池の引力
漱石は小さい頃に二度、新宿に住まったことがあった。
一度目は、前回記した太宗寺の入口のちょうど向かいにあった伊豆橋というだだっ広い妓楼で、幼い漱石にとっては家というよりも「天井のある町」「四角な家」だった。そして、もう一軒は『道草』の中で「赤い門」とされている家である。
「彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路を二十間も折れ曲って這入った突き当りにあった。その奥は一面の高藪で蔽われていた。」(『道草』)
1968年に古老の聞き取りに基づいて作成された地図*1から、「赤い門の家」というのは太宗寺の北東、正受院の裏手にあったこと、そして「狭い往来」というのは太宗寺の東を南北に貫く「太宗寺横丁」であったことがわかる。今でこそ歩道付きの二車線だけれど、かつては「横丁」の名の通り、ごく狭い通りだった。
問題は、その近所である。
「この狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があった。健三の記憶の中に出てくるその坂は、不規則な石段で下から上まで畳み上げられていた。古くなって石の位置が動いたためか、段の方々には凸凹があった。石と石の罅隙からは青草が風に靡いた。それでも其所は人の通行する路に違なかった。彼は草履穿のままで、何度かその高い石段を上ったり下ったりした。
坂を下り尽すとまた坂があって、小高い行手に杉の木立が蒼黒く見えた。丁度その坂と坂の間の、谷になった窪地の左側に、また一軒の萱葺があった。家は表から引込んでいる上に、少し右側の方へ片寄っていたが、往来に面した一部分には掛茶屋のような雑な構が拵えられて、常には二、三脚の床几さえ体よく据えてあった。」(『道草』)
またしても「坂」。すでに「川を渡る漱石」の回で見た通り、漱石にとって坂はしばしば川の気配であり、坂を下り坂を上るのは、川の気配を渡ることでもあった。では「坂を下り尽すとまた坂があって」という地形を、現実の地図でたどることはできるだろうか。狭い往来、すなわち太宗寺横丁を「突き当たって左へ曲る」と、そこは当時の北裏通り、現在の靖国通りだ。前回の冒頭に書いた通り、靖国通り沿いの二丁目北側には微妙な坂があって、そこは「瓶割坂」と名付けられていることからわかるように、おそらく明治初期には、もっと坂らしい坂だった。長さ数十m、子供からすれば十分「長い下り坂」と言いたくなる距離だ。そして坂は、現在の二丁目仲通りの出口あたりで底を打ち、西に向かって上りになる。かつてこの底を、太宗寺から流れる蟹川の支流が横切っていた。「坂と坂の間の、谷になった窪地」とは、この蟹川支流によって生まれた窪地を指していると思われる。
漱石はそこから道の脇をのぞき込む。
「葭簀の隙から覗くと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出された両端を支える二本の棚柱は池の中に埋まっていた。周囲には躑躅(つつじ)が多かった。中には緋鯉の影があちこちと動いた。濁った水の底を幻影のように赤くするその魚を健三は是非捕りたいと思った。
或日彼は誰も宅にいない時を見計って、不細工な布袋竹の先へ一枚糸を着けて、餌と共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。彼を水の底に引っ張り込まなければやまないその強い力が二の腕まで伝った時、彼は恐ろしくなって、すぐ竿を放り出した。そうして翌日静かに水面に浮いている一尺余りの緋鯉を見出した。彼は独り怖がった。」(『道草』)
どこかしら夢のような話だが、これがもし現実の土地に基づいた記憶であれば、幼い主人公が引きずり込まれかけた池は、二丁目の北、現在の新宿五丁目にあったことになる。そして当時の地図を見ると、確かに、このあたりには池がある。
新宿将軍
