【ポエトリーの小窓】その22「香り立つ文学」 文・武田雅子

香り漂う本

手元にある10冊の、美しい本たちの最初の1冊に出会ったのはいつのことだろう。序文の日付には、1992年あたりが多いのだが、一番古いのは1987年だった。だから、私の出会いはそれからしばらくしてだろう、アメリカに出るたびに、同じ造りの違う本を見つけては、足していって、いつしかシリーズのように、これだけたまったのである。詩や小説の一節と、それに見合った全カラーの風景や花と人の絵が、厚くてツヤのある上質紙に印刷されている。そしてその頁からは、ほのかな香りが漂ってくる。そう、これらは香りをまとった本なのである。それもそのはず、これらすべて、ロンドンの1870年創業の香水会社の老舗、Penharigon(ペンハリガン)の社長Sheila Pickles(シーラ・ピックルズ)の編になるものである。

それらは、まず四季シリーズ――Morning Glory, Summer’s Cup, Forest’s Robe, The Winter Garden(順に、朝顔、夏のカップ、森の上着、冬の庭)、そのほかにThe Complete Language of Flowers(花言葉全集)、The Fragrant Garden(香りに満ちた庭)、 Love(愛)、Bridal Bouquet(花嫁のブーケ)、これらに比して半分ほどの小型版のA Victorian Posy(ヴィクトリア朝の花束), Christmas(クリスマス)。そして、すべて“Penhaligon‘s Scented Treasury of Verse and Prose”(ペンハリガン刊「香り高い」名詩文集)とタイトルの次に付されていて、「香り高い」と謳われているように、実際にどの本も香りがする。どういった本かというと、例えば、四季シリーズの中から「春」に採られている作品を覗いてみると、31篇の詩と散文が選ばれている。その内訳は――

イギリスからは、まずシェイクスピア。小説家は『ジェイン・エア』のシャーロット・ブロンテ、『高慢と偏見』のオースティン、『フロス河畔の水車小屋』のジョージ・エリオット、『フォーサイト・サガ』『林檎の樹』のゴルズワージー、『テス』『日陰者ジュード』のハーディ、生まれはアメリカで、ヨーロッパに渡り、イギリスで活躍した『デイジー・ミラー』『鳩の翼』のジェイムズ、『チャタレー夫人の恋人』のD.H.ロレンス、小説家や詩人としてのみならず園芸家としても知られるサックヴィルウェスト。

詩人は、16-7世紀からへリック、画家・神秘思想家でもあったブレイク、ロマン派のシェリー、ヴィクトリア朝を代表するロバート・ブラウニング、子どものための詩でも知られるクリスティーナ・ロセッティ、司祭でもあったホプキンズ、20世紀まで生き、軽妙な詩で愛されたベロック。

アメリカからは、『トム・ソーヤの冒険』のトゥエイン、批評家で作家でもあったハウエルズ。フランスからも、『女の一生』のモーパッサン、子ども時代の回想記がマルセルものとして映画化されたマルセル・パニョル、中国からも(名のある詩人のものではないが)一人入っている――こうして中国か日本をアンソロジーに入れるのは最近の傾向で、日本からもシリーズのどこかに採用されている。さらには、首相にまでなった政治家のディーズレーリも入っている。

そして、非常にイギリス的だと思われるのが、フローラ・トンプソンとパントン夫人が入っていること。イギリス人には愛される作家たちであるが、マイナーで、日本ではほとんど知られていず、前者の場合、ヴィクトリア朝の農村生活を描いた『ラークライズ』とその続編がようやく2020年に訳が出たのだった(石田英子訳、朔北社)https://amzn.to/3wk3577

絵の方は、モネや、それよりはマイナーなワッツや、なんと日本の巴水(最初Hasuiとあって、誰のことかと思ったが、絵——と言うより版画——を見て川瀬巴水だと気づいた。これを中国の詩と合わせてあるのがご愛敬)もあるが、多くは群小画家のものである。

それぞれが、それに見合った絵と共に紹介されている。絵と詩がマッチしていることがこの本の醍醐味なので、名画であるというより、二つの響き合いを重んじたため、ごく身近な作品が選ばれることになったのだろう。

