20世紀の終わりから21世紀の始めにかけての時代の変わり目。
ふらりとやって来た男はまたふらりと旅立っていった。
(監修:山本精一/取材・構成:石原基久)

▲現在、三沢が店長を務める横浜の「試聴室その3」にて。三沢は「横浜は大阪に似てる」という

──三沢くんがベアーズに関わるまでの経緯を教えてください。

三沢 ボクはもともと大分だったんだけど、4年くらい東京に住んでて…1994年頃、大阪に流れてくる。24歳だったかな。で、人ヅテでスタジオパズルでバイトするようになって。マディグラブルウヘヴンのカジノさん、GARPの山口(貴司)くんとかと一緒に働いてたんですよ。しばらくすると、山本精一さんが水道メガネ殺人事件で「ドラムを叩けないドラマーを探してる」って話を須原(敬三)さんが持ってきて。それで山本さんに初めて会うんですよ。で、水道メガネのドラマーとして法政大学でライヴして(’95年12月)、ベアーズにスタッフがいないとか…そんな話も聞いて、そのままベアーズのバイトに潜り込むことになる。ボクはよそ者だったんで、大阪のミュージシャンってすごいな! 大阪のシーンって最強だな!って圧倒されるばかりでした。

──当時のスタッフというと?

三沢 石隈(学)さんと壁ちゃん(壁田圭一)のふたりがいて。鍛えられました。仕事は、階段上の人払い、PAの手伝いとか…そんな感じでしたね。最初、人払いしてるとパンクの人に「なんや!お前?」ってすぐ絡まれるし、怖かったですね。徹底的に石隈イズムを植えつけられました。97年頃になると、山本さんもボアダムズとかが忙しくなってベアーズに来れなくなって。「任せた」って突然言われるんですけど、既に石隈さん、壁ちゃんは辞めてて。保海(良枝)さん、殿井(静)さんのフォローを受けながらブッキングをやり始めるんです。もう必死でしたね。

──同じ頃、三沢くんはLABCRYも始めるでしょ。

三沢 石隈さんのやってたEAD、元DADOの近藤さん、想い出波止場の大串(崇)くんのやってたSPEED BALLってバンドに参加して…96年頃、LABCRYに至る。96~97年そのへんのこと、あんまり憶えてないんですよね。

──ブッキングしたライヴで印象的だったものって?

三沢 MASONNAのワンマンとかやりましたね。ほんの2~3分で終わっちゃうライヴなんだけど、それをワンマンで見たら最高だろうな、と。マヘル・シャラル・ハシュ・バズの工藤冬里さんが海外から帰ってきて1発目のライヴとかもやりましたね。とにかくワンマンを企画するのが好きで、ECDのワンマンもやりました。ECDさんも当時、「ワンマンやるのは初めて」って言ってましたよ。それから憶えてるのは「オーディション・ライヴ」。「ベアーズに出たい」って人が月20本ほどテープを送ってきたり持ってきたりするんですね。休みの月曜の夜に、3~4バンド集めて「見せてください」ってライヴを実際にやってもらう。山本さんからは「よそで出れない人を選ぼう」っていう選考基準を教えられてたんだけど、それって何?ってのがあって。でも、やってくうちに「この人は(このバンドは)ベアーズでやってけそうだな」とかだんだん解ってくるんですよ。「よそで出れない」とか言ってるけど、結局、ベアーズに出る人ってのは相当かっこいいわけですよ。よそでも通用する人は多かったんだけど、それ…憶えてますね。やってると、ウルトラファッカーズの河合(カズキ)くんが同じ歳で「がんばってよ」とか励ましてくれたりして。そんな些細なことに日々、救われてましたね。弓場(宗治)くん、身長2mとかが熱かった時代で、そういうのがかっこいいなぁという基準もありましたね。

──ベアーズのマンスリー・スケジュールも充実してたね。

三沢 手書きでね。初めて出るバンドさんにはコメントをもらったりして。ボクが20歳くらいで、東京・高円寺の20000ボルトによく出てた時も、20000ボルトの新聞にコメントを書かれて、すごく嬉しかった記憶があって。まったく無名のバンドだったけど、それが力になって。ベアーズでもそういうことをやりたくなったんですね。それくらいの誠意があってもいいじゃないかと。なんだかんだ言って05年5月までいたので、ブッキングは7年くらい続きましたからね。