漱石が幼かった明治のはじめ、二丁目の北側(番衆町、現在の新宿五丁目)のほとんどは田畑で、そこに太宗寺から流れきた蟹川の支流が貫通しており、真ん中には大きな池があった(図)。のどかな田園地帯であった新宿には、秋になると鴨が訪れた。野村敏雄『新宿うら町おもてまち』によれば、当時、鴨はこの番衆町の池、そこからさらに蟹川の下流にあたる前田侯爵邸、そして旧コマ劇場付近にあった大村子爵邸(これは蟹川の別の支流にあたる)、新宿御苑に飛来したという。
明治二十年代、この野趣のある土地を買い取って邸宅を建てた者がいた。米の相場師としてにわかに名をあげた浜野茂である。兵庫の西宮出身の浜野は、若いとき堂島の米相場で失敗したのち、借金を抱えたまま東京へ出て蛎殻町の米相場で大儲けし、その金で新宿のこの地に大邸宅を構え、「新宿将軍」と呼ばれるようになった。その大邸宅を外から見た様子を、やはり野村敏雄『新宿うら町おもてまち』の古老の回顧から孫引きしてみよう。「(浜野邸の)正門は成覚寺の前にあって、門の両側は二メートル位の高さに五郎太石を積み上げ、上は芝植えの土手で形のよい小松が植えこんであった。門から奥へ北東に曲がって、小砂利を敷きつめた広い通路があり、左に池、右は赤松の林になっていて、外から邸宅は見えなかった」。外からは屋敷の本体が見えないほど、その敷地は広大であった。そして「左に池」とあるように、鴨の飛来する池は庭池として残されていた。
浜野茂はその後、鋳鉄会社を興したが、明治28年、水道の敷設が進められていた東京市に水道鉄管の不良品を不正納入した「鉄管疑獄事件」で起訴された。浜野自身は、無罪放免となったものの、会社の役員たちが有罪となり、ひところの勢いを失った。ただ、その後も、さまざまな政界や経済界の要人とのつきあいを続けており、ときには客に池でひねった鴨を土産として持たせることもあったようだ *3。
浜野の名は明治の立身出世本にも見られる。『青年立身 人物の食客時代』(明治38年/大學館)には陸奥宗光や犬養毅と並んで「実業家」として浜野茂の食客時代が紹介されている。「新宿将軍の名は一時飛ぶ鳥を落す程の勢力であつたが、近頃は余り相場にも手を出さず、何となく世に忘れられた感がある、然し此男何処迄も豪傑で、殊に血気時代には却々面白い事もやつた幾度かの浮沈のやり抜けた経歴談中、本書の主とする食客の実話を紹介すれば先づコンなものさ。」という口上に始まり、「奉公まわり八十余件、借財二万八千円」「無銭の客を泊める親切な旅館」「横柄な食客条件提出」「威ばった上に資本の融通」などなど、無一文から財をなしていく武勇伝が次々と語られている。地方から上京して一攫千金を夢見る明治の若者にとっては、密かに憧れる傑物の一人だったろう。
養父の記憶
「自分はその時分誰と共に住んでいたのだろう」。
赤い門の家と近所の池のことを思い出してから、『道草』の主人公健三はそう自問する。そして、それが養父母の家であったことに気づく。のちに健三は実家に戻り、成人してからあとは養父母とは手を切ったのだが、老いた養父は今さらのように健三の家に金の無心に訪れるようになり、そのことは健三に忘れていたはずの養父母とのやりとりを思い起こさせ、幼心にははっきりと形をとらなかった痛みとなって健三を苦しめる。
健三と養父の関係は、そのままそっくり漱石と養父塩原昌之助との関係に当てはまる。『道草』同様、漱石もまた養父からの金の無心に悩まされていた。池の鯉を釣ろうとして池の中に引っ張り込まれることへの恐怖は、幼い頃の記憶をたどろうとして金の問題に引きずりこまれる主人公の、そして漱石自身の恐怖に通じていただろう。
金の貸し借りの問題に悩んだ漱石は、日記にもたびたび金の問題について記している。
金は労力の報酬である。だから労力を余計にしたものは余計に金がとれる。ここ迄は世間も公平である。(否是すらも不公平なことがある、相場師抔は労力をせんで金をとつて居る)。然し一歩進めて高等な労力に高等な報酬が伴ふかよく考へて見るがいい。報酬と云ふ者は眼前の利害に最も影響の多い事情丈できまるのである。極めて実際的のものである。(明治39年断片 *4)
「相場師などは」としているところに、漱石がこの種の人物にどのような見方を持っているかうかがい知れる。では「金は労力の報酬である」という心得の薄い者に冷淡であったかといえば、そうでもない。
