鵜飼正樹さんは社会学者。若いころ、旅回りの大衆演劇一座に入り込み「大衆演劇への旅 南條まさきの一年二カ月」(未來社/1994年)を書いた。南條まさきは鵜飼さんの芸名で、“京大の玉三郎”と呼ばれ、舞台で脚光を浴びた。中村とうよう氏はこの本が出たとき書評に、京大出身の一人の芸人を失ったというような少々アイロニカルな文を書いたと記憶する。芸人にはならず学者の道を進んだ鵜飼さんが次に書いたのは「見世物稼業 安田里美一代記」(新宿書房/2000年)。ごっくんと飲み込んだ金魚を口から出す、ガソリンを飲んで火を噴くなどの“人間ポンプ”芸人を取材した。そして目下調査が進めているのが「日本少女歌劇座」だ。鵜飼さんのアンテナがキャッチした少女歌劇は、またしても大衆芸能にして、巡業の一座だった。(塚村真美)
いたいけな少女たちのブロマイドを入手
――「日本少女歌劇座展」が奈良県大和郡山市の市立図書館が主催して開かれています。数年前までは“謎”だらけだったのに、鵜飼さんが資料を集めたことで、謎のベールがはがれ全容があきらかになってきました。
大正11年(1922年)、大阪電気軌道(現在の近鉄)の生駒トンネル大阪側に建てられた日下温泉の専属歌劇団として誕生。温泉が経営不振となり、島興行社が「日本少女歌劇」を商標登録して郡山町(現在の大和郡山)に本社を置き、全国を巡業するようになる。戦前〜戦中は大日本全国、台湾や朝鮮、大陸にも巡業。戦後は宮崎に拠点を移して九州地方で活動、それは昭和30年代まで続いた。
どのように調べがついていったのか、順を追って教えてください。その存在に最初はいつ気づいたのですか?
鵜飼 20数年前、京都の百万遍の古書市で、29枚の絵はがきを手にしたんです。絵はがきというかブロマイドですね、「日本少女歌劇団」と書かれていて、住所は「奈良県郡山町」となっている。「これは怪しい」と。
――怪しいというのはどういう意味で?
鵜飼 旅回りの臭いがしたんです。
――嗅覚ですね。これまでの調査してきた体験が生かされています。
鵜飼 その後は、古本屋の目録を気にしながら、3、4年に1つくらいの割合で、ブロマイドやパンフレットなどを集めていました。
――ものすごいゆっくりなペース。本腰が入っていません。
鵜飼 本気で集めだしたのは、2006年に「少女歌劇の光芒 ひとときの夢の跡」(倉橋滋樹 辻 則彦著/青弓社)が出てからです。その本によると、宝塚歌劇とOSKのほかに日本各地の温泉地などに20くらいの少女歌劇団があったらしいんですが、日本少女歌劇団については2頁ほどしかなくて“謎”だと書いてあったんです。あ、これ僕、資料もってる!と。それで著者の倉橋さんに連絡しました。それからですね、ネットオークションで落としたりしはじめたのは。
――そのころ一度、鵜飼さんに資料を見せていただきました。私が大和郡山の高校の出身だからというので。
鵜飼 あまり興味をもってもらえませんでした(笑)
――はい。ちょっと怪しい、と思いました。怪しいというのは、いかがわしいというような偏見です。ブロマイドの少女の顔がなんというか、垢抜けてない、とてもかわいいとは言い難い。あくまでも初見の私見です。
鵜飼 大和郡山でほかにツテがないので、興味を持ってもらえないのは困りました。図書館に行ってもそんな資料はないと言われるし。ただ、「大和郡山市史」の近代のところに2行だけ、「長らく『日本少女歌劇』を率いていた島幹雄の特異な活動も見逃せない」と書いてあったので、これは誰か知っている人がいるはずだと思いました。
大和郡山市の図書館で資料が見つかる
――で、何年かしてまた鵜飼さんから、大量に資料が見つかったので、大和郡山市で資料展をしたい、と相談を受けました。その時も疑いの目で資料を見せてもらいましたが、あ、これは大丈夫なやつかも、と思いました。図書館の資料は、郷土史家の故石田貞雄さんが所蔵されていたものと聞いたからです。絵はがきやカタログ、アルバムのコピーを見せてもらいました。
