こんなにさらして大丈夫か!

『旅する劇団・幻の日本少女歌劇座を追って』
鵜飼正樹著 
創元社発行(2026年1月20日)

 

鵜飼正樹さんにインタビューしたのは、2019年夏のことでした。

大正後期から昭和30年ごろまで、大和郡山市と宮崎市に拠点を置きながら、全国各地を巡業していた旅回りの少女歌劇団「日本少女歌劇座」を調査しているという話で、その結果、わかったことについて本を書くと聞いてから6年半。ようやく2026年の1月20日に出版されました。

そして、読もうとしたところ、こ、これは!この本は写真集?資料集? B5判、184ページ、オールカラー!で、絵葉書やチラシ、ブロマイド、関係書類、当時の新聞記事などが満載!

本のチラシ(表)

「はじめに」で、鵜飼さんはこう書いています。
「日本少女歌劇座について書く最初の本を、資料集というスタイルで出版することにしたのは、何よりもまず、多くの人に資料を見てもらいたいと考えたからである」

そして、「おわりに」にはこうあります。
「私がお目にかかることができた元女生徒たちは、現在80代後半から90代だ。彼女たちからうかがったお話は、この本にはまだ十分に生かせていない。コロナ禍により、取材は一時中断せざるをえなくなったが、もう1冊、女生徒たちの物語としても、早く日本少女歌劇座のことをまとめなければならないと考えている」

2019年のインタビューの後、鵜飼さんは宮崎県に何度も通い、美しい老婦人に会っています。それはニュース映像でも流れていました。そして、そのニュースによれば、台本に乗っていた歌詞メロディもわかったはず。戦後に活躍した劇団員(元女生徒)に取材した記述はありませんでした。さっそくですが、次の本が待たれます。

それから、圧巻の鉄道マップがない!なんでだ!と思ったら、ありました!
p.35〜p.38の4ページがパノラマの両観音開きになっていました!「昭和3年の巡業地図」。
これが、第2章[昭和3年  全国巡業を追う]の中心になっている、鵜飼さん渾身のマップです。
まさに調査資料。それが、その時のチラシとあわせて見ることができます。ほかに、付録の「日本少女歌劇座小史」は、社会の動向や、大手の宝塚、松竹の少女歌劇団、また地方の少女歌劇団についても記述があり、時代の流れの中でとらえることができます。

各章のテキストは、長いキャプション程度ですが、キャプションがあることで、少女たちの顔と名前、撮影された場所がわかり、ページをめくるごとになんとなく主要な少女の顔を覚えてしまいました。

本のチラシ(裏)

そこで、わたしが気になってしまったのが、山路妙子さんです。全部で6章あるうち、第3章が[山路妙子の時代]となっていて、鵜飼さんは1章を山路さんに割いています。初期から10年以上、ずっと主役を張っています。

山路さんの顔を見ていくと、大正10年代はにっこりしているのに、昭和に入るとあんまり笑わなくなっています。ブロマイドに鵜飼さんはこんなキャプションをつけていました。
「昭和10年前後か? 以前よりかなりやせており、体調が思わしくない時期だったのかもしれない」
昭和9年、10年のほかの写真もやせていて心配。また見ていくと、昭和11年2月の写真のキャプションにはこうありました。
「山路はこれが年月の確認できる最後の姿で、ほどなくして亡くなったと思われる」

戦後の写真はみんなの顔が明るい。戦後は少女というより、大人の女性が活躍しています。とても晴れやかな笑顔でぜんぜん心配はありません。
しかし、山路妙子さんの時代は厳しかったのでは、と想像します。あくまでも想像です。

あらためて、昭和3年の巡業地図を見てみました。地図の解説から一部抜粋します。
「正月に九州を出発して、東へ、北へと進み、初夏から秋にかけては、東北から北海道を巡業する。その後、西へと戻る。(略)前半は太平洋側、後半は日本海側と分けられている」
「1年間の公演先は、37都道府県(現在の行政区分にしたがう)の134か所」
「休演日をもうけることなく近隣の都市を数珠つなぎにして、公演している」

地図には日程と公演場所が書き込まれていて、そこから公演のない日を書き出してみると、2月20日、2月26日〜29日、4月8日、5月22日、6月11日〜12日、7月5日、7月10日、8月17日、8月30日、12月31日の、計14日。うち、7月5日と8月30日は北海道への船移動。2月の終わりも四国への移動日が含まれているかと思われますが、2月8月はいわゆる「ニッパチ」で客の入りがよくないので休みになったのかもしれません。
つまり、1月、3月は休みなし、9月〜12月はまるまる4か月休みなし、という過密スケジュール。昼ごろ、駅に着いて宣伝カーとか宣伝人力車とかでまちを回り、午後5時開演という具合。