一種の快男児
漱石の弟子の一人に、高須賀淳平 *5という男がいた。高須賀は漱石の主催する木曜会の常連の間でも特に強烈な印象を残した人物で、同じ弟子の小宮豊隆は彼のことを「一種の快男児であった」として、次のように回顧している。
「淳平は早稻田のうちに、よく俥に乘つて來ては、先生から金を借りて行つて、一向返さなかつた。木曜日に來るには來るが、先生から話を聽かうといふのでなく、寧ろ金を借りに來るのである。(中略)口のうまい男で、先生の所へ來ては何かうまく話を持ちかけ、先生から金を借り出すことに妙を得てゐた。淳平は憎い奴だから、もう決して金は貸さないぞと思つてゐるんだが、どういふものかあいつが來ると、いつでもつい金を借りられてしまふと、先生は言つてゐたが、然し淳平にはひどくすれつからした所と、一方ではまたひどく純情な所とがあつた。その純情な所が或は先生の氣に入つてゐて、金を返さないのは憎いが、然し先生の純粹な所と淳平の純粹な所とが何かのはづみに齒車のやうにうまく噛み合つて、憎い憎いとは思ひながら、つい又貸してしまふことになるのではなかつたかと思ふ。」(小宮豊隆『知られざる漱石』)
高須賀が上京してまず頼ったのは、早稲田の近所に住む佐藤紅緑だった。彼は大学に通いながら明治33年頃から喜久井町に住んでいた紅緑に俳句を学んでいたが、学問よりも米相場に興味を持ち、相場記者倶楽部の書記兼事務員となった。しかし相場には失敗して、結局紅緑のもとに戻って食客となった。
「ひどくすれつからした所と、一方ではまたひどく純情な所」を併せ持つ高須賀の行状については、紅緑が後にいろいろ回顧している *6。紅緑もまた、高須賀から面倒を被った一人だった。
明治37年、高須賀は友人から岩手の久慈海岸の海岸線が「海岸そのものが石炭である」という噂を聞きつけ、その権利を元手に鉱山師になるのだと紅緑を説得し、言葉巧みに出資をさせた。米相場から鉱物、というところが浜野茂そっくりだ。しかし、なかなか思ったような儲けにはならない。しかも高須賀はなぜか金のかかる人力車であちこち移動し、俥代は月に百円に及ぶこともあった。折しも前年に長男の八郎(後のサトウハチロー)が生まれたところで、多忙な紅緑に代わって、もう一人の居候である真山青果が幼い八郎の面倒を見た。俗悪なことの嫌いな真山は佐藤家の窮状を見かねて、ついに高須賀に決闘を申し込んだ。「貴様の様な奴は殺してしまうぞ」「今に見ろ、三文文士が。俺の勝手口へ握飯をもらいに来るようになるから」。殺気立った二人は近所の戸山ヶ原に向かった。冬の夜九時、まだ街灯もまばらで月あかりが頼りの原っぱで、いよいよこれからというときに高須賀は突然便意をもよおした。激しい痔持ちで野や草を見ると我慢できなくなるのだった。
「一寸待て僕はウンコをやらかすから」
「逃げるつもりか」
「逃げるもんか」
「よしっ早くやれ」
高須賀は草をかき分けて遠ざかっていった。しかしそれから真山が十分二十分といくら待っても出てこない。冬の夜寒がしみてくる。どう考えても痔には悪い。「おうい」と呼ぶと「おうい」と薄闇の向こうから声がする。そのうち待っている真山の方が寒さに耐えがたくなり、馬鹿馬鹿しくなって帰ってしまった。
十二月になっても一向に鉱山は金にならず、それどころか紅緑の家計は年の瀬の払いもままならぬところまで行った。大晦日になれば、あちこちの店の者たちがたまったツケを掛け取りにやってくるに違いない。「此の暮をどうするかね」と紅緑が言うと高須賀は「僕にまかして下さい」と、遠くの町の酒屋を口説き付けて(近くのはツケがたまっていたのだろう)、四斗樽を紅緑の家の玄関正面に飾った。そしてやってきた商人や小僧たちに「いよいよ俺の山が当たって正月の五日に横浜の十三番館と取引をする事になったから前祝いに一杯飲んでくれ」と、酒を汲んで飲ましてやった。高須賀があまりに悠然としているので、掛け取りに来た者たちはすっかり安心して帰って行った。
