「ふたたび一茶、もう少し」

武田雅子

いくつかの一茶の俳句は、子どもの時からおなじみのものである――やれ打(うつ)な 蠅が手をすり足をする/我と来て遊べや親のない雀/痩蛙(やせがえる)まけるな一茶是(これ)に有(あり)。何の説明がなくてもよくわかる、最後の句など名前も名乗ってくれている。日本人にとって、そして日本の子どもたちにとって一茶という俳人がいてくれたということは、なんとありがたいことだっただろう。俳句という、世界でもまれな短詩型が、やたら高尚なものだけではなくて身近なものでもあると、感覚的にわからせてくれるのだから。

ということは、英語に訳されても、一茶の世界は伝わりやすいということが言える。いろいろな詩のアンソロジー、特に子どもの詩の本で、一茶が採られていることは多い。それでも、アメリカでToday and Today(きょうもまた)という絵本を見つけた時はびっくりした。春の “Once snows have melted, / the village soon overflows / with friendly children ”(雪とけて村いっぱいの子ども哉)から夏秋冬と過ぎ、最後に “As simple as that―/spring has finally arrived / with a pale blue sky ”(あっさりと春は来にけり浅黄色)まで、全16句が絵と共に紹介されているのだが、この絵が、自然に囲まれた、現代アメリカの一家の日常を描いていていたからである。いかに一茶が普遍的なことを句にしたかが、鮮やかに伺える例だと思った。

Today And Today haiku by Kobayashi Issa , pictures by G. Brian Karas : Scholastic Press (2007) 試し読みはAmazon.co.jp から

子どもの時、一茶の句に親しみやすさを感じたが、一方で、何かうっとうしいものも感じていた。それに比して、子ども心にも、芭蕉の孤高の峻厳さに、身が引き締まるものを覚えたし、蕪村の絵画的典雅さに惹かれもした。後に、一茶の生涯を知ると、彼の作風に納得のいくものがあった。幼い時に母を亡くし、継母とは折り合いが悪く、父の死後遺産分配で継母や弟と対立し、長年経ってようやく和解。その後、結婚するが子どもが次々他界と、苦労の連続といっていい生涯である。田辺聖子さんは、その著のタイトルとして『ひねくれ一茶』と、そのあたり愛をこめて一言でまとめておられる。うっとうしさは、それだけではない、彼の日本語にもよるのではないか。詩人の谷川俊太郎さんと批評家大岡信さんの対談で、母国語というのは、産毛のように肌にまとわりつく、それでうっとうしいし、愛しい――というようなことを言っておられたが、一茶の場合も、うっとうしいだけでなく、だからこそ愛しいともいえる。

『ひねくれ一茶』田辺聖子 著 :講談社文庫(1995) Amazon ほか。試し読みは講談社BOOK倶楽部から。電子版もあり

英語に訳された一茶がサラっとしていて、それもいいけど、やはり日本語で読んでこそと思う、日本語で読めることがうれしい。一茶は、オノマトペの使い方が、実に巧妙で、「キリキリしゃん」と咲く桔梗や、「ふうわり」と降る雪……上記の春が「あっさり」と来るのなんぞは、ごく普通の口語ながら、ここで使われるとうなってしまう。

Cool Melons – Turn To Frogs! translations by Matthew Gollub, Illustrations Kazuko G. Stone : Tortuga Press (2004 1st published 1998) 試し読みはAmazon.com から

アメリカで見つけたもう一つの一茶の本は、Cool Melons—Turn to Frogs !(蛙となれよ冷やし瓜)と題されて、彼の生涯と俳句が紹介されたもの。絵を描いた人は、日本生まれのKazukoというお名前の人で、それぞれの句は、おそらく彼女によって、墨で日本語でも書かれている。タイトルは、上五が、「人来たら」とあって、真桑瓜の縞模様と蛙のそれとの類似から、人に食べられるんじゃないよと呼びかけた句である。洗練されてはいないが、薄い本の中に簡潔にまとめられていて、日本の子どもたちに読まれてもいいのにと思っていた。すると、ひょんなことで、訳が出ていることを知った——2016年に発表された読書感想文のコンクールで、小3の女の子が、文部科学大臣賞に輝き、彼女の感想文が新聞紙上に掲載されていたのである。表題句に対して彼女は、「小さな生きものだけでなく、すいかにまでやさしい言葉をかけてしまう一茶さん!」とやさしい言葉をかけている。

エミリ・ディキンスンの研究で、アメリカのアマストの町に初めて行ったのは、彼女の没後百年の、1986年のことだった。そして、町の図書館に、ディキンスンの特別コレクションがあり、資料が揃っているのと、あまり人が来ず集中できるのとで、ここで仕事をするのが日課となった。小さな図書館だけれど、子どものコーナーはとても充実していて、特に子どものための詩の本の棚は、すべてチェックした。大詩人の作品も、子ども用に絵が付けられると身近に感じられるし、また子ども用としてどのような作品が選ばれているかも大いに参考になった。

こうした本の一つに、一茶の俳句集があり、見開きページに、二、三句の英訳と、墨で描かれた小さな絵が、一句に一つ添えられていた。紙の地色は抑えたベージュに近い白で、あとは、カラーとしては、頁の上と下に淡い肌色、または薄緑が中央に帯のようにかかっているという頁の2種類で、全体が淡い雰囲気、表紙もこの薄緑で、そこに蝶が飛んでいる。何よりも素晴らしいと思うのは、出てくる人間もコロンと本当に小さくて、他の動物や虫たちと同じくらい、ときにはより小さい。人と周りの生き物が、同じ命を生きていることが、とても愛しいものに思えてくる。そして、英語で読むので、いっそう素朴にエッセンスだけが伝わってくる。