鵜飼 最初に図書館を訪ねてから2年くらい経って、資料が見つかりました、と連絡があったんです。石田さんのご遺族から預かった資料のうち金魚に関するものはすでに整理がついていたけれど、それ以外のものは未整理だったんですね。新たに整理された中に日本少女歌劇座のものがあったんです。僕が持っていたブロマイドなどは大正から昭和の一ケタくらいまで、石田さんが持っておられたのは昭和10〜20年代が中心で、戦後のものもあり、戦後も活動していたのか!とわかった。アルバムの写真からは、台湾や朝鮮、大陸に巡業していたこともわかった。これ、ちょっと誰にも知られていないけど、すごい規模で活動してた!ということがわかったんです。謎がとけてきたんです。
――図書館に行っておいてよかったですね。石田さんは高校の大大先輩にあたり地元の名士で確かな方です。(「花形文化通信」No.99/1997年8月号参照) 私もそのとき昔のパンフレットを見せてもらって、長年の謎がとけました。高校の頃からずっと気になっていた洋館が、日本少女歌劇座の本社屋だとわかったからです。丸窓がクジャクのステンドグラスになっていて、昭和11年(1936年)から宮崎に持っていた劇場が「孔雀劇場」と聞いて、なるほど!と。
鵜飼 そう!建物が残っていると聞いて、びっくりしました。
――で、資料展しましょうと。で、私の存じ上げる確かな筋の方、由緒ある寺院の光慶寺さんの岩田ご住職に話を聞いてもらったところ、それなら一番観光客の多い「雛まつり」期間がよいだろうと商工会や観光協会の方につないでくださって、老舗御菓子司の菊屋さんのギャラリーをご提供いただくことになり、小規模ながら展覧会ができました。市長も来てくださった。ちなみに市長は高校時代の社会科の先生です(笑)。
鵜飼 2016年3月ですね、その時はとりあえず自分の手持ちの資料を展示しました。
ほぼ年中無休!線路図に巡業地を重ねてみた
――展示の中で圧巻だったのは、鉄道マップです。今回も展示されていますね。
鵜飼 図書館から知らせがあったのと同じころ、ヤフーオークションで1年分のチラシが出ていたのを落札しました。昭和3年(1928年)1年分のチラシの束です。それを見ると1年中ほぼ連日公演している。年間37都道府県134カ所。1年間で数日空いている日がありますが、移動日でしょう。九州〜本州、本州〜四国、本州〜北海道の移動で1日空いていたりします。その移動を当時の線路図に落としてみたら、見事に重なる。鉄道で移動していたんです。歌劇団専用の貸し切り客車を利用していたようです。
正月公演を長崎でスタート、佐賀、熊本、大分、福岡とまわり、2月は山口、広島、3月は四国の愛媛と香川ののち、岡山、兵庫へ。兵庫の龍野を3月26日に打ち上げ、翌日から5日間は岐阜。その翌日は彦根で3日、長浜で2日、近江八幡で2日、京都・新京極で8日間、4月16日に打ち上げて、翌17日には松阪。その後、東海道沿いに東上し、太平洋岸を北上、津軽海峡を越えて北海道へ。7〜8月は北海道巡演。9月は東北を南下して、10月は北関東、10月末には新潟から富山へ、日本海岸を島根まで西行して、姫路で1年を締めくくっている。
――ものすごく綿密に計画されている。絵はがきには野球のユニフォームを着たのもあって、土地によっては公演のほかにファンの人たちと野球したりもするから、その段取り能力たるや、島社長のマネージメント力はただならぬものを感じます。
鵜飼 専属のオーケストラもいて、総勢70名近くが移動したようです。地元紙とのタイアップして、広告や割引券を出す。その土地出身の劇団員がいたら、「郷土訪問公演」と銘打って人気をあおる。駅での歓迎や、告知のための街宣など、周到な計画のもとに巡演して、各地で人気を得ていたようです。翌昭和4年には第1回満州公演を果たしています。
――ううむ。ところで、2016年の大和郡山での展覧会での収穫は?
