第1回のインタビューでは、尾崎織女さんに著書『世界の民芸玩具 日本玩具博物館コレクション』(大福書林)について、第2回は「日本玩具博物館」のあらましや成り立ちについてお話いただきました。今回は、約30年にわたって玩具や人形の収集、研究を行なうなか、尾崎さんご自身が感じたことを中心にうかがっていきます。たとえば、1995年の阪神淡路大震災のとき、人形たちは……。(丸黄うりほ)
文化財としておもちゃの価値を上げていくような活動を
——尾崎さんが「日本玩具博物館」の学芸員になられたきっかけは?
尾崎織女さん(以下、尾崎) 私が当館にお世話になることになったのは1990年で、「日本玩具博物館」が15周年を迎えた明くる年でした。15周年の記念式典で、井上館長が「資料整理を行い、社会教育活動が展開できる公的な施設を目指したい。そのために学芸員を採用して、博物館活動の充実に努めたい」と話されていたよと、式典に参加していた知人から伝え聞きました。それで「ボランティアで何かお手伝いさせてもらえませんか」と井上館長を訪ねました。
当時、私は大阪で海外子女や帰国子女の教育支援事業を行う団体に勤務していたのですが、地元に腰を落ち着けて地域文化に関わる仕事をしたいと思っていましたし、何より、モノと人が集う博物館という施設が好きでしたので、「土日だけでも学芸的な仕事のお手伝いをさせていただけませんか」と申し出たんです。私は博物館での勤務経験がありませんし、おもちゃについて専門的に学んだ者でもないので、即戦力になどならないでしょうけれど、勉強しながら務めさせてもらえたら……と。
その頃は来館者数がどんどん伸びていました。姫路市との合併前の香寺町は人口2万人。その小さな町にある博物館に、年間6万人も7万人もが来てくださっていました。井上館長夫妻とパートスタッフが、清掃も受付も売店対応も展示案内も資料受け入れもすべてをこなしているといった勤務体制でしたから、土日ともなれば、来館者応対に追われ、席に着く暇もなく、あっという間に一日が過ぎていくようなことでした。
そうこうするうち、「平日であれば少しは所蔵資料の整理や展示企画にも取り組むことができるだろうし、週に3、4日のペースで勤めてもらえませんか」と館長が提案してくれました。玩具文化をテーマにした博物館活動に夢を感じていましたし、20年先、30年先に自分の言葉でひとつの文化を語れるような人になっていたいと目標を定めていましたので、大阪での仕事も非常にやりがいのあるものだったのですが、退職をしてこちらに勤めることに決めました。
常勤の学芸員になったのは1992年の春です。そのころから海外展を含めて、貸し出し展や移動展がどんどん増えていきましたし、館内では年間8回の企画展開催や伝承玩具教室の充実などを図っていましたので、朝から夜遅くまで、モノと人との間に立って大奮闘の日々だったとふり返ります。
——学芸員は尾崎さんが初代ですか?
尾崎 はい。初代の「おしかけ学芸員」なんです(笑)。
学芸員はモノと人の間に立つ人……仕事は多岐にわたる
尾崎 博物館というと、来館者が展示を見て楽しむ、体験をして学ぶという部分に注目が集まりがちですが、一つ目の大きな役割は資料を収集して将来に伝えていくことなんですね。いま、世の中が刹那的になってきていて、現在生きている自分たちのためになることにばかりに目を向けがちなんですけれど、博物館資料はいまの私たちのものでもあると同時に、50年先、100年先に生きている人たちのものでもあるんです。令和2年製、550円のプラスチック玩具であっても、それが博物館資料として登録された以上、未来へ伝えるべき宝物になります。
博物館の二つ目の働きは、展示活動を通して所蔵資料が語る世界、その価値や意味を多くの方々に伝えること、そして、その理解や感動を深めていただくために、講座やワークショップや講演会などを計画します。それらすべての活動を支えるのが調査・研究活動です。
つまり、博物館活動の柱は、収集・保存、調査・研究、そして展示・普及ということになるかと思います。どのような分野を扱う博物館でも、どのような経営母体の施設でも、これらの多岐にわたる活動を充実させようと懸命に取り組んでいて、けれども、その屋台骨として研鑽をつみ、奮闘している学芸員たちの仕事について、社会的な理解があるとはいえない現状です。立派な館の学芸員が政治家に批判されたり……ということもありましたね。
学芸員というのはモノと人の間に立つ人です。モノを理解するために研究し、同時に展示を通してどんなふうに伝えていくかを考えるためにも、社会や人についても学ばなければなりません。そこに学芸員の専門性があると思います。そのバランスをうまく保てないと博物館活動の充実は図れない。そのために、学芸員には、研究者的な面、職人的な面、美的なセンス、社会教育者的な面、サービスマン的な面、ネットワークをつくる人間力……と、いろいろな能力が要求されるのですが、私などはいつまで経っても理想像には近づけないので、日々、コツコツ頑張らないと!
