シャンソン歌手であり、日本を代表するドラァグクイーンとして「西の女帝」と呼ばれることもあるシモーヌ深雪(ふかゆき)さん。とくに、京都のクラブMETROで毎月開催されている「DIAMONDS ARE FOREVER」のオーガナイザーおよび出演者としての活動は有名で、2018年に六本木・森美術館の協力による「DIAMONDS ARE FOREVER TOKYO」や、初のオンライン配信「DIAMOND SHOW」などは記憶に新しいところです。そんなシモーヌさんと聞き手の丸黄うりほは80年代からの知り合い。また、90年代にはフリーペーパー『花形文化通信』で嶽本野ばら氏がインタビューしていたり、アジアのアイドルについて連載記事を執筆してもらったりと、「はなぶん」とも何かと縁の深い関係なのです。しかし、シモーヌさんはある意味ずっと孤高の存在。独自のポジションから文化の変遷をみつめるシモーヌさんの視点は、社会におけるひとつの定点として読み解くこともできます。第1回は、80年代後半、デビュー前後の活動を中心にお話をうかがいました。(丸黄うりほ)

非現実のコスチューム。ドレスとスポットライトがセット!

——『花形文化通信』43号(1992年12月発行)で、シモーヌ深雪さんのインタビューを嶽本野ばらさんがしているんです。

塚村編集長 記事のタイミングは、ちょうど1st CD『美と犯罪』が出る時で、クレジットは発売予定となってます。で、12月に大阪・ベアーズでライブ、京都・METROで「DIAMONDS ARE FOREVER」(ダイヤモンドナイト)、神戸・ジーベックでの「電脳TVショー」の出演告知も入っています。

シモーヌ深雪さん(以下、シモーヌ) シモーヌ深雪という名前で、シャンソン歌手としてデビューしたのが1988年。で、「DIAMONDS ARE FOREVER」が始まったのが89年なんですね。88年にはシモーヌと同時にレヴューユニット「上海ラブシアター」を始めているので、まあその前から下地はあった。丸黄さんとは82年か3年くらいからで、そのころに初めて自分で企画したライブをやったんですけど。シモーヌじゃなくてメデューサっていう名前でした。なぜその名前かというと、いまでいうBLの同人誌に入っていて、そのときにつけたペンネームがメデューサだったんです。で、その後『JUNE(ジュネ)』とか『ALLAN(アラン)』とかって雑誌が創刊されて、そのとき知り合ったお友達とニューウェーヴにのっかって、ちっちゃなホールで企画して音楽活動をやりだした。シモーヌまでに7、8年の下地がありました。丸黄さんには「蟹満寺麗子」というソロユニットのライブで、コーラスと踊りを手伝ってもらったりとか。

——80年代は、心斎橋の喫茶店・ガネーシュでよく出会いましたね。あそこで、シモーヌさんが絵をいっぱい描いてたんです。ドレスのデザイン画で、奇抜な、どうやって着るの?みたいな服ばかり。3時間くらいお茶一杯でねばって……。なので、シモーヌさんは衣装をデザインする人っていうのが私の最初のイメージ。歌をうたう人っていうよりも。

シモーヌ 覚えてないですね。でも、中学・高校と授業中もよくノートに落書きはしてましたよ。

——やっぱり(笑)。メイクについてはどうですか?

シモーヌ 高校の文化祭でステージに立つときも、一人だけメイクしてた(笑)。ステージでメイクすることに憧れはあった。それはすごい子どもの頃からあって、ステージで立つからには一張羅とはいかなくても普段着で出てはいけない、舞台に対して失礼っていうのはずっと思ってた。なので、リハーサルのままで舞台に立つような人をみると腹立たしさを(笑)、覚えてたんですよ。普段着てないようなステージ衣装を着こなせてない人をみて、スタイリングをまかせてくれればいいのに、とか思ったり。

