30余年の歴史において、かげになり日向になり女性スタッフ陣の働きっぷりは、ベアーズにある種の潤いを与えてくれた。
その最古参に登場いただこう。(監修:山本精一/取材・構成:石原基久)

愛犬モモ(膝に乗っかっている)とジュン(舌でペロリ)と共に 1993

愛犬モモ(膝に乗っかっている)とジュン(舌でペロリ)と共に

 

──保海(やすうみ)さんといえば、元々はエッグプラントのスタッフでしたよね。C.C.LIARってバンドもやってて、奥成くんの後任としてベアーズのPAを任されて……数えること四半世紀!
保海 ベアーズに初めて足を踏み入れたのはおそらく88年10月1日の、花電車、想い出波止場、マニッシュトーンのライヴ。C.C.LIARはマニッシュトーンとよく対バンしてたんで、よく観にも行ってたんですね。で、C.C.LIARも出るようになる。ベアーズで初めてPAした日は憶えてないんだけど(笑)。
──どういう経緯でベアーズのPAになったんですか?
保海 奥成さんが〈クリアスポット〉というPAの会社を起ち上げたんですね。メンバーは、前さん(前川典也)、サーバート・ブレイズの藤原(弘昭)くんたち。そのチームに誘われてエッグが閉まった後、90~91年頃、サンホール(87年から心斎橋アメリカ村にあるライヴハウス)、ベアーズ、ビート・オブ・アベニューとかライヴハウスのPAを任されるようになって。一番面白いのがベアーズだった。やっぱりエッグの流れみたいなものを継承してるところもあったんでね。で、ベアーズに残ることにした。
──知ってるバンドが多かった?
保海 それもあったけど。単に音を出すというより、バンドと一緒になってその場の空間を作るってのが好きなので、そんなのを任せてもらえるのがベアーズだった。突拍子もないのが面白かったし。
──機材は大丈夫でしたか?
保海 初期の最悪の状態はもうなくなってました。エッグからもらったのもあったから、ギターアンプがとんでも何発か換えがある状態でしたね。あの当時にしたら、必要最低限なものは揃ってたと思います。

 

1993年8月6日、来日したブルータル・トゥルースのシークレット・ライヴがベアーズで行われた。中央は客にもみくちゃにされるケヴィン・シャープ。PAは保海が担当。ライヴ中、何度か電話があったので、ライヴ終わりで家に電話すると、親父さんが亡くなっていたという。

 

──長い歴史のなかで印象的な節目みたいなものはありましたか?
保海 94年頃。往年の顔ぶれがプッツリいなくなった時代があるんですよ。チケット・ノルマを始めたのが原因になるのかな。メジャーに行ったバンドもあったし。それはそれで若いバンドが出れるようになったという側面もあって。良かったといえば、良かったんですけれど。ちょうど壁ちゃん(壁田圭一)がブッキングしてた頃でハードコアな彼の色が出てましたね。エッグのあった頃は中学生くらいの新しい世代。一方ではローファイ/スカムの人たちもずいぶん出るようになってたし、ノイズ、歌もの……混沌としてましたね。そのあたりの人たち、いまだにやってる人、結構いますよ。その頃、山本(精一)さんはベアーズを紹介する時、「アジアで一番ヘンな店」というフレーズを使ってたと思います。
──以前Gスコープで取材させてもらったとき、「エッグが『ついてこい!』って店だったのに対して、ベアーズは『自分らで作ろう!』みたいな店」と保海さんは例えてるんですけど、そのへんを具体的に教えてもらえますか?

 

G-SCOPE 15号(1996年11月発行)に掲載された保海インタビュー

G-SCOPE 15号(1996年11月発行)に掲載された保海インタビュー

 

