フロイトに拠ればそれは女性器である

文・嶽本野ばら

TOKIO KUMAGAI PARISのシューズ(個人蔵)

 

片方しかない靴ほど使い物にならないものはないですが、小さ過ぎる靴も同様でせう。

野ばら様がロッキンホースをご愛用は百も承知、でもきっとお似合いになると思い——送られてきたのは80年代、かつて天才と謳われパリでメゾンを立ち上げた熊谷登喜夫——トキオクマガイのシューズ。どうやら山羊革を使用しているらしい。

トゥシューズを模しているは明らかで、両端のアイレットは爪先部分のギリギリから始まり、バックステイに近い処まで紐を通せるようになっている。横幅は極度に狭く、華奢な印象と、薄いが強靭な艶めかしさを持つ山羊革特有(この靴は黒であった)のマチエールが奇妙に共存させられたシュルレアリスム的な逸品でした。

トキオクマガイは洋服よりも先に靴がパリで評価されました。まだネットのない時代、スゴいらしいという噂が流れるだけで、地方に棲む僕等は実際に観ることが出来なかった。東京には売っていると聴き、高価で買えないだろうけど、観に行ったことがあると懇意にするアンティークショップの奥さんから、高校時代、僕は聴かされたことがある。試し履きくらいやってやろうという魂胆だったけど、いざ眼の前にすると畏れ多く、スゴスゴ戻ってきたと笑っておられました。

熊谷登喜夫は1987年に早逝しているので、僕の年代にすればその靴は最早、伝説です。1999年の京都近代美術館『身体の夢 ファッションOR見えないコルセット』展では「すき焼きパンプス」と名付けられた樹脂製の牛肉で作られたように加工されたヒールが展示されていて、この時、僕は初めて現物を目撃した。

送られてきた靴を履いてみようと紐を解きますが、36.2/1——。男子にすれば24.5cm、足は小さい僕ですが、トゥが必要以上に細く実際は36(23cm)くらい、爪先すらまともに入りません。でも気に入ってしまった僕は、最近、オークションなどでトキオクマガイの靴を捜しまくるようになりました。求めるのは履けないサイズばかりですが、手に入れ、眺めているだけで嬉しいのです。

トキオクマガイの靴はあらゆる部分が前衛でした。何じゃこりゃ!という外見のものが多いのですが、実際、触れると、震えてしまいそうなエロティシズムに打ちのめされる。トゥシューズ型のシューズにしろ、インナーは可愛くドット柄、ソウルもフラットにしか観えないのに、踵部分にクッションを仕込み、穿く者の姿勢をヒールの佇まいにする仕掛けが施されてあるのでした。スニーカーも作る熊谷登喜夫なれども、彼はヒールの美学に取り憑かれていたのではなかろうか?

80年代に湧いたデザイナーズブランド・ブームの洗礼を僕は受けていますが、雑誌などを資料として掻き集め、改めて閲覧する時、お洋服に対する尋常なき熱量に眩暈がします。デザイナーだけでなく、ファッション誌に関わるモデルやエディターも命懸けでお洋服と関わっていました。『オリーブ』なんて結局は、大森伃佑子さんの服を紹介している筈なのにロマンチシズムが先行し過ぎて、写真としては最大にファンタスティックだけど何を着てるのかさっぱり解らないスタイリングにコアがあったのです。

ハイヒールに平ゴムを付けてストラップシューズにリメイクなど中原淳一張りの可愛い主義アイデアを網羅した大森伃佑子著『RE GIRL』辰巳出版(2010年)

これではどんな服か解らぬと貸すメゾンは文句をいわなかったし、読者も怒らなかった。だってある時期の『オリーブ』は裏表紙、全面に只、毎回、飯田淳の新作ドローイングが載せられ、ロゴが入っているだけのパーソンズの広告。パーソンズがお洋服屋さんである説明すらなかったのですよ。見た目はカッコいいけど薄給、自腹で自社の服を購入しなければならぬから昼はシャケ弁ばかりと揶揄されたハウスマヌカン達も、プライドを持ってお洋服に携わっていた。彼等の涙ぐましい献身こそが、あの時代のパワーの根源だったのだと思います。

今、どれだけの販売員、エディターがお洋服に忠誠を誓っているのか? 才能のあるデザイナーや資金力のある企業だけではスゴいお洋服は作れないのです。

僕はかつて日本独自のラインを捏造する方針が赦せないとヴィヴィアンウエストウッドを辞した販売員のことも知っているし、デザイナーよりも詳しくメゾンを語れるロリータブランドの古株販売員さんが今もいるのを知っていますよ。履けない靴を大事に持つのは愚かしい行為かもしれません。でも実用を越境してしまう馬鹿馬鹿しさでしか辿り着けない場所もあるのです。愛なんてその代表格でしょう。信仰は履けない靴。履けないから買わぬが立派なら、見返りを得られる分だけ祈る者こそが敬虔な信徒となるでしょう。

僕がお洋服を書き続ける理由も、愛より他、ありませぬ。興味ないメゾンのお洋服を着る人物なぞ一切、登場させてやらないのです。なので女子の登場人物は、大体、ロッキンホース・バレリーナを履いておられます。

(5/20/20)