【ポエトリーの小窓】その13「『星の王子さま』から広がる世界」 文・武田雅子

時々、国立民族学博物館に出かける。博物館というのは、昔は作り物が怪しげだったり古くなっていたり、ちょっとおどろおどろしいところがあって敬遠していたが、万博の跡地に同館ができて初めて訪れた時は、展示が美しく、また量的にも圧倒され、博物館というものの認識を一新させられた。じつに爽快だったが、今となっては、遠い時代の博物館のあの怪しげな雰囲気もちょっと懐かしい。

さて、数年前のこと。同博物館を訪問して驚かされたことがある。ある部屋に入ると『星の王子さま』の各国語の翻訳本が壁一面を飾っていた。それまでの他の作品、たとえばアンデルセンの童話や、『ハイジ』といった児童文学も各国語に訳されてきただろうが、こう並べて見せられると、これほどまで多くの言語に訳されたのは、確かにこの作品しか考えられないだろうと納得できた。(国立民族学博物館HP>展示>常設展示>地域展示・通文化展示>言語展示

本の冒頭、作者サン=テグジュペリはこの書をある人に捧げて、それから「子どもだったころの」と、その人の名に書き足した。子どもでなかった大人はいないのだから、ということは、この献辞は誰にも当てはまり、それでいてこの言葉の意味を考えてみると、大人になってかつての子ども心というものを失ってしまったなぁと気づかされたり、たとえばまわりにいる子どもと何か距離を感じて、自分も子どもだったのだから分かり合えないはずはないと思ったり、いずれにしても、はっと思いがけない発見につながりうる、なかなか深いものである。

博物館の壁一面の展示を見てすぐのことだったと思う。NHKで、前年の2018年オランダで制作された「星の王子さまの世界旅」というドキュメンタリーに出会って、いっそうその意味を認識させられることになった。それは、失われゆく希少言語に『星の王子さま』を訳している人々を訪ねての旅だったからである。

モロッコのベルベル人は、圧倒的多数に使用されるアラビア語の中でタマジクト語を何とか子どもたちに伝えようと翻訳を思い立ったと語っていた。砂の風景の中で、「この作品はほとんどが砂漠の中の物語で……」と言われてみると、確かに、砂の上に書かれては風で消えてゆく、砂漠の国の言葉で語られるのもふさわしいように思われてくる。

ラップランドのサーミ語、エルサルバドルのナワト語の場合もまた、迫害に耐えている人たちにとって、自分たちの言葉の存続に希望を託すことと、この物語の主題とがシンクロしてくる様子が鮮やかに伺える。

それは中国の圧政のもと、会議の言葉も中国語でなくてはならず、言葉こそ自分たちのアイデンティティなのにと語る、チベット語の翻訳者の発言に集約されていると言っていいだろう。

このように、人間存在の本質の問題に直面している人たちに、この作品がいかに切り込んでいくかをこのドキュメンタリーは教えてくれた。

人間存在の「本質」とはフランス語でいう“substance”で、岩波書店から出ているこの本の訳者、内藤濯氏は、クラスでこの本を読み、この語の訳語として何がいいかを学生に考えさせたところ、一人が人間の「芯」という日本語をあげたとき、授業からこの言葉が出たことをたいそう喜んだと岩波の『図書』に書いておられた。

この作品は、児童文学のカテゴリーに入るので、子どもでも読める、しかしじつは大人にこそ読まれるべき深さがある。いや、またむしろ逆と言ってもいいかもしれない——大人になっても純粋な子ども心を持ち続けていてこそ分かると。

言葉といえば、書店の語学コーナーに行くと驚かされることがある。フランス語で書かれている作品なので、原文で読んでみようという本があるのはわかるのだが、『ロシア語で読む「星の王子さま」』や『スペイン語で読む「星の王子さま」』、その他もろもろ。私が何かの言語を習いたいとすれば、その国の人と話したいというのもあるが、その国の文学(特に詩)をその国の言葉そのものでということが動機だから、フランス語以外の「星の王子さま」など、考えもしなかった。しかし、一つの言語を子どものように素直に初歩から学ぼうというとき、それでいて大人だからものの考え方はもう子どもではないとき、この物語は、上記の希少言語の例が示すように、まさにふさわしいのである。

それに、トロイア発掘で知られる語学の天才、シュリーマンがとった、多言語習得の一つの方法が、同じ一つの物語を各国語で読むというもので、背後の文化といったものよりも、とにかく言葉習得ということなら、「星の王子さま」を軸に、フランス語からロシア語、スペイン語、ドイツ語と渡り歩くのも手だろう。