散文と詩をひとつずつ

では、取り上げてある作品を散文から一つ、詩も一つ上げてみよう。

シャーロット・ブロンテ作『ジェイン・エア』から、主人公ジェインが、少女の頃追いやられたロックウッドの孤児院での思い出を語る個所で、つらい日々を送っていた時に、いかに春が待たれたかが伺える、生き生きと美しい自然描写である。

…sometimes on a sunny day it began even to be pleasant and genial, and a greenness grew over those brown beds, which, freshening daily, suggested the thought that Hope traversed them at night, and left each morning brighter traces of her steps. Flowers peeped out among the leaves: snowdrops, crocuses, purple auriculas, and golden-eyed pansies. On Thursday afternoons (half-holidays) we now took walks, and found still sweeter flowers opening by the wayside under the hedges.

April advanced to May – a bright serene May it was; days of blue sky, placid sunshine, and soft western or southern gales filled up its duration.  And now vegetation matured with vigour. Lowood shook loose its tresses; it became all green, all flowers; its great elm, ash,. and oak skeletons were restored to majestic life; woodland plants sprang up profusely in its recesses; unnumbered varieties of moss filled its hollows, and it made a strange ground-sunshine out of the wealth of its wild primrose plants: I have seen their pale gold gleam in overshadowed spots like scatterings of the sweetest lustre.

時々、日のよく照る日などは、楽しくてうっとりするようにさえなりはじめ、褐色の花床に緑色のものが芽をだし、日ごとにあざやかになって、夜のうちに「希望」がそこを横ぎり、朝ごとにそのかがやかしい足跡を残しているようにも思われた。スノードロップ、クロッカス、紫のあつば桜草、黄金色の目をした三色すみれなどと、花々が葉のあいだから顔をのぞかせた。木曜日の午後(半休)には散歩にでて、もっときれいな花が、道端の垣根のかげに咲いているのを知った。

四月から五月になった。かがやかしく晴朗な五月だった。青い空と静穏な陽光と、やわらかな西風や南風との日々が、その一か月をみたした。いま、草木は勢いよく生長し、ロウウッドはその蓬髪をときほぐした。あたりいちめん緑で、花ばかりとなり、大きな楡やとねりこや樫の枯骨には、壮麗な生気がよみがえった。森の奥では、草花がおびただしく芽を出した。数知れぬほどさまざまのこけが、そのくぼ地をおおいつくし、あふれるほどに咲きみだれた野生の桜草は、あやしくも地上の太陽であるかに思わせた。そのあわい金色が、森かげの場所で、いいようもなく美しい光をまき散らしたようであった。

[阿部知二訳、河出書房新社]

詩の方は、ロバート・ブラウニング作 “Home-Thoughts, from Abroad”(異国より故国を思う)

O to be in England
Now that April’ there,
And whoever wakes in England
Sees, some morning, unaware,
That the lowest boughs and the brushwood sheaf
Round the elm-tree bole are in tiny leaf,
While the chaffinch stings on the orchard bough
In England – now!

And after April, when May follows,
And the whitethroat builds, and all the swallows!
Hark, where my blossom’d pear-tree in the hedge
Leans to the field and scatters on the clover
Blossoms and dewdrops – at the bent spray’s edge –
That’s the wise thrush; he sings each song twice over.

Lest you should think he never could recapture
The first fine careless rapture!
And though the fields look rough with hoary dew,
All will be gay when noontide wakes anew
The buttercups, the little children’s dower
Far brighter than this gaudy melon flower!

ああ、いま英国にいるなら
時あたかも春四月、
朝目覚めると、ゆくりなくも
知るだろう、
楡(にれ)の木立(こだち)の幹をめぐる下枝や
小枝の茂みに若葉萌え、
果樹園の枝の上では、鶸(ひわ)が囀(さえず)るのを
いま――英国で!

