シャンソン歌手デビューの頃の話に始まって、まもなく30周年を迎える「DIAMONDS ARE FOREVER」、シモーヌさんが心惹かれるもの、社会活動のことなど、これまで5回にわたってたっぷりとお話いただきました。インタビュー最終回は、紙媒体とウェブ、LGBTQ+コミュニティについての見解など、シモーヌさんの「時代への意見」で締めくくります。(丸黄うりほ)
紙媒体とウェブは、蓄積するものが違う
シモーヌ深雪さん(以下、シモーヌ) 『花形文化通信』は、90年代の関西を代表するフリーペーパーでしたね。他にもフリーペーパーやミニコミがたくさんありました。メジャーどころでは、hi-cArat(はい・から)やカイトランド、ジャングルライフ、ペリカン倶楽部、マイナーどころではTRASHや3チャンロック、セッポンナーなど。
見開きのページをまたいだ記事やエッセイ、片隅にくすっと笑えるミニコラム、写真、イラスト、マンガ、カット、趣向を凝らしたグラフィック、それらは相互に関連していないにもかかわらず、一まとめの情報として目に飛び込んできたんです。雑多といえば雑多。無節操といえば無節操。でも各紙には確固たるテーマカラーやこだわりのようなものがあったし、なにより高尚なものから低俗なものまで、それぞれの主張が均一に横並びされているということが特徴的でした。
これはネットではなかなか見ることのできない空間構成だったのではないでしょうか。ネットのページだと、たったひとつのキーワードが欠けているだけで、永遠にそのページにたどり着けない、そんなことも多いかと思います。10代の人の中には、URLが載っていないと単語を検索すらしない子も増えているとか。情報が多すぎて、知らないことを悔しく思えないんでしょうね。未知の情報を知ることで自分の世界観が広がってゆく、そんな楽しみ方を得られにくい時代になりつつあるという気はします。
——情報があるところでは煮こごりみたいに濃くなるけど、広まらない。知らない人はずっと知らないままということがありますね。
シモーヌ 何でも得られればいいというわけではなく、自分の好みにあった文化の傾向が、より詳しく掲載されている紙媒体を見つけることが大事なんだと思います。70年代、80年代を謳歌してきた人たちにとって、自分を形づくる強力な武器になってたのは確かですね。表紙を一目みて、好みの文化の傾向が簡単に選べるというシステムも、いまから思えば大きかったのでは?
塚村編集長 そういえば……。フリーペーパー『花形文化通信』は、小劇場とかライブハウスとか映画館とかレコード屋さんとかに置いてたわけですが、私、悌二さん(古橋悌二)に褒めてもらったようなことがあるんです。外国に行くと、こういうフリーペーパーがたいていどこの街にもあって、ライブハウスとかシアターとかクラブとか、そういうところに置いてある。街に着いたら、まずはそういうのを手にとって読む、広告も見る。そこでまた次に行くところを見つける。で、こういうのをいちばん信用してる。だから、がんばって、って。きらきらした目で言われました。直に面と向かってポジティブなことを言われるのはあまりないので、かなりうれしかった。それは、ずーっと私にとっては励みになっていました。
シモーヌ 外国に行くとついつい集めてしまいます。
——シモーヌさんにとって紙媒体の魅力とは?
