【インタビュー】管理人・ミュージシャン 森本アリ その2/7

ミュージシャンとして「三田村管打団?」や「音遊びの会」で活動しつつ、塩屋のまちを面白がる「シオヤプロジェクト」の主宰者として活躍中の森本アリさん。塩屋で育ち、ベルギーの芸術大学で学び、1997年に帰国。10年後、「旧グッゲンハイム邸」の管理人となり、塩屋のまちで動き出します。塩屋のアートの発電所のような存在となった旧グッゲンハイム邸が、どのようにして立ち上がったのか。じつは、旧グッゲンハイム邸はグッゲンハイム邸ではなかった(!)という、後日談も語っていただきました。(丸黄うりほ)

旧グッゲンハイム邸で(2026年1月29日)

2007年4月「旧グッゲンハイム邸」をデュルト森本家が購入

——ベルギーの芸術大学ERGを卒業後、日本に帰ってきたのはなぜですか?

森本アリ(以下、森本) 帰ってきたのは、ヨーロッパは冬が長くて寂しいからです。

それと、ステンドグラス作家である母の、右腕的なアシスタントの人が辞めることになって、ステンドグラスの工房を手伝ってくれないかと言われたんです。母は、その人の宿舎として「ブルーハイツ塩屋」というアパートの一室を持っていたんです。海の見えるいいアパートで、そこに住めるんやったらいいよって言いました。それで僕は母のステンドグラス工房で12年働きました。その、最後の2年は「アトリエ・ステンドグラス」と「旧グッゲンハイム邸」の仕事の掛け持ちが可能でした。

——旧グッゲンハイム邸の管理人を任されることになったのは、どういういきさつだったのでしょうか。

森本 古いものが大好きなうちの家族が、それは主に父母と妹でしたが、この建物が傷んでいく姿を心配していました。

母は若い頃、自分のアトリエをここにしたいなという妄想を抱いていたようです。妹は大学院で文化資源学というのを学んでいました。文化資源学は、兵庫県立近代美術館の学芸員をしていた木下直之さんが東京大学に移って立ち上げた研究室なんですよ。で、そこで学んだ妹は、旧グッゲンハイム邸はすごい資源で、使わないのはあまりにもったいない、傷んでいくのを見てられないということになったんです。

旧グッゲンハイム邸は阪神淡路大震災で被災したけど、持ち主の竹内さんはかなりの金額を投じて修繕されたと聞いています。その後も数年は「竹内油業」の寮として機能していました。でも、寮というものがワンルームマンションに替わる時代になり、人が住まなくなった。空いていた数年の間にだんだん傷んできて、台風の被害もあって、窓がなくなったり、瓦が落ちてきたりしているのを、近所の僕らは通りがかりに見ていて、傷んでいくのを残念に思っていました。

竹内さんは、もう一軒、山側の方に洋館を持っていて、自邸はそちらでした。で、妹は竹内さんに手紙を書いて、直接ポスティングした。その頃は、この建物がもったいないから、レストランにでも美術館にでも、いろいろ使えるんじゃないですか?みたいな提案をしていました。そして、2005年に竹内さんにお願いして、興味のある人に私たち家族が直接声がけして見学会を実施したら、たくさんの人が来た。普段は中に入れない建物だから、この機会に、というので人が集まったんです。その後、僕の叔父が竹内さんの娘婿と親しいことが分かり、その方を通じて、妹は、旧グッゲンハイム邸で自分の結婚パーティをさせてほしいって言ったんです。

——妹さんが、ご自分の結婚パーティを!?