そして、版権のことがあったから、長い間、訳といえば、上記内藤濯氏のものだったが、今では、百花繚乱、選りどり見どり。そして、作者自身の挿絵も魅力の一つなのだが、やはり画家たちの想像力を刺激せずにはいられない物語だからだろう、今ではいろいろな挿絵が描かれている。

また、注釈書も研究書から一般書、新書までこれも百花繚乱なので、作品の解釈についてはそれらに譲るが、一つだけ挙げておきたいのが、最近出た、香港の2014年の民主化要求の「雨傘運動」の政治学者、周保松氏の『星の王子さまの気づき』である。運動の敗北後、この作品に「つながりをつくる」という自分たちの思いを読み取るというもので、この作品のテーマが現代にも訴えかけることを端的に示している。

周保松著(西村英希・渡部恒介訳)『星の王子さまの気づき』2021年、三和書籍刊

ついでながら、この物語の中で、私がひそかに気に入っているところは、星の王子さまにこの「つながりをつくる」ということを教えるキツネと仲よくなっていく場面で、「あくる日、王子さまはまたやってきました。」とあって、二人はずうっと会っていればいいのに、別々に離れてやるべきことがあるらしいところ。いやお互いのやるべきことなどないのかもしれないのだけれど。とにかくべったりとした付き合いではなく、この距離感がいい。

さて、「星の王子さま」といえば、私にとって欠かせないのが、この作品の朗読レコードである。ここで、語り手である飛行士の役を担当しているのが、誰あろう、フランスを代表する名優ジェラール・フィリップその人である。私は映画好きではあるが、たいてい監督に恋してしまい、俳優にはあまり興味がない、彼を除いては(日本では市川雷蔵のみ――両者とも30代の夭折で、老成した俳優としての姿を残さず、青春のまま我々の前から消えてしまったことも象徴的と云えようか)。

『Le Petit Prince (the Little Prince) 』Amazon ストリーミング, MP3, CDはこちらから

私には自分勝手に作っている、俳優の素質としての基準があって、それは敏感であるかどうかということである。だから、世に名優と言われても、私にはどうも鈍感さが我慢できないということがある。それから言ったら、ジェラール・フィリップは私のいう敏感そのもの。それとなんと言っても「気品」これほど気品を感じさせる人もいないのではないか。何しろ、スタンダールの二大名作、『赤と黒 』『パルムの僧院』の映画化にあたって、いずれの主人公も演じているのである。ある時、主人公の名前ファンファンが彼のニックネームになったという『花咲ける騎士道』をまだ見ていなかったので、上映館に出かけたが、この日はどうも疲れていたというのに、最前列しか残っていず、ますます疲れそうと気分は最悪――ところが、エンドマークが出るまで、そんなことはふっとんでしまい、あまりに彼がスカッとした快男児ぶりだったので(ところが、彼は剣術、馬術はできなかったという。それをやってのける役者根性!)、物語の大団円に拍手したくなったくらい、彼のニックネームの由来にも納得した次第であった。

と、日本では、映画でしか彼に接することができないが、本来舞台俳優であり、したがって彼の朗読は、舞台の研鑽の賜物なのである。レコードの『星の王子さま』の冒頭は、有名な、ウワバミに飲み込まれたゾウの箇所は視覚的なので、朗読には適さないとして省略され、砂漠での飛行機不時着のところから始まるが、しばし、語り手のモノローグである。そして、王子さまが「ヒツジの絵をかいて」というところまで、ちょうど1ページ原文を暗記したので、私はいつでもどこでも、この箇所を暗唱すれば、彼の声を頭の中に再現することができる――ささやかだけれど何という贅沢だろうとひとり悦に入っている。

『星の王子さま』は授業で読んだわけではなかったと思うが、ジェラール・フィリップの『悪魔の美しさ』は、視聴覚教室でのテキストだったというのは覚えているので、そのあたりから、『星の王子さま』のレコードの存在を知り、丸善でフランス版を購入したのだろう。

当時、今から50年ほど前のこと、語学教育における耳の訓練の大切さが言われ始め、先の視聴覚教室はLLと称され、学校に語学テープの聴ける特別な設備の付いた部屋が設けられたのだった。そして、文芸レコードの花盛り――本国で出たものに、日本語訳や解説が付けられた。『フランス詩選集1,2』、そして、函入りの『フランス近代詩体系12』。負けじと、英語では、これも函入りの『イギリス詩大系」『現代英詩大系』、それから往年の名歌手の『ロッテ・レーマンの朗読によるドイツ抒情詩集』も。