鵜飼 歌劇団のことを知る方が3人、見つかりました。2人は舞台を見たという方でした。そのうちの1人は長年小学校の教員をやっておられた80歳を過ぎた方で、郡山劇場で見たと。郡山劇場は昭和9年の室戸台風でつぶれたとのことでした。島社長を知っている方は呉服屋さんで、よく着物を納めていたそうです。
――私としては2018年の台風で、元本社の建物が被害を受け、丸窓や、南の窓のところに囲いがされたままなのが気になっています。
宮崎での調査は成田さん頼み?
――2016年に大和郡山で展覧会をした後、鵜飼さんは宮崎に向かいました。
鵜飼 2017年の2月です。歌劇団は拠点を宮崎に移したから、これは行かないと、と。
――日本少女歌劇の移動に比べたら、ずいぶんゆっくりの移動です。
鵜飼 調査するにあたって闇雲に行っても仕方がない。地元に宮崎日日新聞というのがあるから、文化部の記者なら何かご存じではないか、と京都新聞の方を通じて紹介してもらいました。この成田さんという記者が画期的な働きをしてくださったんです。島幹雄の孫にあたる人、孫といっても養女の養子で、冨永(島幹雄の本名)の家を継いでる方ですが、その方を見つけてくださったり、宮崎日日新聞に少女歌劇の記事を書いた、地元の民俗学者の人を見つけてくださったり、歌劇の振付をしていた宮崎のモダンバレエの草分けといわれる方の娘さんを見つけてくださったり。そんなふうに、2017年の2月の宮崎では、いきなりすごい収穫があった。
――それ、全然自分で調べてない(笑)
鵜飼 しかし、それでいろんな人に会えたんですよ。で、夏休みと春休みには宮崎に行くようになった。2017年の8月には、ついに元劇団員の人が見つかりました。昔に記事を書いたという民俗学者の方が、1987年くらいに地元の放送局で放送された元劇団員の同窓会、というニュースのビデオを持ってらっしゃった。それについて聞いていくと、映像を撮っていた方の奥さんが元劇団員だったということがわかった。で、その人が宮崎の隣町に住んでいるということで、名字を教えてくださった。で、また成田さんに頼んで(笑)電話帳を調べてもらったら、その町にその名字の家は1軒しかない、と。すごくラッキーでした。その方、宮崎にいた航空自衛隊の人と結婚してたんです。ご主人は他所から来られたから、地元によくある名字じゃなかったんで、すぐに見つけることができた。
――またしても成田さん調べ(笑)
鵜飼 で、お会いしてお話を聞くと、戦後のことがかなりわかりました。たとえばこの3人(左から華村君子・北海道出身、吉野恵美子・山形県出身、雲野幸子・秋田県出身)は昭和10年代の3トップでしたが、華村さんと吉野さんは、戦後も劇団に残って後輩を指導していたということがわかった。
そして、最初に見つかった元劇団員の人のツテで、翌年の2月までに元劇団員の方2人にお会いすることができたんです。みなさん娘役ですが、お一人は長くいて幹部くらいまでいった。そのうち一人の方の話の中で、元幹部で、日本舞踊のお師匠さんが宮崎にいるということがポロッと出た。そして宮日新聞に戻った。で、なんとなく積んである新聞を眺めていたら、なんと4月に宮崎で日本舞踊の大会があると告知記事がある。で、成田さんに……。
――えー、また成田さんに!
鵜飼 そう、その方、若柳さんという日本舞踊のお師匠さんなので、この大会に行ったら消息がわかるんじゃないでしょうか?と。僕その時、来れないので、聞いてみてもらえますか、と。
――また成田さんに頼んだ!?
鵜飼 それがまたドンピシャで(笑)
――こらこら。
鵜飼 成田さんはその日、日本少女歌劇座におられた若柳さんをご存じないですか、というチラシを作って配ってくださったんです。
――すごい!成田さん!