森本 そうです。で、内部の掃除はするし、結婚式で寄付を募るからそれをきっかけに屋根の修繕を始めてもらえませんか?みたいなことも提案した。竹内さんたちはそれを喜んでくださったのですが、でも、その直後、不動産会社が購入するという話になったという展開があり、結婚パーティはできなくなって、妹は約束がちがう!と怒って悲しんでいました。

ところがその頃、須磨にある「室谷邸」という、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した大きな洋館が、美術館にするという約束の元に、不動産会社に売られたんです。それが、突然取り壊しが始まり、神戸ではトップニュースになるような事件になって、大きく報道されました。竹内さんは、不動産会社に売るということは、自分たちが責任を放棄することになると思われたようです。それで、叔父に、デュルト森本家には購入の意向があるだろうか、と連絡があって、同じ売るならデュルト森本さんに、というお話があり、結局うちの父母が買ったんです。

父は仏教学者ですが、やはり古い物が好きでした。自分が初めて日本に来た頃の京都のまちが印象深かったために、京都の市電廃止や町家解体の反対運動をしていたこともあり、買い取ることには賛成でした。

僕は買うことには大反対しかしていない

塚村編集長(以下、塚村)  デュルト森本家はお金持ちですか? ベルギーの富豪?

森本 そんなことはありません。仏教学者とステンドグラス作家が、ぽんと払える買い物ではありませんよ。

塚村 つまり、私財を投げ打って購入された。

森本 でも、僕は買うことには大反対しかしていないんです。

——えっ?

森本 そういうことは行政がやることで、個人で所有して個人で責任を取るなんて、その責任を僕が背負うことになるのも含め、考えられないと言って大反対しました。大反対はするものの、購入しないとなくなってしまうものでもあるし、購入するという流れにはなったんですけどね。

その頃に僕が思っていたのは、大きすぎる立派な洋館は手に負えないけど、裏手にある細長いプレハブ建築をリノベして住む人を入れるのはめっちゃ楽しそうやなと。で、僕は『めぞん一刻』の音無響子さんになろうと思った(笑)。

——それは、竹内油業の男性の寮だった建物ですね、2階建ての。

2階建ての元男性寮、現シェアハウス。縞模様のテントの奥に入口がある

森本 はい。いま、その建物をシェアハウスにして「長屋」と呼んでいます。デュルト森本家に権利が移ったのが2007年の4月1日でした。そこから何人かに話したら、口コミで20代、30代の若者が見にきて、10部屋募集した10部屋すべてが10日ほどで埋まったんですよ。

でもすぐには住めない。夏ごろまでには整えるからってことで、僕は4月から9月までずっとDIYで修繕をしていました。もちろん設備の工事などは業者が入りますが、ペンキ塗りとか、壁を抜くとか、床を貼るとかは全部自分でやりました。未来の住人と知り合いの手も借りながらですけど。

本館の改修はしっかり業者が入りました。本館は、僕には手に負えないと最初から思ってたし、さほど興味はなかったんですよ。長屋部分は今も10部屋を貸しています。5部屋がアトリエとスタジオで、5部屋には人が住んでいます。

——旧グッゲンハイム邸というと、本館の、あの洋館のイメージしかなかったんですが、同じ敷地内にいくつか建物があったんですね。

森本 長屋と、あと一つ事務局にしている2階建てがあって、ほかに、物置はシルクスクリーンのアトリエになっています。事務局と長屋は1960年代の初期のセキスイハウスのプレハブ住宅です。

事務局の建物。元は女性寮

正面の物置はシルクスクリーンのアトリエ、左側が「長屋」、右側が本館(以上3点とも写真提供:旧グッゲンハイム邸 )

竹内油業は愛媛県出身の方が創業されたと聞いていて、集団就職の時代に愛媛などから来た人たちが研修の期間など、大勢が洋館の中の一つの大きな部屋に住んだことがあったそうです。それは衛生上好ましくないとなって、2軒を新築した。長屋の方は男性寮で、いま事務局にしている建物は女性寮だった。本館はパーティに使われてたわけではなくて、1階は食堂とお風呂と、2階には管理人夫婦住み、彼らが食事を作って、従業員たちが朝夕ご飯を食べ、お風呂に入りにくるところだった。

——旧グッゲンハイム邸のウェブサイトには、「本館は1908年(明治41年)頃に、イギリス人建築家A.N.ハンセルの設計によって建てられた、典型的なコロニアルスタイルの建物」だと書かれていますね。

森本 建てられた時期については、古い書類が新たに発見されるごとにちょっとずつ時代をさかのぼっているんですよ。いまは1908年になっています。

明治44年ごろの写真(写真提供:旧グッゲンハイム邸)

「旧グッゲンハイム邸」はグッゲンハイム邸ではなかった?

