1955年7月25日—8月6日 兵庫県芦屋市 芦屋川沿い松林の公園
「真夏の太陽にいどむ モダンアート野外実験展」
文・塚村真美
はじめに___今までになかった絵をかけ
このシリーズは、1954—1972年に大阪と阪神間を拠点に活動した美術グループGUTAIの面白さやその芸術的意義を具体的に知るために、探偵がタイムトラベルして、現場の様子を探っていくという企画である。近年、国内外でGUTAIの展覧会が開催されているが、作品が並んでいるのを眺めただけでは、なかなかその芸術性はわかりにくい。また現存しない作品も多い。そこで、実際にその時代のその場に行って体験してみたい、と思ったわけである。
|そもそもGUTAIとは
そもそもGUTAIとは、画家吉原治良(1905—1972年)と、吉原に作品の批評を受けていた阪神地方の若手美術家16名が1954年に結成した前衛美術家グループ「具体美術協会」のこと。結成後、強力なメンバーが参加し、吉原が発案したユニークな展覧会で、独創的な作品を次々に生み出していった。会としての規正はとくになく「あくまで自由な創造の場」だと吉原は「具体美術宣言」(1956年)[i]に書いている。その活動や作品は、戦後の美術史において、日本のみならず世界的にも重要な位置を占めるとされる。グループ名は略称で「具体」と呼ばれ、海外ではGUTAIと表記されるので、ここでもそう表記することにする。
GUTAIはすでに初期から海外のアーティストや批評家から評価を得ていたが、再評価が高まったのは1985年のスペイン、ユーゴスラビアでの展覧会、1986年パリのポンピドーセンターでの「前衛芸術の日本 1910—1970」あたりで、1990年ローマの国立近代美術館での「前衛の日本 1950年代の具体グループ」や、1993年ヴェネツィア・ビエンナーレの企画部門「東洋への道」への招待などがあり、21世紀に入ってからも海外での展覧会が続き、2013年ニューヨークのグッゲンハイム美術館での「具体:素晴らしい遊び場」が決定打となり、この展覧会によって作品の価格が高騰した。
GUTAIの主要メンバーで有名なのは、白髪一雄。足で描いたダイナミックな抽象絵画は、サザビーズで2015年に5億円超、2018年に11億円超の価格で落札された。そして、元永定正。70年代より絵本作家としても活躍し『もこもこもこ』『もけらもけら』などの作品は今も人気が高い。また、ランダムに点滅する《電気服》が衝撃的な田中敦子。体当たりで紙を破って飛び出す写真で知られる村上三郎。絵の具を詰めた瓶をキャンバスに投げつけるなど炸裂させて絵を描くほか、メールアートのプロジェクトなど国内外で精力的に活動した嶋本昭三。そして、たいていの場合、彼らに対する評価は、アクションペインティング、ハプニング、パフォーマンスの先駆け的な存在として語られてきた。
吉原治良率いるグループGUTAIがモットーとしたのは次の吉原の言葉である。(「わが心の自叙伝」より[ii] )
今までになかった絵をかけ
吉原は結成当時の考え方について「まず、従来になかったものを創り出さねばならない。独創性を最も高く評価しなければならない」[iii]といっている。
そして、結成から2年を経て1956年12月に『芸術新潮』に掲載された「具体美術宣言」では、最後の一文をこう高らかに書き上げた。
溌剌たる精神が具体の展覧会には常に流れ、新しい物質の生命の発見がすさまじい叫び声を発することをわれわれは常に願望しているのだ。
見てみたい、溌剌とした展覧会を。聞いてみたい、すさまじい叫び声を。といってもアーティストや鑑賞者が叫ぶわけではない、叫ぶのは物質である。
|宣言文を読んでみた
吉原が物質と呼んでいるのは、絵の具、布、金属、土、石など、一般的に “素材” といわれるものだが、吉原はそうは呼ばずに、“物質” と呼ぶ。絵の具が素材に成り下がってはいけないのである。素材なんて呼んだら絵の具に失礼なのである。ただ、これ、英語ではどちらも “material” なので、欧米人にはわかりにくいかもしれない。