この中では、ジェラール・フィリップは詩も読んでいて、ヴェルレーヌの物憂い一篇をマリア・カザレスと共演しているのなど、印象的だった。まだ熱い思いの男に対して「そうかもね」と冷めている女――カザレスは、上記『パルムの僧院』の映画で、主人公ファブリスの運命を握る権力者に「何をしてやろう?」と聞かれ「あなたのお出来にならぬことでございます」と言ってのける役を演じているが、このセリフが見事に合う女優である。

先ほどのように、フランス語の入門を学んでいたころ、別の授業では、スタンダールの訳で知られる生島遼一先生の授業を受けるという豪華さだったが、残念ながら授業内容は今ではほとんど覚えていず、ただこの伯爵夫人のセリフは「男として、これほど腹立たしい言葉はない」とおっしゃったのが残っている。

さらには、『サン・ジェルマン・デ・プレの詩人たち』という、ちょっとマニアックなシャンソン集大成も函入りで出た。この界隈のシャンソンの女王ジュリエット・グレコがサルトルに可愛がられていたこともあって、知的な香りを漂わせていた。そういえば、この哲学者サルトルがボーボワールと共に来日したのもこのころだった。当時の熱気からしたら、今やこの二人も語られることがほとんどなくなってしまったと隔世の感があるが、思うに、必要以上にフランス文化をありがたがっていた時代であったと、ちょっと皮肉も込めて振り返るのである。

今まで、ずっとレコードと言ってきた、何しろ50年も前のことなので。その後、ジェラール・フィリップのCDを注文して、フランス版のものがいくつか手元にある。『モーツァルトの生涯』(音楽を間に挟みつつ、生涯を語る)、『ピエールと狼』(プロコフィエフの音楽にお話がついている。フランス語では「ペーター」は「ピエール」になっている)、「星の王子さま」「ドン・キホーテ」「花咲ける騎士道」を2枚のCDに収めたもの、「ジャン・ヴィラールの序」(リチャード2世より)、「ホンブルグの王子」(クライスト作)、「リュイ・ブラース」(ユーゴー作)、「ロレンツァッチオ」「戯れに恋はすまじ」「マリアンヌの気まぐれ」(以上3作品はミュッセ作)とこれも2枚組に舞台上演を収めたもの。

子ども向け、教育用から舞台とさまざまで、探せばもっとあるだろうが、鮮明な画面を残せる今の技術で、彼の舞台姿を、せめてコルネイユの「ル・シッド」を(これは、一部の録音と舞台写真がいくつかあるのでいっそう)とどめておいてもらいたかったと、ないものを探したいのが、本当のところである。

ところで、ジェラール・フィリップは、その妻アンヌとの出会いによって、政治的にも芸術的にも深みを増したとされるが、アンヌが、ジェラールの死をしっかと受け止めて言葉を紡ぎ出しのが『ためいきのとき』という作品である。雪の公園での夜、雪で濡れた彼のまつげを見ていた幸福の絶頂で、ふっと考えもしなかった思いがやってくる――もしいつか不幸になることがあっても、しゃんとしていようね。この本の中で、特に好きな場面である。もともと彼女はジャーナリストで、日本語になっている『シルクロード・キャラバン』などを発表しているが、『ためいきのとき』以降、『丘の上の出会い』など小説も残している。

さて、『星の王子さま』の朗読に戻ろう。これにはオーケストラによる音楽がついているし、色っぽいバラ、人はいいけどどこかすっとぼけている点燈夫、冷たく恐ろしいヘビ、すべてを包み込むようなキツネと適材適所の俳優たちである。では、星の王子さま役は?……これが、映画『禁じられた遊び』で我々の涙を絞った子役のジョルジュ・プージェリである。映画でも自然な演技が素晴らしかったが、この朗読も素晴らしい出来である。ジェラール・フィリップのみならず、彼の参画もこのアルバム成功の大きな要因だったと思われる。作品の中で、忙しさのあまり、飛行士が邪険な物言いをして、その語る内容の思慮のなさに、王子さまが泣き出すところがあるが、初めて聴いた時、こちらももらい泣きしてしまった、というより王子さまと一緒に泣きじゃくってしまったのだった。その後も、この箇所になると涙がにじむ。慣れてしまって、ここで泣けないようになってしまいたくはないと、このレコードはそうやすやすと聴けないものになってしまった。