四月も終わり、五月ともなれば、
鶯(うぐいす)や燕(つばめ)、みな巣をつくる。
耳をすましてごらん、生け垣に咲く我が家の梨の花が
畑に身を傾げてクローバーの上に撒(ま)き散らす
花びらや露の滴(しずく)の音が聞こえるよ――あれは撓(たわ)む小枝の先でーー
賢(さか)しらな鶫(つぐみ)が繰り返し歌う歌声。

さりげなく歌う最初の美妙な調べを
二度目にはうたえぬと思われぬように!
野辺は露に濡(ぬ)れて殺風景に見えるが、
真昼時ともなれば、あたり一面華やかになるだろう。
子どもたちのお気に入りの金鳳花(きんぽうげ)
――それは色鮮(あざ)やかなメロンの花よりもさらに美しい!

[富士川義之訳 岩波文庫『対訳ブラウニング詩集』]

韻は、ababccdd/eefgfghhiijj
1連3行目:whoever wakes in England  「英国で目覚める人は誰でも」これが主語で動詞は4行目のSees。目的語は5行目のThat 以下leafまで。
2連6行目:the “wise” thrushというのは、2度同じ節を歌うので、それが利口ぶっているようだという。
3連1行目:Lest―should~ ―が~しないように
5行目:The buttercups  次のthe little children’s dowerと同格。

この詩は、イタリアで故郷イギリスを思ってうたったもの。イタリアに育つあざやかで派手なメロンの花といえども、故郷の素朴な金鳳花の方が美しいと、イギリス人の自分には思えるというのである。この詩は、明治・大正の詩人、薄田泣菫に「ああ大和にしあらましかば」を書かせた。もっとも、最初の行に触発されただけで、内容的には全く違ったものであり、病を得て、郷里の倉敷にいたが、しきりに奈良が思われるという作品である。

この詩から一節、全体の3分の1を引用するが、高校の教科書で出会った時、ルビだらけに戸惑いつつも、その華麗な日本語に胸打ち震えたものである――

ああ、大和(やまと)にしあらましかば、
いま神無月(かみなづき)、
うは葉散り透く(すく)神無備(かむなび)の森の小路(こみち)を、
あかつき露に髪濡れて、往(ゆ)きこそかよへ、
斑鳩(いかるが)へ。平群(へぐり)のおほ野、高草の
黄金(こがね)の海とゆらゆる日、
塵(ちり)居(い)の窓のうは白(しら)み、日ざしの淡(あは)に、
いにし代の珍(うづ)の御経(みきやう)の黄金(こがね)文字(もじ)、
百済(くだら)緒(を)琴(ごと)に、斎(いは)ひ甕(べ)、彩画(だみえ)の壁に
見ぞ恍(ほ)くる柱かくれのたたずまひ、
常(とこ)花(はな)かざす芸の宮、斎(いみ)殿(どの)深(ふか)に、
焚(た)きくゆる香(か)ぞ、さながらの八(や)塩(しほ)折(をり)
美酒(うまき)の甕(みか)のまどはしに、
さこそは酔(ゑ)はめ、

本を作った人

本を作ったシーラ・ピックルズは、1960年代、映画監督(オリビア・ハッセーの「ロミオとジュリエット」が知られる)・脚本家・オペラ演出家として知られ、また政治家でもあったFranco Zeffirelli(フランコ・ゼフィレリ)と共に仕事をし、劇場・映画・オペラに目を開かされたという。そして当時落ち目になりかかっていた香水会社ペンハリガンを1975年に引き受けたのも、ゼフィレリのアドバイスによるものだった。自身も新しい香水を作り、パッケージデザインもして、社を盛り立てた。上記のような本の出版後、宝石の方に活動を移したようだ。いつのことだったか、ロンドンに行った時、ペンハリガンの店を見つけたが、店内に本は見つからず、店員に出版について聞いたら、もう今は出していないとのことだった。

さて、私の手元には、もう1冊彼女の本がある。“The Essence of English Life”(イギリス生活のエッセンス)と題されて、春夏秋冬の四季を巡り、ヨークシャーの年中行事、家の外の庭仕事、家の中の台所仕事をいつくしみを込めて綴っていく。全巻にちりばめられた、季節を追う写真が美しい。「憧れのイギリス」満載といったところ。上記シリーズは、すべて絵で、詩歌を集めた彼女の個性が伺えるというものの、直接的なものではない。それからしたらこちらは、まさに彼女の思い出、そして今が語られている。この本も彼女の本とは知らずふっと見つけたと思うのだが、上記シリーズと共に、二つ揃ってこそ彼女の世界なので、出会えてよかったなと思う。

