ゴンザレス三上さんとのギター・デュオ GONTITI はもちろん、中島らもさんとの「らもチチ」、クラゲ、桃、イカなどを愛し、ゴミを宝に変える「茶人」としても知られるチチ松村さん。本年7月6日「花形文化通信 ウェブ復刊の集い」にゲストとしてお招きし、演奏をしてくださったのはまだ記憶に新しいですが、じつは90年代、フリーペーパーの「花形文化通信」とも所縁の深い方なのです。ということで、かつての「はなぶん」との関わりから、最近ハマっているものまで、「花形文化通信」の塚村真美をまじえて、非常に濃〜いお話をしていただきました。読者のみなさん、ついてきてね!(丸黄うりほ)

チチさんと「はなぶん」の出会い

——7月6日の「花形文化通信 ウェブ復刊の集い」にご参加いただき、素敵な演奏をありがとうございました。

チチ松村(以下、チチ)  楽しかったです。緊張しました、久しぶりに。しかし、あのイベントによく僕を呼んだなと思いました。本当はね、今まで「はなぶん」に関わった人がたくさん出るイベントだと思っていたんです。自分は賑やかしにちょっと出るだけだと思っていたら2組しか出ない。えっ、と思って。そんなんお客さんけーへんで。だから、責任重いなと思って。

——イベントの企画のとき、どなたに出ていただこうかという話になって、いちばんにチチさんのお名前があがりました。

チチ え?それが、ようわからん(笑)

塚村真美(以下、塚村)  チチさんにはこれまでいろいろお世話になっていて、まず大学2年生のとき、1981年くらいに、楽屋番のアルバイトをしていたんです。服部緑地でのイベント終わりで、リーゼントの男前のボーカリストの人にけっこうしつこく打ち上げに来ないかと誘われて。どうしようと、箒もって困ってたら、近くで見ていたギターの松村さんというお兄さんが「行ったらあかんで」って。以来、チチさんを見たら、麻丘めぐみの歌が聞こえてきます。

チチ その人がこれ見たら気ぃ悪しはるで(笑)。いや、危なそうな感じがしたんかなぁ。塚村さんと初めて会ったのがそのとき。知り合って40年近いですね。

——GONTITI の結成は1978年、41年目ですね。

チチ そうです。でもGONTITIという名前はまだ付いていない。だからそのときはすでに三上さんとは出会っていたけど、僕はまだ本名の松村正秀でライブ活動していたんですね。

——GONTITIとかチチ松村と称するようになるのはいつ?

チチ 僕はそれまで一人で小さいライブハウスに出ていたので、そこに三上さんを呼んで二人で一緒に演奏することが何度かありました。そんなころ、ギター弾きが集まるコンサートに僕が呼ばれたんです。内田勘太郎さんとか中川イサトさんとか有山じゅんじさんとか、場所は阪急ファイブのオレンジルームでした。

——梅田ですね、現在のHEP FIVEの前身のファッションビル。オレンジルームは小劇場やライブもサブカルといってもメジャーでしたね。

チチ そう。だから、これは二人で出た方がいいな、と思ったの。その方がインパクトあるし、ほかのギター弾きの人もきっと注目してくれると。それで、ポスターを作るというから、三上さんに「本名でいいですか?」ときいたら、「ゴンザレス三上、でお願いします」って。えー!何それ!? で、僕らの演奏が終わったら、みんな「すごいヤツが出てきたな」と、三上さんのことを知った。誰や?ゴンザレス三上や、と。日下潤一さんデザインのきれいなシルクスクリーンのポスターに、「ゴンザレス三上」って書いてあったからね。

——松村さんが、チチさんになったのはその後なんですね?

チチ 毎日放送の「FRIDAY’S」っていう番組で、二人はエンディングの音楽を担当するようになっていたんですが、 DJ のマーキー(マーキー谷口)が司会やったんですけど、僕の名前をものすごく間違うんですよ。村松なんとかとか。で、僕も覚えやすい名前がええんちゃうかなってなった。三上さんに会ったときに『チャーリー・パーカーの伝説』っていう本をお借りして、才能が故に何をしても許されるチャーリー・パーカーいいなと思って、その後レコードを買ったら、「Chi Chi」っていう曲があった。ゴンザレスに対して、自分が名前をつけるんやったら短い方がええかなと。そこからですね。

——そして、ダイマル・ラケットがダイラケになるように……。

チチ そやね。その後、ゴンザレス三上 &チチ松村名義で何枚かレコードが出てるけど、勝手に縮んでいったんですよ。新聞なんかに出ても縮んだのが当たり前になっていって、自分たちで決めたわけじゃない。海外に行ったときも、 GONTITI っていう響きがミステリアスやって言われて。

サングラスをかけていないチチさんの写真が…!

