チャンド・バオリの階段(2017年撮影, アーバーネリー, インド)

 

「アーバーネリーのチャンド・バオリの階段」

文・写真 下坂浩和

人は水がなければ生きることができません。はじめは川や泉で水を汲んだのでしょうが、定住生活が始まると、住まいの近くに井戸を掘って水を得るようになりました。水がなければ生きられないのは他の動物も同じですが、井戸を掘ることができたのは人間だけでした。

日本では、井戸といえば地面を竪に掘った深い穴が一般的です。最も古いものは聖徳太子が掘ったと伝えられているようですが、同様の井戸はヨーロッパでも古くからつくられていました。鑿井技術が進化した現代では、細い管を地面に突き刺すようにして井戸をつくることができますが、近代以前には人が穴の中に入って掘り進み、円筒状に石を積んで側壁が内側に崩れるのを防ぎました。しかし、このような井戸のつくり方は世界中どこも同じというわけではないようです。

インドには、水を汲みに降りる階段がついた大掛かりな井戸がたくさんあります。井戸の形が異なる理由はいくつか考えられますが、インドには乾季の雨量が極端に少ない地域があるので、そのような地域では雨季に降った雨をなるべくたくさん貯めることができる溜池のような井戸がつくられたというのが定説のようです。ほかには、土質の違いや、深い井戸を彫る技術がなかったことなども考えられます。崩れやすい土では竪に深い穴は掘りにくく、深く掘るには緩い傾斜で広く掘らなくてはなりません。

インド西部のラージャスターン州は、内陸で河川にも乏しく、乾燥した大地が広がっているため、このような階段井戸がいくつもつくられました。どれも窪地の側面が崩れないように切り石が積み上げられ、中には装飾が施された石造建築として興味深いものもあります。

今回ご紹介するのはジャイプールの街から約95キロ東に位置するアーバーネリーという小さな村にある階段井戸です。9世紀以降につくられたとされるこの井戸は、上空から見ると一辺約35メートル、深さ20メートルほどのほぼ正方形の窪んだ逆ピラミッド型の穴で、エジプトやメキシコのピラミッドがそうであるようにその方位は正確に東西南北に面しています。

窪んだ正方形の北面には、地下に四層分の部屋がテラス状に積み重なった宮殿のようなつくりになっていますが、東、南、西の三面は壁面がすべて階段でできているのです。しかも、まっすぐ下りるすり鉢状の階段ではなく、何度も折り返しながら下りる急な階段で、インドでも最も迫力のある階段井戸のひとつです。もっとも、降った雨を集めてたっぷり貯めることができる井戸といっても、地面近くまで満水になった写真などは見たことがありません。

この階段井戸を初めて見たのは1996年に出版された「インド建築案内」(神谷武夫著・写真, TOTO出版)の写真だったと思いますが、今では一般向けの旅行ガイドにも紹介されています。それでも、いわゆる観光名所というわけではなく、交通機関も整備されていないので、見に行くのは容易ではありません。

ジャイプールのホテルでガイドと運転手を紹介してもらって、約2時間の車移動でチャンド・バオリまで案内してもらいました。周囲に巡らされた回廊の中に入ると圧倒的な情景が眼前に広がっています。しかし井戸のまわりには柵がしてあるので、階段を下りることはできません。「インド建築案内」の写真には柵がないので以前は下りていけたようですが、今では近づけないので階段の寸法を測ることもできません。

この本に載っている図面を頼りに計算してみると、踏面30センチ、蹴上げ28センチ、幅60センチ程度の階段です。階段にはつかまる手摺がないので、足を踏み外すと一番下まで落っこちそうな危なっかしい階段です。それでもこの階段には反復の美しさが感じられます。ミニマルアートなどに見られる繰り返しやミニマルミュージックの純粋なリズムの美学です。もっとも、この階段をつくった当時の人々は20世紀美学のことは知らなかったはずですが、それでもこの造形を美しいと感じたのでしょうか。

訪れたのは乾季の12月でしたが、下を覗き込むと、全体は水平の通路で13層に区切られていているのが見えます。ほぼ真ん中の上から7層目だけは水平通路の幅が他よりも広めで、現在はそこにも柵が取り付けられています。各層は階段7段の反復で、これを1セットとすると、地面に近い最上層には東南西の各辺に16セット、その下は14セット、と下りるにつれて階段の数が少なくなり、最下層では南面は4セット、東西面は3セットずつになります。13層下りるのに必要な段数は90段ほどですが、この井戸全体の段数は2,000段以上になります。

下り階段がたくさんあるということは何人かが同時に水を汲みに下りて行っても、上がってくる人とすれ違うことや、疲れて立ち止まった人を追い越すことができます。上と下とで階段の数が同じで、幅の合計が一定ならば渋滞、壁面全体を階段で覆い尽くす必要はあったのでしょうか。それでも、水位が高くなるとそれだけ多くの階段から同時に水を汲むことができるので、やはりこの階段の形は合理的に設計されたものだと考えることもできます。

階段は高いところに上るためにつくられることが多いと思いますが、この階段井戸の場合はどうでしょうか。水を汲みに下りるための階段に見えるかもしれませんが、本当の目的はやはり水を汲んで上ることなのです。この階段を、水を持って上がるのはさぞかし大変だったと思いますが、ひょっとすると、北面のテラスはこの舞台で繰り広げられる儀式を眺めるための場所だったのかも知れません。

(2022年6月14日)

  • 下坂浩和(建築家・日建設計) 1965年大阪生まれ。1990年ワシントン大学留学の後、1991年神戸大学大学院修了と同時に日建設計に入社。担当した主な建物は「W 大阪」(2020年)、「六甲中学校・高等学校本館」(2013年)、「龍谷ミュージアム」(2010年)、「宇治市源氏物語ミュージアム」(1998年)ほか。