもつ力を引き出し、直接対峙できる場を大事にしたいと思います。

その土地の生活文化と結びついた、さまざまな七夕祭り

——尾崎さんのご専門は七夕ということでしたね。お誕生日が七夕だから織女さんだとか。こちらで展示されている姫路の七夕飾りも、初めて見る珍しいものでした。

尾崎 専門といわれると恥ずかしいのですが、七夕祭りはすごく好きでずっと追いかけています。尊敬する学芸員の大先輩である石沢誠司先生が「七夕文化研究会」という組織をつくられ、そこに集う皆さんと一緒に活動させていただいた時代もありました。

「七夕文化研究会」は、日本各地に伝承される七夕の民俗行事を見学調査し、その多様性を記録していくのが主な活動で、あちらこちらの七夕行事を取材させていただきました。行事の歴史を文献にもとめ、その地の古老たちから行事のありさまを聞き取り調査し、またそこに登場してくる造形物などを収集して、日本の七夕の千数百年の歴史的な流れとそれがどんなふうに地域的な広がっていったのかを調べていくのですが、今でも、7月7日、あるいは月遅れの8月7日が近づいてくると、あちらこちらへ見学に出かけます。

——たとえばどんな七夕があるのでしょうか?

尾崎 埼玉、群馬、千葉など、かつて、関東地方の農村の七夕祭りにはマコモなどを細工した馬が登場していました。牡馬と雌馬を対にして軒下にかけ飾ったり、短冊などをつるした笹飾りの真ん中あたりに十文字になるように竹を渡して、そこに二頭の馬を置いたり、玄関口にマコモでつくった馬と牛を据えて七夕さまを迎えるところもありました。今ではそのような七夕飾りを伝える家庭はもうほとんど見られなくなりましたが、関東一円ではかつてそのような七夕が盛んだったんです。

房総の村の七夕馬と牛。体験型博物館「千葉県立房総の村」内の“安房地方の農家”で、マコモを使った七夕馬づくりが体験できる(撮影:尾崎綾女)日本玩具博物館ブログ〈見学レポート〉房総の村の七夕馬2010.08.09はこちら

人形を飾る七夕もあります。長野県の松本では七夕人形といって、ハンガー型の織姫と牽牛の人形に、子どもの、まだ袖を通していない新しい浴衣をかけて天の二星に捧げます。富山県の黒部では、女の子は「七夕姉さま」といって、大型の姉さま人形をこしらえ、木の台の上にその人形を立てて、「キリコ」と呼ばれる投網型の切り紙細工の飾りがありますね、あれを四隅に飾り、また姉さま人形の手にも持たせて、川へ流す行事が行われています。

七夕の町、長野県松本市に伝わる七夕人形のいろいろ© Japan Toy Museum, All rights reserved.

富山県黒部市尾山地区に伝わる「七夕姉さま」© Japan Toy Museum, All rights reserved.

隠岐島の久見という地区には子どもたちが星型の行灯をもって夜を彩る「星まつり」が伝わっています。一年生の子は小さくてかわいい星行灯。学年が上がると星が少しずつ大きくなり、小学校六年生の子は数メートルにも及ぶ大きな一番星を作ります。一番星を先頭に子どもたちが手作りの星行灯を持って、歌を歌いながら地区内を行進するんです。子どもの数が減少して、近年の行列は短くなってしまいましたが、かつては、天の川がきらきらと輝く夜空のもと、60もの星行灯が地上の天の川を輝かせていたと伺いました。

——わあ、それはきれいでしょうね。情景を想像するだけでうっとりします。

尾崎 七夕はもともと中国に誕生した風習で、天の織姫に織物の上達を願う「乞巧奠(きっこうてん)」という儀礼だったんですね。それが唐の時代になると、織物や裁縫に加えて歌舞音曲や書や……芸事全般の上達を願う祭りになっていきます。奈良時代あたりの日本に伝えられた七夕も、そのはじめは織物や裁縫の上達を願うもので、それが貴族社会から武家社会へ受け継がれ、やがて庶民層へと広まっていく過程で、その土地がもっている生活文化と結びついていきます。お盆の精霊迎えと結びついたり、六月晦日の祓と結びついたり、農村の秋の実りの予祝儀礼と結びついたり……。