——シモーヌさんは最初にこういうのが着たいっていう空想の服がまずあって、それを実際に着始めて、シモーヌになっていったというのが私の印象です。

シモーヌ 宝塚の昔の写真集、ちょうど70年代、80年代のものには結構スペイシーなものも入ってきて、とんでもない系っていうのがときどきあって。で、これ変。変だけど、それは褒め言葉としてカッコイイ、っていうのがずっとあったんです。そういうのを着てみたいなぁっていうのはあった。あと、たとえばドレスはなんとなく子どもの頃から好きだったので、男の子だったら風呂敷をマントにしてヒーローごっこをするところを、お引きずりのドレスにして、スリットをかたっぽにつけて、どうすれば脚がきれいにみえるか、みたいなのを小学校の時にやってて祖母に見つかったりとかっていうのはまあまあよくある話でした。

いまでもそうなんですけど、いわゆる非現実のコスチュームにわりと憧れはあるので、あまり日常的な女の人の服を着たいとか下着をつけたいとかは昔から思わなかった。一応フォルム的なものでブラジャーとかつけるんですけど、それはあくまでの補正のためのもので、ジェンダーとはあまり関係なかった。

——そこがシモーヌさんの興味深いところです。いわゆる女装の人とは出どころが違うんですよね、たぶん。モード系ですよね、パリコレ的な。

シモーヌ 強いて言えばオートクチュール系。女装の人たちはプレタポルテ系。でも、プレタポルテでもわりと非現実に着こなす人もいれば、すごくゴージャスなドレスなのにぬかみそくさい着方しかできない人もいる。私の場合は、ドレスを着た時に、スポットライトがセットなんですよ。だから、その服を着て街を歩いて人に見られたいとかじゃないんです。誰もいなくてもいいから劇場でその服を着てうろうろしていたい(笑)。

——シモーヌさんの衣装に羽がいっぱいついているのは宝塚っぽいなと思います。

シモーヌ でも、50年代、60年代のハリウッドレビューは羽だらけなんで。あとパリのキャバレーとかも羽だらけなので。そっちのほうに影響受けているかな。

ダーティでワイルドなシャンソンを聴かせたかった

——「上海ラブシアター」の前にも、いろんな活動をされていましたよね。

シモーヌ 「上海ラブシアター」の前身が「象牙海岸」ですね。メンバーもちょっと重なっていたけど、「象牙海岸」には別のリーダーがいたので。 シモーヌ深雪単独としては、シャンソンを歌うことにした。なぜか、シャンソンだったんです(笑)。

「象牙海岸」のときに、アングラミュージカルみたいなのをやっていたんですけど、そこでいくつかシャンソンを歌った。そのときすでにノイズ、ポジパン、そういうバンドの人たちとも知り合っていたので、その人たちにダーティでワイルドなシャンソンがあるよっていうのを聴いてもらいたかった。たぶんこんな感じの歌は知らないだろうという感触があったので、ライブハウスでシャンソンを歌おうと思った。普通はシャンソンを歌っていこうとしたら、シャンソニエなんですけど、そのころはシャンソン歌手やシャンソニエとは何のつながりもなかったし。

「上海ラブシアター」も、ライブハウスに出入りしている人たちに変わったレヴューを見せてあげたいと、男女混合のユニットで始めたんです。ちょうどクラブが出来始めたころで一緒に発展していった。

——シモーヌ深雪は、どこでデビューしたんですか?

シモーヌ 森ノ宮の青少年会館の小ホール(笑)。

——いいですね。「上海ラブシアター」のデビューは?