そして、こんなことも考える。「憧れのイギリス」というけれど、クール・ジャパンとか言われて、日本にもステキなものがいっぱいある。彼女のような本の日本版ができないものか、

「憧れの日本」――美しい四季、その四季を反映した部屋の室礼(しつらい)、伝統工芸の食器類、昔ながらの素朴な台所用具、一方で、最近のデザイナーによる、新しいけれど、しっかり伝統も踏まえた日常道具などなど――それらを英語で紹介するのはどうだろうか。

ペンハリガン社「ポートレート」コレクションのあやしげな人たち

ペンハリガン社の香水は、日本にもデパートなどにコーナーがあって、発売されているが、コロナで縮小した感があり、現在元に戻っているのだろうか。以前に出ていた、楽しいパンフレットを持っていた人がいて、コピーさせていただいた。それは “An Olfactory Fiction”(鼻で嗅ぐフィクション)と名付けられ、「香りが語る人間模様。イギリス上流階級の人々の秘密」と、何やらあやしげで心惹かれる。

Portraits(ポートレート)という香水のシリーズで、香り一つ一つに人物を当てはめていったもの。逆に、彼らに言わせるとこうなる――「個性あふれる登場人物一人ひとりが香りになりました。イギリスの上流階級で、礼儀正しく丁寧に振る舞う彼らは、その印象通りの人物でしょうか?『ポートレート』は、保守的でありながら、ユーモアにあふれ、挑発的なイギリス人のスピリットにオマージュを捧げるコレクションです。」

例えば、ジョージ卿は「伝統を重んじる権威あふれるイギリス人紳士。自分の考えを悟らせない主義」と紹介され、The Tragedy of Lord George(ジョージ卿の悲劇)と題されたその香りは「かすかにお酒の香りを感じさせるエレガントな香り。名声を残すような男性のためのフレグランス」とのことである。

このジョージ卿には愛人がいる、Clandestine Clara (秘密の女クララ)で、「仕事を持ち、車を運転し、タバコをくゆらす自由奔放で魅惑的な女性」、その香りは「自信に満ち溢れた。官能性、自由さ、好感、魅力をすべて備えた、人生を謳歌するフレグランス」である。他にHeartless Helen(残酷なヘレン)とTerrible Teddy(悪い男テディ)のカップルもいて、総勢12名(クララから、キャッチフレーズと名前の最初の音が韻を踏んでいることにご注意)。これだけで、何か物語が広がっていきそうな気配。これらの香水をつける時は、それなりの覚悟がいるようだが、物語を楽しむ遊び心も必要だろう。こうして、同社では、文学的香りは形を変えて、漂い続けているということなのだろうか。

香りを聞く――日本の香道

さて、日本で香りと文学のつながりと言えば、なんといっても香道がある。私は、かなり以前から関心を持っていたように思われる。一日講座にあちこちで参加した資料が出てきて自分でも驚いたからである。だが体験してみると、この香りは先ほどの香りと同じか違うかといったクイズのような当てものといった趣で、何か違うなと思いながら、いろいろ行ってみたらしい。かといって、茶道や華道のように教室が出会いやすい形であるわけでもなく、敷居が高いように思われて、どこかの門をたたくというのもためらわれた。こういうものはご縁がなければなかなか踏み出せるものではない。

この時から、ずっとあとになって、中国茶のお稽古で出会った友達に導かれて、香道のお稽古に通うようになった。しばらくして、先生が「私が香道が好きなのは有職故実があるから」とおっしゃった時、納得した。香道には、茶道のようにお点前もあるし、一日講座であったように、当たる・当たらないのゲームの要素もある。そして、有職故実――いろいろな物語や和歌と結びついてもいる。

一つの香りを聞く(香道では香りをかぐとか匂うと言わず、香りの語ることに耳をそばだてるという意味で「聞く」という)だけのこともあるが、たいては組香と言って、いくつかの香木の香りを聞き、ゲームをする、それが有職故実と結びついているのである。次に、組香の中でもわかりやすい例をとりあげて、ゲームの仕方を眺めた後、さらにどのような有職故実とのかかわりがあるのかみてみよう。