鵜飼 で、若柳さんは宮日新聞から歩いて500mくらいのところに住んでらっしゃったので、80歳すぎておられたけど元気で、新聞社まで歩いてきてくださったそうです。
ひとりひとりの顔が見えてきた
鵜飼 若柳さんには、次の夏休みにお会いすることができました。幸いに元劇団員のみなさんは、アルバムを大事に残されていたので、大和郡山にはない戦後の写真が多数見つかり、集合写真に写っている方の芸名を教えていただくことができました。パンフレットにある配役と名前、舞台写真がどのプログラムのどの場面で、これは誰か、というようなこともわかった。例えば演目は「踊る孫悟空」で、若柳さんが猪八戒役だと。「飛びも飛んだりアルゼンチン」という場のこの人が女王とか、人食い人種とか。
――ふっふっふ。しかし、すごいプログラムですね。
鵜飼 ほかにこのファンクラブ通信のような機関誌を見ると、初期のトップスターだった山路妙子さん(富山県出身)は昭和10年に亡くなってることがわかる。
――若くして……。あれ?この人、春野麗子さんはOSKに行ってますね。
鵜飼 そうそう、この人ね、東京の松竹大谷図書館で調べたら、SKDに出て水ノ江滝子の相手役をしている。
――え、男装の麗人、ターキーの!すごい!
鵜飼 ターキーの相手役のお姫様役をずっとしてはって、歌と踊りと芝居が上手、と松竹の歌劇雑誌にも書かれている。松竹では吉川秀子という本名で出ていました。写真を見たら同じ顔でしょ?
――あ、同じです。出世されたんですね。
鵜飼 メジャーのステージで活躍した人がいたんですね。水ノ江滝子の手記をみると、私より10歳くらい年上だったと書いている。でも若くして病気で亡くなったみたい。
――そうですか。春野さんは大正15年に入団されていますが、宮崎の若柳さんは戦後の入団ですよね?ずいぶん時代が違いますね。
鵜飼 戦前は日本各地から入団していますが、戦後はやはり宮崎が拠点なので、宮崎の方が多いですね。若柳さんは延岡に住んでいて、昭和21年のお正月に戦後復興を勇気づける意味合いの公演を見たそうです。お父さんが劇場を経営していたので、日本少女歌劇座は子どものころから見ていたらしいです。戦後初めて延岡に来たときに入りたくなって、親に勘当されたけど15歳で試験を受けて入ったとおっしゃってました。その年の4月の新聞に女生徒募集の広告が出ています。
――女生徒!宝塚と同じですね。子どもが見て入りたい、ということはすごく素敵だったんでしょうね?
鵜飼 佐賀出身の方は、学校から団体でお弁当を持って観劇に行ったけれども、お弁当を食べる間のないほどスピーディーな展開に心を奪われて入りたいと思ったと。
まだまだ謎がいっぱい!日本少女歌劇
――戦後は健康的な感じがします。大正時代は、「おしん」じゃないけど、なんとなく身売りされたようなイメージを持ちました。
鵜飼 若柳さんがおっしゃっていたのですが、入団して先輩の付き人をしているころ、あなたたちは借金がなくて幸せね、というようなことを言われたと。つまり借金のカタにもらわれてきた人もいただろうし、私には借金があったということでしょう。辞めたくても簡単に辞められないようなかたちで入って来た人はいたんだろうとは思います。
――謎のベールがはがれても、また謎がわいてきます。だいたい島幹雄が謎すぎる!
鵜飼 松本清張の「けものみち」に登場する弁護士のモデルといわれています。
――それに、松川事件とのかかわりとか、やっぱり怪しいんじゃあ!?謎が謎を呼ぶ日本少女歌劇!?鵜飼さんには宮崎もですが、大和郡山の調査も、ぜひ続けていただきたいと思います。大和郡山といえば、ジッタリン・ジン生誕の地でもあります、そのあたりも、ぜひ調査をお願いします。
「旅する少女歌劇団 日本少女歌劇座展 ―大和郡山発 元祖ローカルアイドルの群像―」は、9月1日(日)まで、DMG MORIやまと郡山城ホール展示室で開催。開場時間は10時00分~17時00分、入場は無料。
8月31日(土)14時00分から同会場で、鵜飼正樹さん(京都文教大学総合社会学科教授・図書館長)による『日本少女歌劇座の35年 元祖ローカルアイドルの群像』と題した講演会がある。
詳しくはこちらの5項目(令和元年7月19日記者会見 [PDF:5,549KB]大和郡山市)