——学芸員の役割というのはとても大きなものですね。
尾崎 先ほど、貸し出し展や移動展の依頼がどんどん入ってきていたとお話ししましたが、1990年代初めのころは、展示会場は遊園地などの特設テントで床はアスファルト、そこにキャスターつきの展示ケースが並んでいる、というようなことも少なくありませんでした。私の方は美術品と同じように一点一点を薄用紙や綿布団などを用いて梱包して会場へ出かけ、アスファルトの上にエアキャップや綿布団を敷き詰めて、梱包を解き、ケース内のおもちゃたちをよりきれいに、グループごとのまとまりをわかりやすく観ていただけるようにと展示作業を進めます。それをご覧になった現場の方々が、「尾崎さんはおもちゃを美術品のように扱うんですね!?」と目を丸くして驚かれたりもしました。
それが徐々に、さまざまな分野の博物館から展示の依頼が増え、たとえば世界の動物玩具の造形的な美しさに光を当てたいという美術館があったり、世界の船のおもちゃを通して、船舶の地域的な違いを観せたいという海洋博物館があったり、おもちゃを通して日本の生活史をふり返りたいので、江戸時代の終わりから昭和時代までの商品玩具の展示をお願いしたいという歴史博物館があったり……と、私たちが望むような依頼がどんどん増えていき、それがとてもうれしくて、どの展示にも大変な労力がかかるのですが、ひとつひとつ、嬉々として、そしていつも必死になって取り組んできました。
——おもちゃはいろんな世界とつながれるのですね!
尾崎 ええ。おもちゃはさまざまな専門分野への架け橋にもなると思うんです。食文化を扱う博物館にままごと道具が展示されれば、一堂に集う小さなキッチンや調理道具を通して、世界各国の食卓が見えてきますし、楽器の博物館に世界各地に伝承される乳幼児のためのがらがらやでんでん太鼓、笛の玩具の展示があれば、玩具と楽器との関係性が立ち上がってきます。そうして玩具博物館は、どんな博物館ともつながりあえるんです。過去30年にわたる私の仕事のなかでは、館外での展示活動が大きな位置を占めていたと思います。それらの活動を通して歴史、美術、民族、自然、科学、動物……など、いろいろな専門分野の学芸員の方々とつながりをもてたことは、私自身の財産になっています。
被災地の神戸からぞくぞくと届いた雛人形たち
——ご自身が経験された博物館活動を通して、特に思い出に残っていることがあれば教えてください。
尾崎 いちばん思い出に残っているのは阪神淡路大震災の年の雛人形や端午の節句人形の引き取り活動です。
1995年1月17日に起こった大地震の後、当館にもそれなりの被害があって、こけしが波打つように倒れ、三次の土人形の首なども壊れたりしました。それらを直しながら、テレビをつけると、ライフラインの復旧に懸命に力をつくしている方々の姿が映し出されました。思い出がつまった阪神間の、大切な友人たちが暮らす町々が苦しんでいるときに、私たちは神戸から遠くない町にあって、ただただ人形を補修している……。博物館は社会において本当に意味のある施設なんだろうか、などと考えながら展示を整える日々が続きました。
やがて、2月、文化庁が兵庫県の教育委員会などと協議して「阪神・淡路大震災文化財等救援委員会」を立ち上げ、文化財レスキューの活動を開始しました。玩具や人形を守る博物館として私たちにも何かできないだろうかと考えていた矢先、神戸市須磨区で被災された、当館の「友の会」所属の女性が、両手にいっぱい雛人形とか雛道具を抱え、「これをなんとかして!」って持ってこられたんですね。ちょうど桃の節句を過ぎた頃でした。
「街路に雛人形や雛道具がいっぱい放置されているんですよ」と、その方はおっしゃる。「玩具博物館が雛人形をひきとる活動をしてくださったら、被災地の方たちは助かると思いますよ。本当に!」って。でも、個人立博物館が大災害のあとに、“お家で持てなくなった雛人形や武者飾りを引き取ります”なんて呼びかけをしてもいいのだろうか……という戸惑いがありました。それで、館長から新聞社の方に相談してみたところ、「きっと喜ばれると思います。そのことで被災された方々の気持ちを傷つけるようなことはありませんよ」とアドバイスしてくださり、まもなく、新聞各紙に当館からの呼びかけが掲載されました。4月中旬のことでした。
そうしたら……、トラックで運んでこられる方とか、段ボールに入れて送ってくださる方とか……。忘れられないのが、段ボールをあけると土まみれのお雛さんが出てきたことです……。毎日毎日、被災地からいくつもの木箱や段ボール箱が届けられ、こちらから引き取りに伺ったことも度々でした。1995年は200件ほど、その後の一年間も受け取りを続けましたので、全部で314件の寄贈があったんです。
——ものすごい数ですね。
尾崎 お預かりした品々を資料化していく作業場が必要だったので、「らんぷの家」を“被災地からの節句人形整理所”として使うことにしました。一つのお家の節句飾りが届くとすべてを開梱して清掃し、歳月の傷みか震災によるものか、たいがいはどこかが壊れていますので、できる範囲で修復をして、一点一点、写真に収め、採寸をして受け入れカードに記入していきます。その節句飾りが誰のために贈られたものか、いつ、どこで購入され、どのように飾られていたか、というような情報も必要ですから、電話や手紙でお話をうかがいました。そして、なぜ当館に寄贈してくださったのかをお尋ねすると、「子どもが小さい時に何度も訪ねたことがあり、思い出がつまった博物館なので」とか、「そちらなら人形たちが大事にしてもらえるだろうと思って」とか……。ああ、私たちは信頼されているんだなと感じ、身が引き締まる思いになりました。
そして、人形たちに向き合って日々、整理作業を続けていると、これは大正末期の大阪製御殿飾り雛、このタイプは昭和30年代前半の甲冑飾り、この表情は明治末期の京都製古今雛……とだんだんわかるようになっていきます。この受け入れ活動を通して、雛人形や武者人形を見る目を養わせていただいたと思います。
——それらはすべてこの館に?