——フリーペーパー「花形文化通信」は、1989年から1997年まで続いて、100号まで出ました。そのなかで、チチさんに出ていただいている記事をピックアップしました。まず、最初に出ていただいたのが 1989年6月の第1号で、「チチ&たまめ『王様の庭』の以心伝心」という記事です。画家の赤松玉女さんとの対談ですね。

塚村 この写真、チチさんサングラスしてないんです。

チチ 僕、サングラスしたんはね、90何年かからなんですよ。1枚目、2枚目、3枚目のアルバムはまだ素顔なんです。4枚目くらいからサングラスをかけだした。なぜかと言うと、このままいくとひょっとしたら人に顔を知られる存在になるかもしれんと思った。それはものすごく嫌やったんですよ。道歩いていても「あいつや」って言われるじゃないですか。僕はゴミを拾ったりしている。普通の人が恥ずかしいと思うようなことをやっている。「あいつ、あんなん拾うとった」とかさ、そういうことになったら嫌やなと思って。なるべく素顔は知られんと、普通にいきたい。そのほうが自由だと思ったんですよね。それでサングラスをかけだした。

——じゃあ、このころはサングラスかけてない写真も大丈夫だったんですね。1990年5月の第12号掲載の、 GONTITI インタビューの写真もサングラス無しなんですが。

チチ うん。それやったらまだサングラスかけてへんわ。

塚村 いや、これはね、刷り上がりを送ったら事務所から電話かかってきて、「サングラスしてへん」と。「これは具合悪い」と。

チチ なんで僕サングラスしてへんねやろ?

塚村 これ、なんかのライブの後で。すごい夕暮れてしまったんですよ。中之島の阪大医学部(中之島美術館予定地)のあたりなんですけど、サボテンがええ感じで、ここで撮ると決めてたけど、予定より遅い時間になってフラッシュたいて撮ったんです。暗くて誰も気づいていなかった。「 Devonian Boys 」のときです。

チチ レコードジャケット見て、してなかったら、そのときはまだしてなかったかもしれない。

塚村 事務所の立ち合いもなかったし、掲載もされてしまっていたから「まあええわ」ってなった。そのころはまだ、そんなにガチガチじゃなかったですね。

チチ 玉女さんとの対談のほうは、覚えてなかったなー。

塚村 玉女さん、いまや京都市立芸術大学の学長ですからね。

——赤松玉女さんとの対談は、お二人が意気投合されている感じがすごく伝わってきますね。

チチ 僕、額縁と画材の会社にいてたんで、玉女さんの絵を画廊で見て、めちゃめちゃすごいなと思った。好きな感じ。お近づきになりたいなと思った。そのうち、マツモトヨーコさん、田仲容子さんと3人でよく活動されていたので、3人のイベントに出て歌ったこととかありますね。

塚村 これは、玉女さんたちが当時3人でアルティジアという画家のグループをつくっていて、その展覧会をするというので、記事でとりあげようってなって。なら、チチさんと対談してもらおうかってなったと思う。

チチ そんなこともあったんですね。

塚村 チチさんもこのイベントに出ていたと思う。わりとみんな仲よかったですよね。タナコマ(田仲容子)さん、亡くなったけど、タナコマのお家でチチさんに会ったこともある。

チチ 伊部さん(ギャラリー14th moonの伊部寿夫)とか保山さん(当時は保山宗明王。後・保山宗明玉、現・保山ひャン)とかも、そのイベントで初めて会った。

——それにしても、赤松玉女さんとチチ松村さんって、ものすごい大物対談ですよね。

塚村 このころは大物じゃなかった。今回、声かけたのもそんな感じだったんです。声かけやすい人で有名な人で交通費のかからない人。

中島らもさんいわく「田ウナギみたいやな」

——つぎにチチ松村さんのお名前が出ているのが、1989年の9月、第4号終面に掲載のイベント広告です。「すっとんきょで蹲踞」という繁昌花形本舗主催のイベントで、クレジットが「中島らも& TITI 松村」となっています。このときに、「らもチチ」が生まれたのでしょうか?

印刷:スタジオ白旗

塚村 それより前にお二人はラジオでおしゃべりされていたと思うけど、ステージでは見たことがなかったような気がします。

チチ これ、どこであったやつですか?

