オープン当初、店長・山本精一は一般企業のサラリーマンだった。高校生に替わりただのサラリーマンが、ライヴハウスを運営できる不思議!(監修:山本精一/取材・構成:石原基久)

▲着てるTシャツは『ウルトラQ:2020年の挑戦』のもの。来年2020年早々には「渚にて」の10作目となる新作がリリース予定。

 

――山本(精一)さんほか、津山(篤)、奥成(一志)ら初期ベアーズに関わる人たちが最初に顔を合わせるのが、リアルクールオフィスが企画・主催してたイベント『なしくずしの共和国』になるんですね。

▲柴山自主企画による『なしくずしの共和国』のチラシ。主催はリアルクールオフィス。

柴山 『なしくずし──』は、87年を皮切りに、88年、89年と3回やったボクの自主企画。もともとは同志社大学に「ドラック」(DRAC:同志社レコード音楽研究会)というサークルがあって。そのメンバーだった松原(健)くんが「ライヴハウスに頼らへんイベントをやりたい!」という志で〈REAL COOL TIME〉って企画を始めたのが最初。

第1回は大阪駅前第3ビルの地下にあった自由空間っていうフリースペースで87年3月14日、ボアダムス、イディオット・オクロック、ハニー&ザ・コスチューム、やけっぱちのマリアの4バンドでやった。ボアダムスに山本くんが入ってすぐくらい。まだ、ボアダムスもエッグプラントやどん底ハウスに出たりするくらいで、動員もそんななかった時期。

その頃、松原くんは広告代理店に勤めてて、時代はバブルやし、ええ給料もらってて。山塚(EYE)くんや田畑(満)くんに会ったらメシ食わせるみたいな存在で「気合入れてやらなあかんぞ、ボケ!」みたいに可愛がってた。前回、奥成くんがボアダムスのPAを鬼市場でやったとか言うてたけど、あれも〈REAL COOL TIME〉……その第5回。「普通にライヴハウス出てるだけではあかん」「自分らで京都、大阪を盛り上げていこう」……集まって企画会議みたいなんして、ボアダムスとかイディオットとかを応援していた。

ボクはその頃、イディオット・オクロック、やけっぱちを掛け持ちでドラム叩いてて。81年頃にはコスチュームでもギター弾いてたこともあってんけど、メジャー志向な感じがなじめなくて。松原くんの路線とは別にもうちょっとアングラな……向井(千恵)さん、工藤冬里くんとかそっちの方を推したいな……と始めたのが『なしくずし──』だった。松原くんとは「お前は勝手なことばかりやる」としょっちゅうもめてた。まだお互い20代やし血の気も多かったから(笑)。

で、イベントも回を重ねてくると、毎回、会場を押さえるところからやってたのでは、時間と手間がかかり過ぎる。それが面白いってとこもあってんけど、土日は無理とか、半年以上前には会場を押さえなあかんとか、なかなか思うようにはでけへんし。そんなところに渡りに船というか、山本くんがライヴハウスを任されるって話を耳にする。

――それがベアーズですね。ハレルヤズが最初にベアーズに出たのは87年4月。界隈のバンドでは結構早い。

▲1987年 ハレルヤズ チラシ

柴山 けど、それは山本くんに声をかけられたんじゃない。Si-Folkの吉田(文夫)さんから話があった。「トラッドと即興やる変なので出たいんやけど」「難波の小さなライヴハウスで」みたいな話で『EL MAGO LIVE』ってシリーズをやってたのは吉田さんとは別のバンドの人。組み合わせもへったくれもない。その日にカラダの空いてるバンドが集まっただけみたいな……。お客さんも確か一ケタやったはず。初めてベアーズに行った時、記憶にあるのは、PAの人は愛想の悪い人で、オーナー(民野政道)が雇った人になるんかな。受付から中に入る時、「土足厳禁です。ここで靴脱いで」と言われて靴脱いで中に入ったこと。靴脱いで入るライヴハウスなんて聞いたことない。土足OKなのはステージだけ。お座敷ライヴハウスや。寝そべってライヴが観れる。ま、いまでも床に寝て観てる人もいるけど(笑)。

――受付で靴を脱ぐ……その話は初耳ですね。

柴山 当時、山本くんもサラリーマンやし。休みは日曜・祝日だけ。週休二日ですらない。引き受けたものの、どうしていいのかわからへんって感じだったん違うかな。松原くんは山塚くんと親しかったから、山塚くん経由で山本くんと話して。平日はリアルクールのスタッフが日替わりで店番したらどうやって話になる。週1~2回なら、早めに仕事抜けて夕方5時くらいには入れるやろってシフト組んで……。

――スタッフは何人くらいいたの?