「紅梅香」という組香――景色の中で

それぞれの組香には必ず名前が付けられていて、これは「紅梅香」と名付けられたものである。まず一つの香りを聞く。これを「白梅」とする(といういい方をしたのは「白梅」という香りがあるわけではなく、組香をする人が、自分の持っているものから、今日は一つを「白梅」と決めるということである)。

さて、炷かれた香木の入った香炉が客に回ってきて、客は「白梅」とされたこの香りを聞き、しっかり覚える。と、これがなかなか難しい。色なら、青、さらに黄味がかった青だの、紫に近い青というふうに、自分で判断して心覚えできるが、香りはせいぜい、甘い、辛い、酸っぱいとか、○○のようというくらいしか表現のしようがない。ワインのソムリエが「枯草のよう」とかいうたぐいである。ここが難しいが、また面白く奥深いところでもある。白洲正子さんは、香りを能の登場人物に当てはめて考えられたというが、そういう手掛かりのない身には羨ましい限りである。

さて、ここからゲームが始まる。まず三つの香りを聞く。うち二つは先ほど聞いた「白梅」で、もう一つそれとは違う香り、「紅梅」と名付けられたものがどこかにひそんでいる。どこかにと言ったが、可能性としては、出てくる香りは全部で三つあるのだから、一番先に出るか、真ん中で出るか、最後かである。それで、三つ聞いて、「紅梅」がどこに出たか、自分で判断して答え、各人が一枚もらった記紙という紙に自分の答えを書く。それは、最初、真ん中、最後と答えてもいいだろうし、いっそ1,2,3でいい。しかし、そうしないのが香道である。

ここで、山中に紅梅を訪ねる風情を想起する。昔、白梅は多くあったが、紅梅はそう多くはなく、一山に一本とも言われた。そこで、その珍しい紅梅を求めて出かけるというわけである。下の方から探していくのだが、出かけてみると、早くも山の麓で見つかった。やっと山の中腹で見つかった、どうしてなかなか見つからずやっと山頂に至って見つかったと3通りが考えられる――これが、先ほどの1,2,3にあたり、記紙に記すときは「麓」または「山腹」または「いただき」と書くのである。

それから答え合わせをするのだが、実は、答えが合った、合わなかったというより、香りを聞くことで一つの風景が呼び覚まされ、香りの中でたゆたうそういう時を、この場の座の人と共に持った――ということが、この日、香りを聞いた意味になるのである。

ここで組香を組む側からすれば、白梅と紅梅の二つ、全く違った傾向の香り二つを選べば、当てるのはやさしくなり、よく似た二つにすると、区別はかなり難しくなる――というふうにゲームとしての工夫もこらすことができる。

それから、今まで述べてきたのは、本来の「紅梅香」の簡略版で、本来の形としては、白梅を聞いた後、手元に白梅とされる三つと紅梅とされる一つをシャッフルして、そのうち三つを選んで炷く。そもそも香木は、香包という紙に包まれているので、外から見てもわからないし、さらにシャッフルされてランダムになるので、炷く側も含めて、もう誰もどれが紅梅かわからない。香包にはどんな香木が入っていたか、組香を作った人が記していて(しかしその本人も見ない限り分からない)、それが答えというわけで、あとでそれを照合して、答え合わせをする。

それに、可能性としては、一つだけあった紅梅が除かれ、結局残った三つはすべて白梅というケースもありうる。その時は「雨水」と答える。これは二十四節気の一つで、立春は必ず雨水の直前に来るので、もう春ですねぇという気分と、雨で梅を探しに行けなかったということを示す。と、あくまで探梅の風景を心に描くのである。このことで明らかなように、香道では、他の日本文化と同じく、季節が重要な位置を占める。そこで、この「紅梅香」は二月にしか行なわれない。

さて、紅梅は華やかで美しく、白梅はひそやか、紅梅は色を楽しみ、白梅は香りを楽しむとされた。俳句は普通は香道に入らないとされるが、探梅は冬の季語、観梅は春の季語である、という基本を押さえたうえで、紅梅香を巡る有職故実を紐解いてみよう。