ところが夜半になって紅緑が床についてうとうとしていると、枕元に提灯を持って立っている者がいる。紅緑はいきなり男に飛びかかり、拳骨で乱打した。しかし殴ってからよく見ると相手は八百屋で、しかも紅緑はこの八百屋に半年も払いをためていた。この頃の東京では、提灯の消えるまでは大晦日には門を越えて家の中へ入っても債主の権利だということになっていた。八百屋は自棄酒を飲んで夜中にやってきたのだった。「ところが僕は眠くて仕様がない」と紅緑はこの期に及んで、物音をきいてやってきた高須賀に後の始末をまかせた。すると高須賀は頭に瘤をこさえた八百屋の爺さんを隣の部屋に連れて行き「そんなに言うなよ八百公、夜が白めばもう元日だ」「これほどめでたい事があるもんか、元日早々大当たりだ、今年はお前儲かるぜ」などと言いくるめたので、爺さんはすっかり機嫌を直してしまった。
高須賀も高須賀だが、掛け取りの爺さんをいきなりぶん殴る紅緑もずいぶんだ。紅緑がいかに「荒ぶる情念に引きずられる男」だったかについては娘の佐藤愛子が『血脈』で活き活きと描いている。「紅緑については毀誉褒貶、さまざまの評価があるが、自らは”野人”を標榜して他人の思惑など気にせず、思うままの生活をしてきた。五、六年前は子供の飴代にもこと欠く暮しをしていたが、その時でも居候や女中を置いていた。小説を書き始めてからは少なからぬ金が入るようになったが、入れば入るで入った以上の生活をするので、家の中は常に火の車である。」(佐藤愛子『血脈』文春文庫)。ここに書かれている「居候」の一人であり、佐藤家の家計を火の車にして「子供の飴代にもこと欠く暮し」に陥らせた張本人が、高須賀だったのである。ただしその後の紅緑の暮らしぶりからすると、彼の方にもまた、貧窮するだけの十分な原因があったのだろう。
与次郎のごとく
不思議なことに、そんな目に遭ってもなお、野人紅緑は高須賀のことを買っている。
「変幻出没とは彼の事である。俳句、和歌、論文相場もやれば新聞記者もやる。単に器用だけでない、何をやっても玄人筋の處まで達するから驚く。而も物に対して粘着性がなく、人と喧嘩をした事がない。」(「奇才逸話」文芸春秋昭和4年8月号)
明治38年、高須賀の文才に目をつけた紅緑は、彼が立ち上げに関わっていた雑誌『新潮』の編集者として雇い入れた。高須賀は、その編集者として漱石の自宅を訪れ、それをきっかけに木曜会に出入りするようになった。とは言うものの、先の小宮豊隆の文章にあったように、高須賀は木曜会に現れては金の無心をしたため、漱石からの借金はずいぶん膨らんだ。漱石は窮状を訴える高須賀のために、東京朝日新聞の渋川玄耳宛てに就職のための紹介文を書いている。
「高須賀淳平と申すもの有之是(これあり)は小生愛媛県にて小供の時に教へた腕白ものに候。」「其後出京早稲田に入学才気の為め中途にて退学其後は色々な事を仕り一時は佐藤紅緑の書生を致し只今は「新潮」の編輯に従事致候」「此男筆をとると「漱石が……」抔とえらい事を申し候が実は家計上非常に惨憺たるものにて一枚の原稿(活版に組んだ字数)を十銭で無茶苦茶にかきこなし漸く糊口致し候」「株屋になつたり寄席の帳場へ坐つたりした男に候へば中々経験は有之候」(明治40年6月12日 渋川玄耳宛て書簡)
手紙の書き出しが本当ならば、高須賀は愛媛出身で、漱石の「坊ちゃん」時代の教え子だということになるが、あるいは斡旋するにあたって何かしら縁故ある者ということにしたのかもしれない。ともあれこの漱石の手紙によって高須賀は数日後、朝日新聞に就職した。ところが、せっかく推薦までしてもらったにもかかわらず長続きせず、その後、やまと新聞、毎夕新聞などさまざまな新聞社を渡り歩いた。
漱石の日記には高須賀淳平の名前があちこちに見られる。さすがに呆れ果てたのか「此正月から今日迄臨時に人に借りられたり、やったりしたのを勘定して見たら二百円になつてゐた。是では収支償わぬ筈である。/そのうちで尤も質のわるい、又尤も大ぴらなのは淳平である。淳平はにくい奴だ。もう一文も貸さない」(明治42年5月16日)とまで書いているが、高須賀はその後も悪びれることなく漱石のもとを訪れていたようで、明治44年までは漱石の日記に登場する。調子のよいことを言って相手を巻き込んだかと思うと失敗して自他を窮地に陥れてしまう高須賀の性癖は、どこか「三四郎」(明治41年)に出てくる与次郎を彷彿とさせる。あるいは漱石は、高須賀の振るまいから与次郎を造形するヒントを得たのかもしれない。