柴山 松原くん、津山くん、ボク、職場が梅田だったコスチュームの森田(直)くん、あと女のコも含めて5人くらい。その体制で88年春頃からベアーズに入るようになる。軽音の夜の部みたいな感じ。お金も取るわけやから、たくさんお客さん来たら交通費くらいはバックできるで、みたいな。

思い返してみれば、ベアーズの話を聞く半年くらい前に、やけっぱちのマリアの「ベース募集」のチラシに連絡をくれたのが奥成くんだった。2度ほどスタジオ入ったけど、ベーシストとしては使い物にならなくて。けど、「PA会社で働いてる」とか言ってたのを憶えてて、2回目の『なしくずし──』をやる時、連絡したら、機材一式トラックに積んでやって来て。身内価格で安くやってくれた。で、PAなら使えそうって(笑)。ベアーズの話が出た時も「PA探してる」って声かけたら、「ええですよ」ってすぐ返事くれて。多分PA会社でこき使われてたんでしょう。倉庫に眠ってる機材を退職金がわりにもらってきたとか言ってやってくれるようになった。

――リアルクールはベアーズのブッキングには関わった?

柴山 関わってない。みんなでシフト組んで「盛り上げていこう!」と言ってたのに松原くんは仕事が忙しくて顔出さへんし。そうなってくると、引け目もあるからだんだん遠ざかるようになって。結局……リアルクールは分裂。それと入れ替わるように奥成くんがPAになったり、ベアーズ側の体制が整ってくる。そうなると、ボクらが口出す必要なんてないから。ボクなんかは出演に専念するようになる。

――ハレルヤズは山本さんの想ひ出波止場と合体。ハレルヤ波止場を経て想い出波止場になる……。

▲1988年 想ひ出波止場 チラシ

柴山 そうやね。想い出波止場は精力的にライヴやっていくって時期やってんけど、そのあたりボクは体調悪くて、88年8月にエッグプラントでライヴ・レコーディングした音源をLPで出すいうてるのにエッグに向かってる途中、パニック障害の発作が出て……駅から「悪いけどきょう行かれへん」って山本くんに電話したり。そういうのが重なって「柴山あかんな」って新しいドラム入れてライヴ、ガンガンやろうってなる。それで入ったのが(長谷川)チュウくん。やめたくはなかったけど、仕方なかった。※1988年末、アルケミーから出たオムニバス・アルバム『ウエストサイケデリア2~WALK ON WILD WEST』には柴山がいない想い出波止場が収録されている。

▲1988年11月16日 ベアーズ 想い出波止場 津山(b)、柴山(ds)、山本(g)  提供:CLEAR SPOT

▲1988年当時の想い出波止場宣材写真 左より津山・山本・柴山

――チュウくんは90年前後、ベアーズ・スタッフとしても津山くんの下でドリンク調達係をしたりしてた(笑)。渚にてでのベアーズ・デビューは?

柴山 97年1月。渚にては……最初はボクのソロ・プロジェクトとして92年頃からオメガサウンドで多重録音とかしてて。1stアルバム『渚にて』ができたのが95年。できたらライヴもやりたくなって、メンバー集めて。最初の対バンは羅針盤だった。99年にはMASONNAとも対バンしてる。そういうのはベアーズならではの企画やね。

▲1999年 渚にて チラシ

 

*メモ

  • 山塚EYE:ボアダムスほかで活躍。EYE名義で、DJ、アート、さまざまに実験的なプロジェクトを展開。
  • 田畑満:のいづんずり、ゼニゲバ、アシッドマザーテンプルほかを経、20 GUILDERS、ZZZooほかで活躍。
  • 松原健:リアルクールオフィス代表。広告代理店勤務。2003年逝去。
  • 吉田文夫:70年代からアイリッシュ・トラッド啓蒙に尽力。Si-Folkほかで活躍。
  • 長谷川チュウ:想い出波止場、ボアダムス、D.M.Vほかを経、コラプテッドで活躍。
  • オメガサウンド:大阪・中津にあったエンジニア・小谷哲也が主宰するレコーディング・スタジオ。ボアダムス、S.O.Bをはじめ、想い出波止場、有などなど、多くのバンドが世話になった。小谷は山本と高校の同級生でもある。

 

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