ついでに、この年、12月30日の姫路で終わっていますが、昭和4年のスケジュールを付録で確認すると、1月1日、岡山でスタート、広島から、2月〜3月は九州。さらに4月〜5月は台北、大連、旅順、遼陽へ、7月は京城とあちこち外地を回って、東北、信州で12月を迎えます。

なんという過酷な旅!というか労働? 当時の旅芸人というのはそういうもの? 今の人気芸人さんも休みがないという話を耳にします。夏は涼しい北海道、冬は暖かい九州〜瀬戸内と思うとよい旅だったのかも? 外地への巡業は戦中も続いていました。

山路さんは、昭和7年(1932年)9月の新聞記事(「何を語る  歌と踊りのキャラバン  日本少女歌劇座のスター達の話を聞く『福島民報』)では22歳とあるので、明治43年(1910年)生まれ。掲載された資料から、2期生で、大正12年(1923年)には舞台に立っていることがわかります。11歳で入団して12歳でデビュー、昭和3年(1928)年は18歳で、昭和11年(1936年)に亡くなっているということは、25〜26歳だったことになります。

この時代の女性の労働については『女工哀史』が思い出されます。出版年は大正14年(1925年)で、同時代です。つい過酷な労働や待遇を想像して心配してしまいます。
前述の新聞記事で山路さんは、「夢のようなあこがれを抱えて来ると現実の哀しみに打ち壊されてしまひます」と発言しています。現実の哀しみとは?心配です。

そして、とても心配なのは、山路さんの白い顔。これは白粉(おしろい)では?歌舞伎役者が使用していた鉛白粉だったのでは?あくまでも想像です。
「明治末期から大正にかけては、医学雑誌のみならず、婦人雑誌などでも鉛白粉の有毒性が盛んに取り上げられるようになりました。昭和5(1930)年10月の内務省令第30号により、鉛白粉の製造は昭和8(1933)年12月末まで、販売は昭和9(1934) 年12月末までと定められました」(国立国会図書館 本の万華鏡 第29回 めーきゃっぷ今昔-江戸から昭和の化粧文化-より
販売されていたのなら、使っていたかも?とすると、鉛中毒が原因で亡くなった可能性もあるのでは?と想像してしまいます。あくまでも想像です。当時、蔓延していた結核だったかもしれません、もう、ほとんど妄想です。

しかしながら、笑わない物憂げな顔も、大正ロマンの竹久夢二式の美人画に寄せるために、わざとアンニュイなポーズをとっていただけかもしれません。

本の表紙にはこうあります。

「かつて日本中を魅了した謎多き少女歌劇団 その解明の幕が開く!」と。鵜飼さんは謎を解いたわけではありません。謎解きのための資料の封を切ったのです。

数々の謎がある中、最大の謎は、第6章[謎多き経営者・島幹雄]。鵜飼さんは集めた資料や写真を、その謎を謎のまま、さらしています。
見れば見るほど、怪しい(個人の感想です)。特にp.143の巡業専用列車の専有スペースでくつろぐ島幹雄(昭和10年)の写真など、引いてしまいます(あくまでも個人の感想です)。
戦後の国鉄三大事件のひとつ、松川事件もからんできて、松本清張は「怪人物」と記しているといいます。

また、当時のプログラム等には、現代では差別的、不適切と考えられる表現が多々あります。また、「宝塚姉妹座」と堂々と刷ってあり、宝塚歌劇団姉妹座とは言っていないというような、アウトっぽい表現も。そんなこともいろいろ含めて、日本少女歌劇座がさらけ出された1冊。

この本では、資料をさらしてはいるけれど、暴いているわけではありません。だから、想像や妄想が勝手にふくらんでしまいます(個人差があります)。

歌劇だけでなく、芸能史、地理、労働史、鉄道史、警察史、大正・昭和史、そして未解決事件などに興味のある方、識者の方にはぜひお読みいただき、想像ではなく謎を解決していただければ幸いです。謎につきあえなくても、この資料群はきっとそれぞれの研究の一助となるでしょう。また、時代考証のお仕事にも役立ちそうです。創造的なお仕事の方などは、妄想を膨らませてお読みになると面白いかもと思います。

(2026年3月19日)
by 塚村真美