いま、七夕祭りというと、短冊に願いごとを書いて笹につるすことを思い浮かべますが、その風習は、江戸中期ごろに始まったものと考えられています。18世紀初頭の文献には、寺子屋のなかで子どもたちが短冊の前身とされる梶の葉に文字を書いている様子や笹に短冊がつるされている様子が記されています。「読み書き算盤」を教えた寺子屋のなかで、七夕は書の上達を子どもたちに願わせるよい教育の機会ととらえられたのではないでしょうか。江戸後期になると、和紙の普及とともに、短冊が広まり、19世紀前半の浮世絵には、町家の大人も子どもも楽しげに墨をすって短冊に文字を書き、笹に吊るし飾っている様子が描かれるようになります。

江戸時代に整えられた五節句は、1月7日の人日(七草)、3月3日の桃の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕、9月9日の重陽の節句ですが、このなかで、桃の節句と端午の節句、そして書の上達を願って子どもたちが盛んに短冊に文字をしたためるようになった七夕は、私たちの暮らしのなかにいまも生き続けています。日本人は、子どもの健康と成長を願う行事をとても大切に考えてきたのかもしれませんね。

塚村 こちらの地元、播磨地方の七夕飾りにも地域色がありますか?

尾崎 姫路市から東隣の高砂市にかけて、かつて塩田で栄えた播磨灘沿岸には「七夕さんの着物」と呼ばれる紙衣を飾る風習が伝わっています。

播磨灘沿岸地方の「七夕さんの着物」。日本玩具博物館の展示。

また播磨灘に注ぐ市川という一級河川をさかのぼって、その源流にあたる生野町、銀山で栄えた町ですが、そこにも同じ形の紙衣が見られます。短冊や投網などの切り紙細工をつるした笹飾りを二本、150㎝ほど離して立て、その間に竹を渡して、「七夕さんの着物」を並べ飾るんです。ヒトガタのように三角の頭のある紙製の衣で、子どもの初節句を祝って、親類や近所の人たちが贈ります。自家製だったり、提灯店などが販売しているものだったりしますが、多くなれば、竹を二段、三段と渡して、ずらりと、まるで着物を虫干しするみたいに…。

生野の町家に飾られた「七夕さん」(撮影:尾崎綾女)日本玩具博物館ブログ〈見学レポート〉生野の七夕まつり2008.07.07 はこちら

けれどもこの飾り方は、播磨全域に伝わるものではないんです。この博物館がある香寺町では二本の笹飾りを立ててそこに竹を渡します。そこまでは同じなんですが、「そこに何を飾りますか?」って昭和ひと桁生まれの方々に伺うと、「一対に仕立てたハツモン野菜」とおっしゃる。生り始めたキュウリ、ナス、ササゲ、イネ、アゼマメ、ホオズキなどを二つずつとってきて、苧麻(マオ)というカラムシの繊維の糸でつないで、対にしてその笹にかけて七夕さんに捧げる。そうすれば「七夕さんが喜んで豊かな実りをもたらしてくれる」と。その飾り方は、近世の盆棚(精霊棚)ととてもよく似ています。七夕の一週間後にやってくるお盆とのつながりが感じられる七夕飾りなんですよね。

けれども、播磨灘沿岸の塩田で栄えた町々と、生野の銀山で栄えた町々だけが、同じ七夕棚の構図でありながら、対の野菜ではなく、紙衣を飾ります。農業に従事しない町々だったことが大きいのではないでしょうか。そして、特に生野銀山は、幕府や政府の財政を下支えした町ですから、人材登用などによって江戸(東京)や京阪の文化が流入していたはずです。近世の大都市部の風習を受け継ぎ、その大元が廃れてしまったあとも、地方の町が当時のカタチを大切に伝えてきたのかもしれません。紙衣を並べ飾る七夕飾りは、縁側に二本の笹を立てて、横に竹を渡して新しい小袖を何着も重ねて飾っていたという武家社会の七夕の構図を簡略化した形とも考えられます。あるいは、色糸や反物や着物を捧げ飾っていた古い時代の七夕棚の末裔ともいえるんじゃないか……と。

——興味深いお話がつきませんね。知れば知るほど当たり前だと思っていたことがくるりとひっくり返り、もっと知りたくなります。きょうは長々とありがとうございました!

(11月2日、姫路市香寺町「日本玩具博物館」で取材。写真: 塚村真美)

*その1はこちら

*その2はこちら

*その3はこちら

*その4はこちら

 

*尾崎さんによる「きょうのコマまわし」はこちら

*尾崎さんによる「きょうのコマまわし」2回目はこちら

*井上館長による「きょうのコマまわし」はこちら

 

日本玩具博物館(公式)はこちら

尾崎織女著『世界の民芸玩具 日本玩具博物館コレクション』(大福書林)はこちら