「紅梅香」の有職故実

奥州の安倍一族の内、貞任は前九年の役で敗れ殺害されたが、弟宗任は降伏したので、捕えられ京都に連れてこられた。京都の公家は、彼の田舎ぶりをからかって、梅を見せ、これを何というかと問うた。彼はそれに歌で答えた――「我が国の梅の花と見つれども 大宮人は何と言ふらむ」。このエピソードを踏まえた「梅の花大宮人は紅葉なり」という川柳がある。からかったつもりが一本取られた恥ずかしさに公家たちは頬を赤らめたというのである。

また梅は「好文木」という別名を持つ。中国の晋の武帝が学問に励んでいる時は梅の花が開き、怠るとしおれ散ったという故事より「みかど文を好み給ひければ開き、学問を怠り給へば散りしおれる梅はありける」と言われたことに由来する。この「好文木」から、梅で知られる水戸の偕楽園には、斉昭公の「好文亭」という名の別荘がある。

和歌と結びついた組香、さらに…

そして、こうした組香は、千種ほどあると言われていて、和歌とゲームが見事に結びついているケースも多い。またちょっとひねって、こんな例もある。「山路香」においては、ゲームがすんだのち、香木の炷きガラを、今一度香包に包み直して、シャッフルして炷く。それは、この組香が「ゆきやらで山路くらしつほととぎす 今一声の聞かまほしさしさに」(ほととぎすの美しい声を聞いた。その後もう一度聞きたいと願うばかりに一日訪ね歩いてしまった)という和歌に拠っているからで、この「今一声の」に倣って、もう一度炷くのである。

また「小鳥香」という組香では、4つの香木が出てくるが、1番目と2番目が同じだと「ずく」、1と3なら「も」、2と3なら「かぎ」などといったふうに答える。濁点はないものとして、同じ音を持つ鳥の名前を当てはめたのである。みな違ったら、「うぐいす」である。5つの香木を焚き、「ほぎす」「みそい」などを当てはめるのもある。つくづくよく出来ていると感心させられる。

『源氏物語』とお香

さて、組香というと多くの人が「源氏香」の名を挙げる。これは5種の香りを聞くもので、全部で52通りの答えがありうるので、『源氏物語』の54帖の最初と終わりの二つを省いて、各帖の名が付される。この香図そのものがデザイン的に美しく、着物の柄や身の回りの品々に取り入れられている。しかし、この源氏香図は知られている割には、結構香道のお稽古を進めていないと、なぜその形になっているのか、いかにして物語の帖の名とつながるのか、文字だけの説明では納得しがたいと思われる。それで、源氏の中の「宇治十帖」の登場人物、香と匂に話を移そう。

小学3年生の頃だったと思う、国語のクラスで先生が「『香る』と『匂う』はどう違うか」と尋ねられた。誰も答えられなかった。「匂う」はいい匂いの時も悪い時も使うけれど、「香る」はいい時だけと、先生が説明された時、なるほどと腑に落ちた。それは今でもこうして鮮やかに覚えているほど、言葉の面白さとの印象的な出会いだった。そしてのちになって、『源氏』の「宇治十帖」において、光源氏の子どもや孫が薫と匂と名付けられていることを知った時の驚き――薫は品行方正で徳高いが、どこかちょっと近寄りがたく、それに比して匂は、人間的、しかし清濁併せ呑むゆえにプレーボーイでもあるという設定にうなったものだった。それにそもそも薫は、身体から香りが漂うという体質の持ち主だった。これに匂は香りを焚きしめて対抗し、これが恋のさや当てに絡んでくるというのも絶妙な取り合わせ。そして、光源氏の時は光というはっきりした視覚的なものだったのだが、時代が下るとより掴みがたく、移ろいやすい嗅覚へと変化し、物語そのものの力も陰りが見えるという移り変わりも面白い。

それから、『源氏物語』においては、「梅枝」の帖で、香りを調合する場面が出てくることも忘れてはならない。もっとも、これは香道のように木の細片を炷くのではなく、香りの粉を混ぜ合わせる薫物(たきもの)である。