訳は、俳句についてのシリーズものも残している大研究家ブライスさんと、日本文学の紹介を早くからしていた湯浅さんという、当時一級の人たち。絵は、ロニ・ソルバートとあるのだが、この人はどういう人なのだろう。外国の人が日本の風物を描くと、こちらがしばしば覚える違和感がほとんどない。初めてアマストに行ってから、この町が私の第二の故郷となり、その後、毎夏のように訪れることになったのだが、そのたびに図書館でこの本があるのを確かめ、かわいいなと眺めてきた。1969年の出版で、かなり地味な造り、今では、もっとカラフルなものがたくさん出ている。それからしたら、この本は顧みられることはあるのだろうか。アメリカの子どもの気を引いているのだろうか。

この本を、これほど愛しいと思っている人は、そうそういないのではないかと、もう持って帰ってしまいたいと考えたほどだった。こんなとんでもない料簡を起こすほど欲しいと思った――それほど欲しいと思った本は、欲しがっている人の所にやってくるのである、何十年かかっても……

A Few Flies and I Haiku by Issa , pictures by Ronni Solbert : Random House (1969)

女性雑誌の神戸特集に、アメリカの古本の絵本の店が紹介されていた。いつか行こうと思いながら、数年経っただろうか。また別の雑誌に紹介されていて、ついに出掛けなくてはということになった。ひと昔、ふた昔前の絵本があって、私が持っているものもあったが、店主の路線と私の好みは重なるわけではないなぁと思いながら、もっと奥にぐるりと回って行ったら、日本を英語で紹介する本のコーナーがあった。そもそもその部門には関心があったが、一茶のことは思いもしなかった。だから薄緑の地に茶色の蝶の絵、そして赤いA Few Flies and I(数匹の蠅と私)の文字を認めた時、本当に信じられなかった――あぁ、来てくれたのねと、何度も確認するかのように思ったのだった。そしてこの本は、カンサスの学校図書館が手放したもので、最後には貸出票も付いている。

日本で出版された一茶の本として、信濃毎日新聞社から出ている「四季の一茶」は、子どもの本ではないが、各ページ色鮮やかな絵がついているし、コラムも充実していて、なかなかよくできた本である。だから、好評につき、続編も出たのだろう。でも残念ながら、普通の本屋には並んでいず、どこか特殊なところで見つけた記憶がある。

『四季の一茶』と『続 四季の一茶』矢羽勝幸・著, 庄村友里・絵:信濃毎日新聞(2014 , 2015) 信濃毎日新聞はこちら

一日に数ページ読んで眠りにつく、という就寝前の楽しみを持っていたある日、ベッドから転がり落ちんばかりに驚いた。「ともかくもあなた任せの年の暮」の一句があったからである。その前年のお正月に、友人が一家の写真の入った年賀状をくださり、お寺の入口で撮ったもので、門前にこの言葉が書いてあった。「あなた任せ」とは、なんとノンシャランなことよ、ましてそこに「ともかくも」がついているとは――などと思ったのであった。しかし、無知ほど恐ろしいものはない。これは一茶の句で、阿弥陀如来にお任せするというものなのであった。真の他力本願ときたら、実に難しいものである……

この信濃毎日新聞社は、自国信濃の俳人、一茶の本出版に熱心で、上記の本の後ろに、『ちひろと一茶』の紹介があった。生前の岩崎ちひろが一茶の句に絵を残していたわけではないが、息子の松本猛さんが、ちひろの作品から一茶の句に合わせて選んで作られたもので、本当にそれぞれの句のために描かれた絵ではないかと思うくらいピッタリで、同郷の一茶とちひろのバーチャル対談も楽しい。

『ちひろと一茶』松本猛・ちひろ美術館編著:信濃毎日新聞(2009) 信濃毎日新聞はこちら

さて、一茶の本巡りの最後に触れておきたい本がある。「あなた任せ」の句を作った年、一茶は長女さとを失っていた。「ともかくも」、つまりどのようにでもあなた様、阿弥陀仏にお任せするしかないという、絶望の果てにかろうじて抱いたすがる思いだったのである。そのさとを失くした時の句「露の世は露の世ながらさりながら」の持つ虚無感と未練は、時も場所も越えて遠く遠くへと広がってゆき、同じく娘を失くした、フランスの文学研究者でもある小説家のもとに届く。

一茶は、わずかな言葉で時の掟を語る――その掟は生きとし生けるものすべてに関わり、すべてが、朝陽とともに消えゆく運命にある露と同じように儚いものであると述べている。しかし、この掟に対して、一茶の句は言外に匂わせる。人の心のうちにはそれを完全には受け入れない何かがある、と。

(中略)

もちろん、すべては虚しい。しかし、それにつけ加えて、一茶は言う。

さりながら

「喪失の世界を生き延びるために――」とされた、フィリップ・フォレストのこの(私)小説は『さりながら』と題されている。原題もSARINAGARAである。

『さりながら』フィリップ・フォレスト 著, 澤田直 訳 : 白水社(2008) 白水社はこちら

(5/28/2020)