たとえばそれは料理において、野菜や肉を “素材” や “食材” と呼ぶと、野菜や肉は “材料” ではない、それでは野菜や肉のいのちに敬意が払われていない、という考えに似ている。料理が上で、野菜や肉が下ということはないだろう、料理人は、また人は野菜や肉に対して驕ってはいけないのである。
吉原は「精神は物質を従属させない」と書く。だから絵の具や石や木を素材として従属させ何らかの意味を表した絵画や彫刻などは欺瞞だ、と。それでは物質は死んでいる。よって「墓場にとじこめろ」なのである。人は絵の具より上ではいけないのである。かといって、人が絵の具より下になってもいけないのである。ジャクソン・ポロックとジョルジュ・マチューの作品については敬意を払いながらも「物質に奉仕するようでさえある」と書いている。絵の具より下になっちゃってるんじゃないかと。ちょっとそこのところがGUTAIとは違うようである。
上でもなければ下でもない。そういうことだから「具体美術においては人間精神と物質とが対立したまま握手している」と吉原は書いた。
宣言の中ではまた、白髪一雄の足で描いた絵画についても言及している。
白髪一雄は何とその奇妙な制作の有様を発表したのではなく彼の資質が選択した物質と彼自身の精神の動態との対立、総合の方法を極めて首肯し得る状態で獲得しただけだ。
白髪は “制作の有様” を発表したわけではないのだ。見るべきは獲得の結果としての作品であろう。それは絵画であって、アクション、パフォーマンスではないのである。
料理人がオープンキッチンで料理していても、見るべきはその技ではなく、テーブルに出された料理であり、その味つまり声を聞くべきであろう。というようなことか。
さらに吉原は、白髪のほかGUTAIメンバーの作品の “制作行動” については、わざわざこう書いている。
これ等の制作行動は真面目な襟を正させる気魄をもつことを知って欲しい。
気魄という強い言葉ながらも、文末は、宣言文というより、お願い文である。裏返せば、知ってもらえていないこと[iv]に対する不満がある。奇妙な「体当たりの芸術」としてしかジャーナリズムにとりあげられてこなかったことへの、やるせない思いが漂っている。ほかに、弁明のような文もある。それは、高らかにうたいあげた最後の一文の直前に。
一見ダダと比較され混同されることも多いがダダの業績を再認識しつつあるわれわれではあるが、ダダとは異って、可能追求の場に於ける所産であることを信じている。
よほどそれまでダダを引き合いに出されたのか。そしてダダには敬意をもちながら、あくまでも、可能追求の場に於ける “所産” と言っているので、可能追求の “場” ではなく、GUTAIが産みだしているのは “芸術作品” だと主張している。ダダでよく言われるナンセンスなパフォーマンスとか、精神の解放とか、反芸術とか、そんな運動ではないということだろう。宣言から6年後にも吉原は書いている。「クラシックからの開放が、或いは断絶が必要であるが、かつてダダが果たした、断絶と破壊が目的ではない。われわれは新しい道を切り開いて何ものかを建設して行かねばならない」[v]と。
GUTAIが建設したものを見ていかねばなるまいて。
|溌剌とした展覧会
さて、GUTAIは1972年にリーダー吉原が急死して解散するまで、18年にわたって活動したが、最も溌剌としていたのは、初めの3、4年だろう。それは、芦屋市の松林で1955年に開かれた「真夏の太陽にいどむ モダンアート野外実験展」と、翌1956年にGUTAIが単独でおこなった「具体野外美術展」、そして1957年に大阪の産経会館と東京のサンケイホールで行われた「第1回 舞台を使用する具体美術」、翌1958年大阪の朝日会館で行われた「第2回 舞台を使用する具体美術」のころ。
「野外展」とこれに引き続いて催した「舞台を使用する具体美術展」この二つは「具体」の存在を国際的に知らしめたことになる。
吉原は1967年に戦後の活動をそう振り返っている。[vi]