保海 そもそも山本さんはツアーでしょっちゅういなかった。津山(篤)さんは夏になると山に行きっぱなしだし。私と同世代のスタッフ……石隈(学)くん、壁ちゃんで考えたのは「いかにして利益を出すか」みたいなことで(笑)。ホール・レンタルに目をつけて。93年頭の土日はほぼほぼ朝から昼までレンタルしてた。レンタルの日は朝10時から地方の……通常ブッキングでは出られないハードコアのバンドたちがビルの前にクルマを駐めて、ワーワーやってる。ヤンキーもBOOWYをやればモテる時代ですよ。で、夕方16時になると、レンタルのバンドとお客さんのハケと夜のバンドさんの入りが重なって入口付近はカオス。ビルの上はマンションやからレンタルのたび苦情が来る。1日に何べん「そこにはたまらないでください」って言ったことか。なかでも、「山本さん」っていう新歌舞伎座の髪結でホモのおっちゃん(M.C.BOO『がんばれ!ベアーズ』に詳しい)が強烈で手に負えない。けど、山本のおっちゃんは壁ちゃんがお気に入りやったから、毎回、壁ちゃんに対応を任せて何とか乗り切るみたいな……。
──いい話ですね。
保海 で、レンタル路線は当時のバンド・ブームのおかげで思った以上に利益が出て。100人以上お客が入るとか珍しくありませんでしたからね。そういうので機材が揃っていったんです。休みなしで働いてましたから、ご褒美ってことで、石隈くん、壁ちゃん、私と、壁ちゃんとこ(DUG REVENGE)の折目(昌之)くんとで93年4月、ニューヨークに行かせてもらった。ちょうどベアーズに1週間ほど防音工事の予定が入ってたんですよ。ニューヨークではCBGBでキャロライナー・レインボーとかを観ました。
──ベアーズ・スタッフ・ニューヨーク視察団ですね。
保海 その時の防音工事で受付からPA卓裏に通じるドアができた。防音工事いうくらいやから、どんな立派なドアかと思ったら、普通の家と同じ(笑)。ビルの管理人さんが拾ってきたらしい。この管理人さん、お茶目な人で、受付んとこのシャンデリア風の照明も管理人さんがくれたものなんです。共通点はレトロで昭和(笑)。ベアーズ・スタッフではその後、グァムにも行った。グァムは、NYにも行った3人に、山本さん、その後、新しくスタッフになった(藤山)正道くん、殿井(静)さんという顔ぶれ。山本さんは違うと思うけど、わたしはアットホームな店にしたかったいうのがあったから。スタッフで旅行ができたのは、うれしかった。出演バンドにはスタジオで練習するような感じでライヴをやってほしいってのもあって。ともすれば、お客さんが二の次になってしまうんだけど……。ベアーズはスタッフがほぼほぼプレイヤーの店なので、出演バンドの気持ちに寄り添うようなところはあるんです(笑)。
──ニューヨーク、グァムだけですか、スタッフ旅行は?
保海 海外は2回だけですね、あとは天川村や能勢にキャンプに行ったりもしましたよ。残念ながら、バンド・ブームはどっかに行ってしまいましたけど。

 

△1995年4月マンスリー

△1996年5月マンスリー

△1999年1月マンスリー

△2000年9月マンスリー

△2001年12月マンスリー

 

──スタッフも変わりましたね。
保海 その後も、三沢(洋紀)くん、池永(正二)くん、道下(慎介)くんとかいろんな人たちがそれぞれの個性で時代を作りましたね。
──バンド気質も変わりましたか?
保海 エッグの頃は、バンドしてないと死んでしまうみたいなバンド、生活のすべてがバンド中心というバンドが多かったと思うけど、いまはそうでもない。他にもいろいろやっててバンドもそのひとつという感じ。別に手ェぬいてるわけじゃないんだろうけど。そんな中、バンドをしてないと生きてけないというバンドがいまも残ってて……ベアーズに出てる気がする。オニ(佐伯真有美)にしても(石井)モタコにしても「音楽やりたい」……そう言ってますから。

 

*メモ

  • 壁田圭一:DUG REVENGEで活躍。
    藤山正道:スパナで活躍。
    三沢洋紀:LABCRYを経、LETTERほかで活躍。
    池永正二:あらかじめ決められた恋人たちへ、ほかで活躍。
    道下慎介:LSDマーチを経、オシリペンペンズで活躍。
    佐伯真有美:あふりらんぽのほか、ソロでも活躍。通称オニ。
    石井モタコ:オシリペンペンズ、手ノ内嫁蔵で活躍。こんがりおんがく代表

 

*参考 1992-2001年のベアーズ・スケジュール

(参考資料:エルマガジン1992年1月号~2002年1月号、G-SCOPE 1~15号ほか)作成:石原基久