シモーヌ 紙媒体とウェヴの違いはいろいろありますが、一番大きな違いは光りの当たり方だと思います。昼間は気づかないかもですが、紙に印刷された文字は明かりがないと読めません。でもウェヴ上の文字は媒介するハードさえあれば、暗闇の中でも読めたりしますよね。ウェヴに慣れている人はとくに意識しないかもしれませんが、後方から光りが当たっている、それこそが紙の印刷物とウェヴを隔てる重要なポイントではないかと。
もうひとつ挙げるとすれば、紙媒体にはあらすじが詳細に書かれていないことでしょうか。ウェヴの映画の感想などでよく見受けられますが、画像付きでこと細くあらすじを書いている人たちがいます。彼らは親切と思っているかもしれませんが、未知の体験を妨害する行為以外のなにものでもありません。ネタバレがいかに文化の成長を阻害しているかに、早く気づいてほしいと思います。参加したい気持ちや共鳴されたい気持ちはよくわかりますけどね。
ウェヴは間口が広く、とても便利です。文字の大きさを自由に変えたりできます。本や雑誌はそういうわけにはいきません。提示されたものをただ消化するだけ。でもその不自由さこそが紙媒体の魅力だと私は思っています。魔力と言ってもいいかも。装丁や紙の質、手触り、重さ、稀少性、インクの匂い、加工の技術、読み終えた後に保管される場所。これらは時間に関係なく、誰にでも同じ体験をもたらしてくれるものだと思います。
京極夏彦の探偵小説を新書版で読んだことのある人ならわかると思いますが、片手で長くは持てないあの重さ。最初は左側が重く、ページを読み進めるにつれ重心が右側へと移動してゆくときのカタルシス。小説とは直接関係ないけれど、話の内容とあわせて必ずセットで語られるものです。私はキングと反りが合わないので読んでませんが、キングの単行本の重さは京極夏彦の非ではありません。もはや拷問に近いです。それさえも紙媒体の魅力のひとつになってしまうのが不思議ですね。
それからこれは私的な好みの問題かも、ですが、パソコンでマウスを動かしたり、iPadで指を動かしたりして目的のページを検索している姿を見ても何とも思わないんですが、本や雑誌でページを繰っているときや、紙の書類をバサバサしてあたふたしている姿はカッコいいなと思ってしまうのです。「さっきはあったのにどこいった、あれれー」みたいな時。性別も年齢も問わずです。多分にフェチも入ってるかもだし、エコではないなと自分でも思いますが。
エロやグロや変態が卑下されない世の中に
——媒体が変わってきたっていうのと、エロティシズムの受け止められかたが変わってきたというのとは関係あるでしょうか。
シモーヌ 関係ありますよ。田亀源五郎という日本を代表するゲイエロティックアートのアーティストがいて、彼の展覧会が関西であった時に対談したことがあるんですが、雑誌の廃刊や印刷物の縮小傾向により、世界中のゲイエロティックアートに携わるアーティストたちが作品発表の場を失いつつあると。現場をよく知っている彼が、声を大にしてかなり危機的な状況だと言ってました。
ある時期からウェヴで作品を発表するアーティストも増えつつはあります。最近はネットで漫画やイラストの原稿をやりとりするのが主流となり、ソフトのツールが進化したせいで、手張りのスクリーントーンとソフトで作ったものとの差異もわからなくなってきてるんでしょう。でも、萩尾望都の展覧会で見た生原稿の迫力は、ウェヴでは伝わらないと思いました。ひとりの人間が作り出した“生のもの”とそれを受け止める人間が対峙する。その構図からダイナミックに派生する“何か”は、目には見えないし言葉にもできないけど、必ずあると私は信じています。
ゲイエロはそこに秘匿みたいなものが加味されるんです。たとえば60年代に一世を風靡したトム・オブ・フィンランドの『KAKE』という小冊子。他愛ないSEXやハッテンのエピソードがイラストで綴られるシリーズ本で、早い話がオカズ本なんですが (笑)。一冊一冊の小さい物語に、読み手のひとりひとりがさらなる物語を重ねていったと思うんです。読む時間や読む場所、ページをめくる速度、お気に入りのシチュエーションを眺める滞空時間などによって。その小冊子を持っているというだけで得られる、わくわくするよう高揚感やソワソワするような背徳感。時代は繰り返すとはいうものの、そうした体験が出来る人は少なくなってしまうんでしょうね。
ゲイエロに関しては、専門の研究者もいない、財団もないという感じで、諸外国の動向からはかなり遅れています。今ようやくアーカイヴが云々とかいわれだしてますが、それはあくまで猥褻と名のつかないものに限られるんですよね。大正から昭和初期に流行したカストリというエロをフューチャーした猟奇雑誌の研究をしてる人は何人かいたりするのですが、ゲイエロに特化したものとなるとまだまだですね。私も幾人かの作家の作品をあずかってますが、専門の研究機関や保管場所もないのでこの先どうしたものかと。
——LGBTQ+コミュニティの中ではシモーヌさんはゲイと呼ばれるのでしょうか。もし、他の名前で呼ばれるとしたらなんと呼ばれたいですか?