滅びの美学かはたまた……

香道に使う香木は、すべて外国産(主に東南アジア)で、最近とみに少なくなっている。香道ではミリ単位で切って使うのだが、アラブや中国のお金持ちは、大量に買い貯め一気に燃やす。香木の中で一番とされている伽羅など、驚くべき値段になっていて、手が届きにくい。お道具も、習う人が少ないので現代の作家が手掛けることは少なく、勢い骨董屋さんにある過去のお道具の価格が吊り上がるばかり。という状況で、庶民は細々とお稽古を続けるしかない。

一方で、さる家元が、あまり多くの人が習わなくてもいい、広まらなくてもいいとおっしゃるのを聞いたことがあるが、要するに経済力があり、かつ教養高い人のたしなむものだということである。香木の少なさといい、きっぱりとしたお家元のこの判断といい、私は香道というのは滅びの美学だと思ったことだった。それにしてはあまりにも惜しい、こんなにも細やかに文学と結びついているのにと。

一つの流派のお稽古に通う今でも、香道を広く知りたくて、他の流派の催しがあると出かける。最近参加した一日講座で、その先生が男子校で一日教えられた体験を話された。

香道では最後の挨拶を「これにて香は満ちましてございます」(と、流派によって多少表現は違うが)で結ぶ(これには、諸説あって、部屋が香の香りに満ちたからだとか、潮が満ちたと同じ使い方であるなど言われている)。それを聞いて、男の子たちからこんな声が上がったという――「それ気に入った。きょうの最後、学校を出る時、お互いの挨拶にそれ使っていい?」 なんとステキな話を伺ったのだろうとうれしくなった。ささやかであれ、こうして日本人のDNAは受け継がれていくのかもしれないと。

さて、私の先生がおっしゃったことだが、香道は、茶道や華道といった芸道とは違って、遊芸であるということ。それで前者二つのように精神修養をいわないとされる。とはいえ、さる家元は若き時に、僧侶について修行され、自然の中で感覚を研ぎ澄ます修練を経られたというし、香りに導かれ、風景を心に描くというのは、この時間に追われるあわただしい現代においては、自分と向かい合う貴重なひと時であると思われる。

[香道に関しての見解は、あくまでも一流派の一学習者のものであることを、お断りしておきたい]

ブラインド・ブックと香水

最後に、最近知った「文学と香り」のことを。

テレビBSの番組「チャン・ドンゴンと行く世界“夢の本屋”紀行」の中で、韓国の小さな本屋が紹介されていた。「ブラインド・ブック」と名付けられているように、そのコーナーに並んだ本は、皆同じ地味なベージュの紙ですっぽり包まれていて、タイトルすらわからないし、どんなたたずまいのジャケットかもわからない。ただ、中身を表すキーワードがいくつか書かれている。それだけを手掛かりに、自分の読みたい本を選ぶのである。いや、もう一つ手掛かりはある――本のイメージの香水が調合されてその香りがするというのである。

韓国語が読めないので、選びようもなく、まさにブラインド状態だけれど、何かしら行ってみたい本屋さん……

(2/20/2024)

*補遺

香りで万象を知る女性:『精霊の守り人』や『鹿の王』で知られる上橋菜穂子氏の新作に『香君』がある。これは「草木や虫、様々な生きものたちが香りで交わしている無数のやり取りをいつも風の中に感じている、そんな少女」香君(こうくん)の物語であるとの作者の弁で、これは読まなくては……。(3/30/2024)

  • 武田雅子 大阪樟蔭女子大学英文科名誉教授。京都大学国文科および米文科卒業。学士論文、修士論文の時から、女性詩人ディキンスンの研究および普及に取り組む。アマスト大学、ハーバード大学などで在外研修も。定年退職後、再び大学1年生として、ランドスケープのクラスをマサチューセッツ大学で1年間受講。アメリカや日本で詩の朗読会を多数開催、文学をめぐっての自主講座を主宰。著書にIn Search of Emily–Journeys from Japan to Amherst:Quale Press (2005アメリカ)、『エミリの詩の家ーアマストで暮らして』編集工房ノア(1996)、 『英語で読むこどもの本』創元社(1996)ほか。映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』(2016)では字幕監修。

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