塚村 心斎橋のミューズホール。チチさんが自転車をこいで演奏しています。

チチ あー、やった! そしてこれは、宮田五郎兄さん。

——誰ですか?

チチ 自転車の愛称です。ミヤタ製で、鍵の番号が5623だったから。五郎兄さん盗まれてしもて……。

塚村 カゴに紙?新聞紙が写っています。

チチ 後輪のタイヤと泥よけとのすき間に、紙を挟んでおいて、自転車をこぐんです。速くこぐと高い音が出て、ゆっくりこぐと低い音が出る。その音で演奏するんです。らもさんのシタールにあわせて演奏したんやなあ。

——らもさんとはいつ出会われたのですか?

チチ 僕がらもさんと初めて会ったのは、よみうりテレビの「どんぶり 5656」の集まり。で、FM大阪の「中島らもの月光通信」のゲストで出たり、そのあとリリパット・アーミーっていう芝居やってはったでしょ、それにゲストで出たり。らもさんはね、僕のことを「こんなやつ、よく生きているな」と思わはったんやと思います。「おまえみたいな、世の中のことをよくわからんやつ」と、心配しはったんと違うかな。で、「面白い」と思わはった。それで、2人でしゃべっているのが面白いと思ったので「らもチチ」でラジオ、有線もやったし、東京のテレビでもやったし。

——「らもチチ」の本が出たのはもっと後ですか?

チチ ラジオなんかでしゃべったのをまとめたのが本になったんです。

——「らもチチ」と呼ばれるようになったのは、このイベントのあった1989年ぐらいからですか?

チチ 一般的にはもうちょっと後かもしれませんね。とにかく、らもさんは僕のことを「何やこいつ」と思わはったんでしょうね。らもさんの本を読んだら、僕のことものすごい変人に書かれている。

——チチさんのご本『それゆけ茶人』でも、らもさんがチチさんを「田ウナギ」と呼んだりされていますね。というわけで、つぎは「花形文化通信」の1993年6月号、第49号です。ちょうど『それゆけ茶人』を出されたばかりのころの著者インタビューですが、そのタイトルが「それゆけ田ウナギ」となっています。

チチ これね、らもさんと一緒に上海に行ったんですよ。そのときにはもう「らもチチ」はできていたと思うんですよ。僕が『それゆけ茶人』という本を出すので、らもさんとの対談を本の最後にいれたら面白いなということで、一緒に上海に行ってしゃべったときに「おまえ田ウナギみたいやな」と。

——上海で田ウナギを食べて?

チチ そうです。だからもうそのときには「らもチチ」はあったんでしょうね、93年。

——私、個人的にこの本を愛読しているのですが、田ウナギのくだりが何度読んでもよくわからなくて。らもさんが、いきなり田ウナギと言い出して。

チチ らもさんは天から降ってくるんで、ばーっと言いはるんですよ。天才的ですよね、言葉の使い方が。

——チチさんはその言葉を受け入れてはりますよね。このインタビューのタイトルも田ウナギですし。

チチ らもさん、僕のことはすごい気に入ってくれてはったから。

——素晴らしいコンビ。 チチさんの音楽活動のコンビが三上さんとすれば、不思議なものが好きな人としては、中島らもさんがいちばんいいコンビだったんじゃないですか?

チチ そうですね。らもさんはやっぱり知識が豊富じゃないですか。すごいいろんなことをよく知っているし、本もよく読んではるし。僕は自分の好きなことしか頭に入れないじゃないですか、あとはからっぽなんで。それで、質問とか、らもさんにしたら、めちゃくちゃ面白いみたいです。「なんでそんなこと聞くんや?」みたいな。らもさんにしてみたら「おまえそんなことも知らんでよう生きてきたな」っていう感じがよかったんじゃないですか。
らもさんが笑うことってあんまりないんですよ。それを笑わしていたというのはあるね。だから気持ちよかったっていうのはあるんじゃないか。らもさんを本気で笑わすっていう。「めずらしい。こいつ変やな」。

——田ウナギというのは、すごい尊称で、相手を讃える言葉だったんでしょうね。「つかみどころがない」と、らもさんに言わせるというのは。

チチ ほんまにつかみどころがないと思いますよ、僕は。なんでしょう、はっきりとした自分の主義主張がないですもん。

——え、そうですか?

チチ そうですよ。

——うーん。素直に聞けないんですが。

 

※「その2」に続く。こちらから