三沢渾身の手書きベアーズ・マンスリー。2002年1月。

ベアーズ・マンスリー。2002年11月。

ベアーズ・マンスリー。2004年3月。

ベアーズ・マンスリー。2005年3月。

──一方で、LABCRYは、羅針盤、渚にてと一緒に「関西うたもの3大バンド」と言われるようにもなりましたね。クアトロとかでも精力的にイベントをやってたもんね。

三沢 あの頃はメジャーみたいなものに、バンドが近づける時期だった。例えばアルバムを出したら何千枚か売れたり、雑誌で紹介されたり、いわゆるメジャー・アーティストみたいな動きがボクらみたいなバンドでもできちゃう時代だったじゃないですか? ボクは、山本さん、柴山(伸二)さんの1世代下になるんですけど、羅針盤、渚にて…そういうバンドと一緒にくくられて光栄でした。普通にアンダーグラウンドでやってる人たちも、もしかしたら全国区になれるかもしれない。そんな面白い時代でしたね。音楽ファンも耳が肥えてきて、いろんな音楽を聴きたがってた。ボクらも真剣にやってましたよ。

LABCRYのチラシの一部。2nd『COSMOS DEAD』レコ発(左)と、関西うたもの3バンド揃い踏みライヴ(右,1999年)

LABCRYのチラシの一部。2nd『COSMOS DEAD』レコ発(左)と、関西うたもの3バンド揃い踏みライヴ(右,1999年)

──LABCRYのメンバー、(村上)ゴンゾくん、清水恒輔くん…それぞれが別バンドで活動もしてたし、活気がありましたね。

三沢 時代が浮き足立ってたし、すごいことが起こるんじゃないかという夢のある時代だったので、がんばれたのもあったかもしれない。いま思えば。

──山本さんとは一緒にUMMOレーベルをやりだす。

三沢 当時、アルケミー、TAG RAG、ギューンカセット、JAPAN OVERSEAS、F.M.N.…と関西にはいろんなレーベルがあって。面白い関西のバンドをもっと知ってほしいってやってたんですね。

──コンピの在庫を置いてた部屋が火事になって燃えてしまったんやっけ。

三沢 ベアーズの裏に、オレ、ゴンゾくんと一緒に3畳の部屋を借りて住んでて。向かいの部屋の人がガスコンロのボンベを爆発させたとかで焼けてしまいました。ゴンゾくんのシンセなんかの機材も燃えてしまったんですね。散々でした。

山本精一と三沢洋紀が一緒にやってたUMMOレコード。1997年リリースしたコンピ『MICRO TRUXX』と『VOX VISSION #1』

山本精一と三沢洋紀が一緒にやってたUMMOレコード。1997年リリースしたコンピ『MICRO TRUXX』(EAD、SOFT、ROVO、ユニバーサル・エラーズほか収録)と『VOX VISSION #1』 (TABATA’S HUMAN INSECT、大谷義和、土居昌樹、吉川豊人、津山篤、三沢洋紀、坂本慎太郎、山本精一ら収録)。

──UMMOからは、ヘリコイド0222MB、ユニヴァーサル・エラーズ、ゴールデン・シロップ・ラバーズとかも出ましたね。

三沢 途中から東京のMIDIがディストリビュートしてくれるようになったんですね。山本さんのソロとか、THE FOXもリリースしました。けど、手伝ってもらうと、大阪らしさみたいなものがなくなってしまったかもしれない。そんなふうにずっと充実した日々ではあったんですけれど、ベアーズの仕事って自分的には身を削るようなところがあって。2000年くらいに病んじゃったんですね。奇しくもLABCRYが一番調子よかった頃なんですけれど。忙しくなって週1回東京に行ってプロモーションみたいなことをやらなければならないし。その一方ではベアーズの裏方仕事も。そうしてたら心身共すり切れちゃいましたね。精神的なバランスが取れないっつうか。壊れちゃんたんです。ベアーズに入っていろんな人たちから可愛がられもしたんですけれど、いろんな悪いことも覚えちゃって。2~3年、ほとんど眠らずにやってたんですよ(笑)。

そういうのが2000年にハジけちゃったんですね。ま、何だかんだ言って面白かったですけれど。ぶっ壊れた理由も音楽が好きってこと一本だけだったんで。やることが多すぎて。自分の中で処理できなかったというか。あの頃の大阪って『天才バカボン』のマンガみたいでしたもん。みんなキャラクターが強すぎて。ボクは結局…1997年から2005年までやってたのかな。ボクがブッキングしてる間に、あふりらんぽとオシリペンペンズというゼロ年代の2大スターが出てきましたからね。で、一度大分に戻ったんだけど、大分にいてもしょうがないなってのがあって。大阪は大阪でやり尽くした!ってのもあったし…次はまた違うところがいいかなと思って。10年前から横浜に住んでて。試聴室その3ってライヴもできるバーの店長をやってるんです。そこをやれてるのもベアーズでの経験の賜物ですね。

*メモ

  • スタジオパズル:80年代中頃から大阪アメリカ村にある練習スタジオ。1997年からオーナーは須原敬三。
  • 試聴室その3:神奈川県横浜市日ノ出町にある三沢洋紀が店長を務めるバー。キャパは座り30人or立ち80人。試聴室その3はこちら

*注

  • 2002-2005年のベアーズ・スケジュール(参考資料:エルマガジン2002年1月号-2005年12月号ほか)作成:石原基久