尾崎 「らんぷの家」に積みあがっていく品々をすべてお預かりしたいとは思いましたが、ただでさえ、玩具満載の収蔵庫、とてもすべてを収めきれませんし、昭和30年代以降の品々は複数ありますので、収蔵できない節句飾りは、寄贈者のご了承を得て、近隣の幼稚園や高齢者施設、病院、また交流のある海外の玩具博物館などに再寄贈させていただいたりもしました。
——海外にも渡ったのですね。
尾崎 ちょうど1995年は、ブラジルの三都市で「日本の伝統玩具展」を開催していましたので、サンパウロ、クリチーバ、リオデジャネイロへも被災地からの雛飾りをお贈りしました。どの会場でも、展示された雛人形の前でブラジルの方々がはらはらと涙を流されるんですね。「被災地から救い出された雛飾りをこのたびブラジルにお贈りします」というメッセージを読みながら……。ブラジルでも大震災の映像が流れており、街が瓦礫の山になっているところや阪神高速が寸断されて車が落ちかかっているところ、長田の町が燃えているところなどをご覧になっていたんです。「あんなに恐ろしいカタストロフィのなかでも日本人は人形を守ろうとするんですね……」「人形を大切にする国だというのは知っていたけど、なんて優しい人たちなんだ……」と。そんなふうに日本の人形文化を受け止めてくださるブラジルの人たちの心の豊かさに胸を打たれました。
それから館内では、1996年の春、6号館の特別展示室で、「被災地からきた雛たち」と題する展覧会を開催しました。1995年に収蔵した第一次資料だけでも103件。神戸を中心に西宮や宝塚、尼崎、大阪府や京都府など、京阪神地方全域からやってきた明治、大正、昭和の資料が揃いましたので、時代ごとに雛飾りを展観するものとしました。展覧会オープン前日の内覧会には寄贈をしてくださった方々すべてにご招待状をお送りしたんです。
内覧会の1996年2月10日は小雪がちらつく寒い日でした。らんぷの家に祭壇を設け、近隣の神社の神職さんにお願いしてお祓いの式をとり行っていただきました。修祓のための祝詞は、大地震に遭った雛人形とそれらを寄せられた方々の思いに寄り添うもので、心にしみる詞の波が館内に響きました。
その後、展示をご覧下さった方々が私たちの手をにぎって「ありがとう」って言われるんですね。「こんなにきれいにしていただいてありがとう。つらいばかりの一年でしたが、心に春がきたみたいです」「神戸の街がもう本当にむちゃくちゃになってしまって、自分たちの思い出につながるようなものがなくなってしまったと思っていたのに、ここにはそれが遺されている。決して何もかもが失われていないとわかって励まされました。大事な仕事をしてくださってありがとう」って……。
なかでも心に残っているのが、「人間は衣食住が満たされないと暮らしていけませんが、心のなかに思い出があり、夢がないと未来へ向かうことができません。きょう、雛人形展を観て、生きてゆくための夢を取り戻すことができました」という言葉。震災の後、三次の土人形を修理しながら、博物館の仕事にどんな価値があるんだろうって悶々としていた、その答えを被災地の方々に教えていただきました。
時に迷ったりすることがあると、必ずそれを思い出します。モノは属していた文化を体現するもので、それらを大切に保存する場所があることで、町のアイデンティティが守られ、そこから未来を創っていける、被災地の方々とのつながりのなかで、そのことを実感できたこの体験は、日本玩具博物館にとっても、私にとっても非常に大きかったですね。
——いろいろな思い出や思いの入っているものは、ただのモノではないのですね。
尾崎 特に雛人形は、子ども時代の幸せな思い出が詰まっていて、家族と過ごした日々の満ち足りた時間が立ち上がってくるものなんだと思います。それがたとえ自分のものじゃなくても、共通の文化に属している私たちには、雛人形のもつたたずまいに強い郷愁を感じる部分があるんでしょうね。
被災地の方々から教えていただいたことは、博物館人の端くれである私の原点になっていますし、また、膨大な数の節句飾りに接し続けることで、人形を見る目や梱包の仕方、扱い方を学ばせてもらいました。この活動は、人形玩具を扱う学芸員としての礎を築いてくれたものでもあったと思います。