溌剌として活きいいGUTAI。その最初の展覧会は、1955年7月25日—8月6日に芦屋の松林で開催された「真夏の太陽にいどむ モダンアート野外実験展」だろう。主催は芦屋市美術協会だが、吉原は1948年創立の同協会の創立メンバーであり代表だった、さらにこの野外実験展の発案者にして実行委員長だった。出品者は40名あまり、そのうちGUTAI会員は23名。半数以上がGUTAIの会員であり、実質的にはGUTAIの最初の展覧会といえる。[vii] そしてこの時に、上述したGUTAI初期の主要メンバーが出揃い、GUTAIの体制が整った。
1955年にいったいどんな展覧会が開かれていたのかを知りたい。その全貌がよく分からないからだ。というのも、写真などの記録があまり残っていないか、まだ見つかっていない。とはいえ、参考資料はまったくないわけではない。手に入る資料を参考に、1955年7月25日—8月6日の芦屋の松林での展覧会を体験しに出発しよう。ただし、実際にタイムトラベルができるわけもなく、写真や資料をもとに探っていくわけなので、ところどころ解像度がぼやけてしまうが、そこは想像と妄想で補っていくことをお断りしておく。
若き画家たちは、そして吉原はいったいどんな「絵」を溌剌と松林に描いたのだろう。
その1_時間旅行の地図
旅行に必要なもの。それは地図である。探偵は一枚の地図を手に入れた。
これは、白髪一雄のスケッチである。確定はされていないが、1967年の『美術手帖』に連載された「冒険の記録 エピソードでつづる具体美術の12年」の挿し絵のためか[viii]、『美術手帖』連載と同時期に描かれた可能性が高いと推測できる[ix]という。連載第2回(1967年8月号)が野外展についてのエッセイなのだが、ほかの5回にはいずれも白髪によるイラストが入っているのに、この回だけは写真のみでイラストが載っていない。この絵をA5サイズのモノクロの誌面に文章とともに挿し絵として掲載するとなると、ちまちましてしまいわかりにくいと判断されボツになったのか?ハテ?
ともかく、地図があるのとないのでは大違い。この絵を時間旅行の地図にするとしよう。その前に、現在の地図で場所を見てみよう。それはここ、兵庫県芦屋市。東の田園調布、西の芦屋などと称される高級住宅地にして、いわゆる阪神間モダニズムの中心地。会場となった松林は、山の手ではなく、海の手にある。阪神芦屋駅から徒歩5分で到着する、「芦屋公園」という名の松林だ。
当時に近い航空写真も見てみよう。ちょうど1955年の写真は見つからなかった、残念。これは1955年の6年後、1961年。
おお。まったく埋め立てられていない。芦屋市立美術館の南側、現在のmapの「臨港線」が海岸線だ。会場から5分ほど歩くと海に出る。阪神高速はまだ通っておらず、幅員の広い「国道43号線」が見えているが、幅員50mの道路が芦屋市を貫通したのは1960年で、1950年から工事が始まっている。1956年の記録写真の背景には永保橋と考えられる橋が写っていたらしく[x]、永保橋は43号線の開通によって芦屋川橋に架け替えられたので、風景としては、それ以前の、次の航空写真の方が道路の感じは近いかもしれない。「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」が開かれた1955年より7年前の1948年の写真だが。
これだと、国道43号線の工事前の国道二号が見える。吉原治良邸と、関連施設として精道小学校をマークしてみた。しかし、ちと古いのが気になる。そして、さらに近いのが、航空写真ではないがこちら。1952年に修正測量、1956年7月31日発行の旧1万分の1地形図。
これだと永保橋もあって、測量した1952年にはすぐ近くの第二国道がすでに拡張されていたことがわかる。1955年には会場のすぐ南側で7月終わりごろ〜9月末までテニスコートの第一期工事の真っ最中だったようだ。また、精道小学校でも増築工事が順調に進んでいた。まさに高度成長期!ベビーブーム!
