カミソリを飲んでは出し、金魚を飲んでは釣針で釣り上げる。最後の見世物小屋芸人、驚異の胃袋魔人の謎に迫る。

造幣局の通り抜けや西宮戎などの縁日に出る見世物小屋。“ヒマラヤの白熊男”なんて看板を見ても信じてはいけない。「出なかったぞ」といっても「ごめん、今日休みやねん」といわれるだけだ。その点、人間ポンプ安田里美は本物だ。ナイフを飲んでたたんで出す。金魚を飲んで釣り上げる。ガソリンを飲んで火をふく。フェリーニの『道』のザンパノみたいだがジェルソミーナにあたるおカミさんはかなりのしっかりものだった。

−−一番最初の舞台はいつですか?

安田 5つの時。芝居に子役で出たり、7つで気合術覚えたり、マジックやったり、マンザイしたり。今のミヤコ蝶々さんとも一緒にやったり。人間ポンプは16歳からです。

−−ご両親も舞台のお仕事されてたんですか?

安田 いや、堅気もん。うちは。お母さんは煎餅焼き、お父さんは鉄鋼商。子どもの時分、私はチャンチャンバラバラが好きだったらしいんだ。で、兄弟も多くて、お父さんお母さんが仲の良かった岐阜の芸能社の人に、芸人にするなら「あげるわ」って、もらわれた。それが4つの時。大正15年、昭和元年くらいかな。それからずーっと芸の修業した。

−−人間ポンプの芸はどんな風にしてできたんですか?

安田 16歳の時、自分で編み出した芸です。9つの時にね、あめ玉をほうり投げて口で受けてたら、のどにコポッと入った。せきしてもでない。医者が腹をおさえてくれてね、「コン」てやってみろってたたいてくれたら出たの。それでやめればよかったんだけど、うちへ帰ってあめ玉でまたやったの。それで自分で出せるようになったの。これを利用しようと、最初は人間タンクというものを編み出したの。

−−人間タンクは、別人じゃなくて安田さんだったんですか。

安田 人間くじらって名前もあった。名古屋の毎日新聞の当時の編集長が、なんかひとつ名前を考えましょうね。と考えてくれたのが人間くじら。でもクジラは背中から潮を吹く。これは名前と一致しない。だから人間タンクとしてやってたわけ。でもタンクの芸というのはものを飲むんじゃなくて、重いものでもなんでも腹の上に乗っける。で、タンクじゃいかん。で、人間ポンプって名前を編み出したのは私なんですよ。飲んで出すんだからポンプだ。人間ポンプを名乗ったのは18歳の時かな。で、今日(こんにち)まで人間ポンプとして歩いとんの。

−−昭和40年ごろのポスター見たんですけど、ヒモをつないだボタンを目に入れてバケツをぶら下げてふりまわしたり、腕に畳針や自転車のスポークをプスンとさしたりする芸は、ご自分で思いついたんですか。

安田 それには師匠がいる。気合術といって、7つの時に覚えた。私の師匠は、昭和の荒木又右衛門、萩村雷山。

−−西宮戎とか縁日の小屋にもお出になりますよね。

安田 ああいう仮設はよっぽど大きいところで頼まれなかったらいかないんですよ。露店商とみなされたり、暴力団とみなされたり、香具師とおもわれたりするけど、私はコレ、人間ポンプ1本でメシ食べてる。大阪の吉本興業に籍を置いてるし。私はただ芸を見せてお客さんに喜こんでもろてるだけ。まあ、芸能人だわね。安田芸能社で、私はフリーです。

−−お弟子さんはいらっしゃらないんですか?

安田 人間ポンプの師匠とか弟子はないんですよ。なぜかというと、弟子をとってもできない芸ですからね。踊りとか手品とかさ、弟子になればできるようになるけれども、弟子をつくってもできないもん。

−−飲み込んで、出すというのは、一体どんな風にやってらっしゃるんですか。どこに入ってるなんて聞いちゃマズイ?

安田 変わっておるんやろな。医者に見てもらったこともない。

−−ご自分の感覚としては胃に入ってるんですか?

安田 うん。グッとおさえると出てくる。おなかまで入れたら出てこないよ。いかに人間ポンプでも。

−−だから、この辺(※胃の辺)ですか。

安田 品物によってはここ(※食道の辺)でとめる時もある。

−−そしたら、食道かしらね。

安田 食道いうたら……咽喉で食道つたって、腸つたって胃にいくでしょ。

−−いや、胃をつたって、小腸、大腸……。

安田 胃が上?小腸いって、大腸?うそ。

−−いや、胃で腸、ですけど。

安田 女の人と男の人は、位置がみな違うから。心臓も盲腸も左右違うで。心臓はどっち?

−−左ですけど。

安田 オレ右だもん。ホラ。手あててみ。

−−そういう人時々いらっしゃるみたい。

おカミさん だから、おまはん変わってるの。特殊なんだよ。

−−身体は、日々鍛えてらっしゃるんですか。

安田 うん、鍛えてる。きょうはこの舞台をやらないかんな、とグーッとしたらやるけどね。昔だったら舞台でても夜遊びに行ったりなんやしたけどね。今は舞台終わると「アー、疲れたな」と思う。

−−走り込んだり、腕立てふせしたりはしない?

安田 しない。走ったら、かえってしんどなるもん。力技も昔とちごて、結局なんぼ自分が覚えた芸だからというても、やっぱし一昨年より去年、去年より今年とだんだんだんだん身体が落ちては来るわね、年やからね。舞台で懸命にやってても、身体にゆるみがでてくる。でも、今日はしんどいから、碁石5つ飲むとこ3つにしとこ、そういうことは私はやらん。お客がひとりしか入ってなくても、自分が習った芸はピシャッと、こんなけのことはやらなあかんというだけのことはやりますよ。舞台でチャランポランにやってる。そんなことはキライだから、私は。

−−お若い頃はおもてになったでしょう。

おカミさん もてたもてた。若い時はいい男だったよ。目も大きい目で、はっきり見えてたし、単車に乗ってブンブン飛ばしてたもの。20日や25日でも帰って来なかった。女郎屋、私らの符丁でビリヤっていうんですけど、ビリヤのこの人の枕もとに子ども置いてきたことある。1日も帰ってこないんだもの。

−−でも今は、いいおじいちゃんって感じですね。

安田 孫の幼稚園にね、クリスマスに頼まれて、サンタクロースのおじいさんのカッコして、ソリひいていったんや。つけひげつけて赤い服着て、大きな袋ぶら下げて、ノートとえんぴつ入れて。それで終ったらわからないようにパァーッと家へ帰った。そしたら「おじいちゃん。きょう、本当のねえサンタのおいちゃんが出てきたよ」って。「で、めぐみは何もらったの?」って聞くと「ノートとえんぴつくれた」って。私がだっこしてやったのにね、わからへん。

−−根っから、人に喜こんでもらうのが好きなんですね。

安田 小っちゃい時からかわらない。好きやったんや。

−−いろんな芸をお持ちですけど、出し物は当日まで決まらないんですか。

安田 出た目勝負よ。

(インタビュー・構成:塚村真美/写真:浅田トモシゲ)

「花形文化通信」NO.26/1991年7月1日/繁昌花形本舗株式会社 発行)