シモーヌ 「カストリの人」と呼ばれたいです。昨今のリヴやプライドが目指すものからは逆行するかもですが、「エログロ変態さん」でもかまいません。エロやグロや変態が卑下されない世の中になればいいですね。
LGBTQはセクシャルマイノリティでいい、いろんな人がいますでいい
——ここまでいろんなお話をしていただいて、ありがとうございました。最後に、これだけは言っておきたいということがあったらお願いします。
シモーヌ そうですね、LGBTQはセクシャルマイノリティでいいと思います。メディアがセクシャルという言葉を嫌い、あたりさわりのない語感優先のアルファベットが定着しただけで、トランスやクィアーをちゃんと説明できないなら使わない方がいいと思います。確かに細分化して各単語を覚えてもらうことも大切ですが、フラットにすることで余計見えなくなってしまうものもあるかと……。
サディズムとマゾヒズムは全くの別物でセットにはならないんですが、プレイとしてのSMという言葉はよく知られてますよね。このとき、概念と行動は合わさってイメージされます。LGBTの場合は概念だけが優先され、各それぞれの性行為を含んだ生態の説明は除外されてしまってるんですよね。でもそれを含めるには数が多すぎて、「めんどくさいからもういいわ」になってしまうと思うんです。「いろんな人がいますね~」じゃダメなんでしょうか。
——本当にいろんな人がいる。
シモーヌ いま学校ではジェンダーやセクシュアリティを教えないといけないですから、先生は大変ですよね。
——これを教えられる人、いるのかな?
シモーヌ 大学でそれが教育の一環として含まれるようになったとき、社会学の先生に何度かゲスト講師でよばれたことはあります。
——これをちゃんと教えられる人、なかなかいないと思いますね。概念が揺れてるし、ちゃんとした教科書みたいなものもないでしょう?
シモーヌ マニュアルみたいなものはあると思うけど、他人事で話してる先生や企業がほとんどでしょうね。LGBTに便乗した商売もありますよ。「当方はLGBTQ各種取り揃えており、実物をあなたの会社や学校へ派遣いたします」みたいな。セクシュアリティは本物なんでしょうし、実物を見ることで変わることもあるでしょうけれど、うわべをなぞっているだけのような気がしますね。「あー見た見た。よかったよかった」的な。
レズビアンのセックス、ゲイのセックス、バイのセックス、トランスジェンダーのセックス2種を並列に並べ、閲覧させることによって、はじめてヘテロセクシュアルの人たちに理解ができると思うのです。シロクロショーというか、武智鉄二の『花魁』の冒頭の遊廓よろしくな感じで。自分たちの性の形態とは違うことをしている人たちが、実際にいるという事実を顕現させる。そんなことをしてる企業はないですけどね。捕まりますから (笑)。ここでも猥褻が足かせになってますね。
SNSが普及して、情報が世界基準になったことはよいことだと思います。ただ、外国のものをそのままスライドさせて使用している時に、不協和音のような違和感を覚えてしまうことがあります。
たとえばレインボーフラッグ。ベルリンのゲイタウンで町中に飾られているのを見た時、カッコいいなと思ったし、それこそゲイの誇りみたいなものも感じました。自分もそのひとりだと思うと、なんだか勇気をもらえたような気にもなりました。でも日本の町中で飾られてるのを見ても、同じようには思えなくて…。デザインや色味が日本の風土と合わないとか、いろんな要因が重なってるとは思うけど、アイコンに限らず、思想や概念をただ輸入するだけじゃなくって、日本の土壌になじみやすい工夫やアレンジをすれば、もっとみんなが使いやすいものになるのに……と思います。結果論ですが、ドラァグクイーンがそうであったように。「世界基準に合わせる」と「その土地で根付かせ成長させる」は別物じゃないでしょうか。私は後者の方をとりたいです。
——LGBTQについてよくわかっていないし、よく考えてもいない先生たちが学校で教えるとしたら、なんだか不安しかないですね。ところで今さらですが、このインタビューって印刷物ではなくウェヴ掲載なんですよ。
シモーヌ プリントアウトして読んでもらえたら、新しい自分を発見できるかもしれません。プリンターをお持ちの方は、ぜひチャレンジしてみてください。
——シモーヌさん、きょうは長々とありがとうございました。
(6月17日取材 写真: 塚村真美)
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晩夏のシモーヌ深雪、3つのイベント。「シモーヌ深雪 LIVE」(オンライン)、「DIAMOND ARE FOREVER」 と「CAMP!─The Midnight Movies─」。