会場までは阪神芦屋駅から川沿いの道ではなく、駅の改札を出てすぐまっすぐ徒歩5分で会場に到着する。吉原治良の場合は家から歩いて8分くらいか。1925年二十歳のころ大阪船場から芦屋に引っ越して30年、吉原にとってはなじみの公園だったろう。もしも探偵が精道小学校の生徒だったら、学校帰りに立ち寄り、土曜には家に帰ってランドセルを置いたら海に近い方の遊具のある公園にも遊びに行き、夏休みには浜辺に降りて遊んだに違いない。
まさにこの立地があってこそ、吉原は「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」を思いついた。吉原が創立者で代表の芦屋市美術協会主催「芦屋市美術展覧会(第4回から芦屋市展)」は1948年に始まり、以降毎年6月に開催、1953年からは会場が精道小学校になった。吉原が洋画部門の審査員を務めた「芦屋市展」は地方展として最も進歩的とされ、才能のある新人が発見されて世に出ていった。GUTAIの初期メンバーとなる山崎つる子は第1回展に出品、元永定正は精道小学校が会場となった1953年から出品を始め、1955年6月の第8回展にはGUTAIに参加する直前の白髪一雄、金山明、田中敦子が出品。吉原は1967年[xi]にこう回想している。
その市展も初めのころは小学校の講堂だった。毎年多くの落選作品が前の広場に搬出されるのを見て私は野外展を思いついた。太陽の直射光で見てもびくともしない面がまえの作品がそろっていた。
一九五五年夏、その野外展は市の美術協会主催で芦屋川の松林で、その翌年は「具体」の野外展として同じ場所に開催された。
さて、そろそろ、出かけてみよう。まずは下見だ。それはここ、「鵺(ぬえ)塚橋」の見えるところ。
なぜなら、探偵が見ることができた数少ない写真のうち、今も現地にある鵺塚橋(たぶん)がこの写真の右奥に写っていたからだ。
吉田稔郎《実験D》という作品はこの辺りにあったはず。作品などないではないか、杭はあるけど。いやいやいや、その杭が作品なのである。白髪スケッチの左上方に、「yoshida」と書かれた、写真に似た杭のような絵が描かれている。とすると、白髪スケッチの上は西ということだ。よしっ。
白髪一雄画伯描くスケッチを時間旅行の地図に、そして1967年8月号『美術手帖』のエッセイをガイドブックにして、探偵は飛び立つことにした。
ダイヤルは、1955年7月25日(月)目指すは兵庫県芦屋市 芦屋川沿い松林の公園だ。
(6/4/2024)
■お知らせ 《真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展スケッチ》は「尼崎市総合文化センター 美術ホール」で2024年7月27日(土)~9月23日(月・休)に開催の生誕100年白髪一雄展に出品される。
https://www.archaic.or.jp/event/shiraga100/
https://www.archaic.or.jp/event/shiraga100/img/shiraga100-l2.pdf
https://www.archaic.or.jp/event/shiraga100/img/shiraga100-l1.pdf
■お知らせ 「芦屋市立美術博物館」では、コレクション特集 「具体美術協会/芦屋」「アプローチ!―アーティストに学ぶ世界のみかた」を2024年4月13日 ~6月9日(日)に開催。
https://ashiya-museum.jp/exhibition/18423.html
■お知らせ 「兵庫県立美術館」では「白髪一雄生誕百年特別展示―コレクションからザ・ベリー・ベスト・オブ・白髪一雄―」を4月25日~7月28日(日)に開催。
https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/j_2404/index.html
[i]吉原治良著「具体美術宣言」『芸術新潮』第7刊第12号 1956年12月1日
[ii] 吉原治良著「わが心の自叙伝⑥「具体」美術と芦屋市展—野外展と舞台利用 いままでになかった絵を…」神戸新聞 1967年7月9日(『具体資料集—ドキュメント具体1954-1972』財団法人芦屋市文化振興財団1993年より)
[iii] 吉原治良著「具体グループの十年(その一)」『美術ジャーナル』第38号1963年3月(『具体資料集—ドキュメント具体1954-1972』財団法人芦屋市文化振興財団1993年より)
[iv] 評論家の赤根和生(1924-1997)は「〈具体グループ〉その運動の軌跡」(特集 世界に飛躍する具体美術)に 「過去の新しい芸術運動のすべてがそうであったように、〈具体〉もまたその草創期には黙殺を迫害という運命の試練に耐えてゆかねばならなかった」と書いた。『オール関西』第1巻3号1966年3月(『具体資料集—ドキュメント具体1954-1972』財団法人芦屋市文化振興財団1993年より)
[vii] 兵庫県立美術館企画 平井章一編著『具体ってなんだ?』p39, 美術出版社, 2004年(実質的には「具体」の最初の展覧会といえるものであった)/尾崎信一郎著『戦後日本の抽象美術』p15,思文閣出版2022年(「内容的には具体の第1回の野外展と考えてさしつかえない」)
[viii] 尼崎市文化振興財団の妹尾綾さんによると「『美術手帖』の「冒険の記録」の挿し絵として描いたものかと推測できますが、掲載されていませんし裏書などもなく、証拠はなにもありません。他の「冒険の記録」の挿し絵と紙の大きさも違います」とのこと。