シモーヌ ベアーズ、そこが最初。メンバーはオチェンタ、マリー、マリア、テディ。のちにウラヂもはいってくる。

——それが「DIAMONDS ARE FOREVER」のもとになったんですね。

シモーヌ ダムタイプの古橋悌二(グロリアス)と山中透(DJ LaLa)と、もう一人の女性が一緒に「R-STILL」っていうバンドを組んでいたんですよ。私もちょうど同じ頃に三人組の演劇的ユニットを組んでいたんです、「トニー デュベール」っていうんですけど。そのどちらも、ヨーロッパ系というかデカダンな感じで。お互い直接には知らなかったけど、友達のバンドの対バンとかで見てたんです。で、あとで知り合いになって、あのときのあれはあなただったのね……が結びついた。

で、そのときグロリアスとLaLaはパーティーをやりたがってて。彼らはニューヨークでドラァグクイーンのパーティーを見てきてて、日本でもやりたいなぁと。外国人がやるパーティーは当時もわりとあったんですよ、京都でも大阪でも。でも日本人が企画するパーティーがなくて、ぜひやりたい。でもソフトがない。で、たまたま私たちを見て、そのまま引っ張ってくれば全部まかなえるっていうことで。じゃあ一緒にやりましょうかってなった。それが89年ですね。

「上海ラブシアター」にはキャンプテイストがあったと思う

——「DIAMONDS ARE FOREVER」は、シモーヌさんと、古橋悌二さん(グロリアス)と山中透さん(DJ LaLa)の三人で始めたということですね。

シモーヌ そう。で、それに最初は「上海ラブシアター」も組み込まれていたんです。いまでいうドラァグクイーン、その当時はその名前で呼ばれることは少なかったけど。そしてDJもいて、っていうので始まった。

——悌二さんたちは、ニューヨークのどこでドラァグクイーンのパーティーを見てきたんですか?

シモーヌ ピラミッド。「あなたたちはドラァグクイーンです」ってグロリアスに一番最初に会ったときに言われた。でも、当時は日常会話ではそんな言葉は使わなかったし、ドラァグクイーンの定義もよくわからなかった。

——ニューヨークのドラァグクイーンとシモーヌさんが、同じことをやっている人たちだと思ったのかな。

シモーヌ 同じというより、重なる、と。チープゴージャスを表す「CAMP(キャンプ)」という言葉があるんですけど。いわゆるキャンプテイストっていうものが「上海ラブシアター」にはあったんだろうと思います。当時のメジャーにしろアンダーグラウンドにしろ、キャンプな人はゼロではなかったと思うし、たとえば戸川純とか、100%ではなくても、この歌はキャンピーだ、スタイルが瞬間的にキャンプ、みたいな感じのものはあった。それを全面に押し出して売りにしているグループは無かったのかも。

当時はキャンプとは何かみたいなのはわからなかった。たぶん、キャンプを育む土壌に恵まれていたので、いちいち考える必要がなかったんでしょう。たとえば、ブラジャーは胸に着けるものという常識があって、でもそれを首に巻いてマフラーにするとか、腰に五つ着けてスカートにするとか、頭に着けてコサージュにするとか、そういう発想を、それいいね!っていうような環境がそこにはあったので。じゃあこれは?これこんなふうに一回着けてみて、とか、やっぱりこっちかな?みたいなのをお互いにやりとりしてた。そんな環境が、キャンプの概念を無自覚に成長させていったと思うんですよ。なかなか普通ではそういう状況にはならないと思うし。

で、それはたぶん、80年代のモード雑誌であるとか、70年代の宝塚や日劇ミュージックホールの写真集であるとか。それまで見聞きしてきたものが背景にあったんだろうなと。美術であったり小説であったり、漫画とか雑誌とか映画とか音楽とか、いろんなものが作用してたんだろうと思います。そういうのがあって、独創的なキャラクターとして育っていけた。

※その2に続く

 

7月23日(祝・木)「WEBパリ祭」マチネに出演。
宝塚パリ祭レギュラーメンバーによる配信ライブ。詳しくは「シャンソン共和国」のFacebookへ

7月31日(金)「DIAMONDS ARE FOREVER presents CABARET DIAMOND」に出演。4カ月振りのリアルパーティーとして予約制で開催。詳しくは「メトロ」のホームページへ