しかし、快男児高須賀淳平のその後の消息は杳として知れない。紅緑の回顧によれば、四十近くになって最後は「ボロ銀行の専務になりそれも敗れて陋巷(ろうこう)に窮死した」とある。かつて彼を食客として家においた紅緑でさえ、その死をしばらく知らされなかった。明治33年に二十歳前後だったのだから、四十近くということは大正中期のことだろうか。「もう十年も生きて居たら彼は必らず其の生来の美質を発揮したに違ひない」と紅緑は高須賀の才を惜しんでいる。
*
漱石が高須賀のために朝日新聞社への紹介文を書いてやった頃のこと、漱石が紅緑にこう尋ねた。「君の所へ高須賀が行くか」。紅緑が「よい塩梅に此頃は見えない」と答えると、漱石はこう続けたという。
「僕の所へは煩(うる)さくやつて来るんで閉口して居る、君に睾丸の話をしなかつたか」
「ああ濱野茂の話か」
「そうだ」
新宿将軍濱野茂は一芸一能なきを恥じて睾丸を両手に広げて扇に代え、一煽あふぎ立てると燭台の灯が一左一右する、新柳二橋の美形を集めて三味線を弾かせ、チャチャチャンチャチャチャンチャチャチャンという音楽に伴れて睾丸で灯を煽ぐ曲芸をやるという話は私は曾て彼に聞いた事があつた。
「あの話が出ると警戒を要するよ」
「どうして?」
「喜んで聞いてる中に金の無心だ」
(佐藤紅緑「奇才逸話」文芸春秋昭和4年8月号)
おそらく高須賀は、米相場をやっていたときの風聞か何かで浜野茂の逸話を仕入れたのだろう。しかし漱石は喜んで聞きながら、実は、睾丸将軍の住まいが自分がかつて引きずり込まれそうになった池のある邸宅であること、そして、それは養父の記憶と結びついていることに、気づいていたのではないか。
浜野茂は大正3年9月30日に亡くなったが、大正期の新宿の地図上にはあいかわらず「浜野邸」と記されており、鴨池も見られる。しかし、昭和の地図になると、いきなり土地は分割され、住宅地へと変貌している。
何があったのだろう。調べてみると、関東大震災の直後、浜野邸の土地はある人物によって買い占められていたことがわかった。しかも奇妙なことに、この人物もまた、若いときに地元で米相場をやって失敗をしている。川と池、水の気配のする番衆町の土地には、相場師の勘を惹きつける何かがあったのだろうか。ともあれ、その人物は失敗ののち、一念発起して上京し、早稲田を卒業した後、失われた実家の財産を取り戻すべく、不動産業に乗り出した。幸い、軽井沢や箱根の土地を買って開発したのが当たって、そこで得た金を元手に、新宿の元浜野邸をはじめ、都内のあちこちの土地を買い出した。男の名は、堤康次郎という。
(10/28/20)
*1 東京都新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり―四谷編―」(1983)p317
*2 東京都新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり―四谷編―」(1983)p269
*3 小村寿太郎の息子で外交官の小村欣一は、日比谷焼き討ち事件の頃、後始末の相談に浜野邸を訪れ、鴨を土産にもらいそうになったことを記している。小村欣一『焼打ち』文藝春秋 大正15年9月号。
*4 夏目金之助『定本漱石全集. 第十九巻』(2018)岩波書店、p264。原文はカタカナ文。以下、日記と書簡文は『定本漱石全集』を参照した。
*5 高須賀の名前を佐藤紅緑は「惇平」と記しているが、漱石や小宮豊隆は「淳平」と記している。
*6 以下、高須賀淳平の逸話については、佐藤紅緑「奇才逸話」文藝春秋 昭和4年8月号29-31pp.および、佐藤紅緑「奇才逸話(続)」文藝春秋 昭和4年10月号47-53pp. を参考にした。