これが豪華版だったからでもあろう、もっと素朴な形で、歌手(とは限定できないくらい多彩な人なのだが)のムルージの作ったレコードもある。挿入音楽はルーマニア民謡で、パンの笛といえばよく知られたパンフルート奏者、ザンフィルによる演奏が入っている。私にとって「星の王子さま」は、やはり前述のレコードに収斂されるのだが、作品そのものは決して一つに絞られない広がりを持っている。その意味でも、別の演出が提出されたことはありがたく、これからも聴き続けていきたい。こちらをもっと聴き込むことで見えてくるものがあるだろう。

ムルージ『星の王子さま』フィリップスレコード

それから、英語の朗読では、映画『小さな恋のメロディー』で、トレイシー・ハイドとかわいいカップルを演じて、日本の女の子たちの心を掴んだマーク・レスターのものがあった。語学の勉強のためとして出されていて、語学コーナーにあったが、レコードからは進化したとはいえ、まだカセットの時代だった。

今回、『星の王子さま』について書き始めたとき、じつは、もう一つの物語とつないで書くつもりだった。ところが書いているうちに、結構こちらだけでも膨らんできたので、その別の物語は次の機会に。そして、このコラムのタイトルは「ポエトリーの小窓」なのだが、『星の王子さま』には詩は出てこない。しかし、全篇散文詩であると言ったらうなずいてもらえるだろうということで、お許し願いたい。

(8/30/2021)

付記(3/21/2022)
[ジェラール・フィリップとサンソン・フランソワ]
サンソン・フランソワというフランスのピアニストがいた。ドビュッシーやラヴェルなどフランス物はさすがという洒脱な味を見せていたが、私は、それよりもむしろショパンをよく聞いていた。「練習曲」など、鮮やかに弾いているのだが、テクニックのひけらかしなど匂わせもしないしなやかさだった。フェスティバルホールに聞きに行ったのがなつかしい。
酒・たばこ好きというのもあって40代で亡くなってしまい、もうああいうピアニストは現れないのではないかと思ったものだった。最近、他の曲と一緒に入っているレコードで改めて「子犬のワルツ」を聞くことがあった。ショパンのワルツ集のレコードを持っているので、それで聞いていたはずだが、このよく聞き知っている曲が全く初めてのような衝撃をもたらした。何かというと、それは“気品”である。そしてこれが、ここでフランソワの名を出した理由である。
ジェラール・フィリップというと、私はフランソワを思い、フランソワというとジェラールを思っていた——あれほどの気品あるピアノ、あれほどの気品ある立ち姿はないと。
フランソワの生まれたのは、ジェラールに遅れること2年、ジェラールより10年長生きしたとはいえ、共にその若い死が惜しまれる。しかし、共に老年などありえない、そういう生だったとも言える。そして、レコードや、映画といったものが、彼らの気品のかけらであれとどめてくれていることをありがたいと思わざるを得ない——そのかけらですら、これほど心をゆすぶるのだから。

 

KAAT「星の王子さま - サン=テグジュペリからの手紙-」
世界的にマルチな活躍をしている森山開次の演出・振付・出演による大型ダンス作品。美術と衣装は、日比野克彦とひびのこづえ夫妻。2023年2月4・5日 びわ湖ホール

Dance Marché vol.10 Dance Performance ダンサー育成プロジェクト第5弾「星の王子さま」
カンパニー「ダンス・マルシェ」を主宰するコンポラリーダンスの旗手、池上直子が『星の王子さま』創作ダンスを発表。王子役はローザンヌコンクールの覇者、二山治雄、パイロット役は振付家としても知られる宝満直也で、他にキツネなどを若手6人が受け持つ。池上によれば、二山と宝満は、正にはまり役の二人が奇跡的に日本に居合わせたとのこと。
2022年4月27・28日、東京品川スクエア荏原

  • 武田雅子 大阪樟蔭女子大学英文科名誉教授。京都大学国文科および米文科卒業。学士論文、修士論文の時から、女性詩人ディキンスンの研究および普及に取り組む。アマスト大学、ハーバード大学などで在外研修も。定年退職後、再び大学1年生として、ランドスケープのクラスをマサチューセッツ大学で1年間受講。アメリカや日本で詩の朗読会を多数開催、文学をめぐっての自主講座を主宰。著書にIn Search of Emily–Journeys from Japan to Amherst:Quale Press (2005アメリカ)、『エミリの詩の家ーアマストで暮らして』編集工房ノア(1996)、 『英語で読むこどもの本』創元社(1996)ほか。映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』(2016)では字幕監修。