——ところで、いま旧グッゲンハイム邸と呼ばれている洋館は、じつはグッゲンハイム邸ではなかったような話を聞いたんですけど。

森本 そうなんです。さっきから話に出てきてる竹内さんのご自宅だった裏手の洋館が、じつは本物のグッゲンハイム邸です。こちらは本当はライオンス邸だったっていうことがわかったんです。

——なぜ、そんなことになったんでしょうか。

森本 えーと、坂本勝比古さんという、北野の異人館や旧居留地の洋館などの調査をして、その価値を高めた建築研究者がいらっしゃったのですが、その坂本先生が書かれた、グッゲンハイムさんと邸宅に関する大きめの記事があります。妹が調べたところ、間違いは1969年8月号の『新住宅』に書かれたその記事に起因していると思われるようです。

その文章の中に、ジャック・グッゲンハイムさんは明るい愉快な人だったということが、箙  譲衛(えびら  じょうえ)さんという人から聞いた話として書かれています。箙さんは、日本国籍を取得する前はジョーイ・エイブラハムさんといって、箙邸はレストラン「塩屋異人館倶楽部」として使われていましたが、震災で損傷して、その後、解体されました。

箙さんからの聞き取りで、北側の高台の上にライオンスさんが建てて、その少し後でグッゲンハイム邸が建ったと、その2軒の名付けを、坂本先生は記事の中でされています。それが、あとあと神戸市などが史跡マップなどを作る時の元ネタになったようです。だから、おそらく1969年にその記事が書かれてから、ここが、旧グッゲンハイム邸と呼ばれるようになったのでは、と。

僕らがここを購入するときには既にしっかり、旧グッゲンハイム邸と呼ばれていて、いろんな本にもそのように紹介されていたから、特に調べなかったんですね。

——当たり前のことになっていたんですね。

森本 今から10年くらい前に、ジュリア・グッゲンハイムさんという人から電話があったんです。その前にもアメリカ人の女性が、ちょっと調査するような感じで立ち寄られたこともあって、その時にいろいろ世間話をしたこともありました。

電話では、「私はジュリア・グッゲンハイムというサンフランシスコに住んでいる者だけど、私の父のジャック・グッゲンハイムが塩屋で生まれて、そこで育ったんだと思う」という話でした。

それからジュリアさんとメールのやり取りを始めて、彼女が古い写真を送信してくれたんですよ。それを見ると、この建物じゃなかったんです。裏道とか、坂道の様子は同じだけれど、建物は違っていた。まあ塩屋であることは間違いないなかったし、この界隈であることも間違いないけど、近所の別の建物だという話をジュリアさんにしました。

——あれれ?ですね。

森本 旧グッゲンハイム邸って名乗ってますからね、ここはグッゲンハイム邸じゃなかったのかと。でも、もともと2館とも竹内さんが持っていた建物だから、もしかしたらグッゲンハイムさんも2館持ってたのかもしれないって、その時、僕はなんか自分に都合のいい解釈をしたりしました。

ジュリアさんには、この写真の建物はすぐ近くにあって、今はライオンス邸と呼ばれていると言ったんです。

そしたら、ジュリアさんは「今、建物がこうやって使われていることはうれしい。グッゲンハイムの名前が使われていることもうれしい」と言ってくださった。

その後、2つの建物の名前が記事の中で逆に呼ばれていたということがわかったんですが、彼女はその家に住んだこともないし、日本に来たこともないので、こだわりはないようでした。そのことを伝えた時も、グッゲンハイムの名前が使われているだけでうれしい、といった感じでした。

——そうだったんですね。ここが、じつはライオンス邸だとはっきりしたのはいつですか?

森本 グッゲンハイム邸ではなかったとはっきりしたのは、2020年ですね。調査し、判明し、僕たちで検証イベントもしました。それも妹たちが調べたことなんですけどね、竹内さんが亡くなって、住んでいた建物を売られた時に、登記簿を調べたんですよ。古い時代まで調べていくと、なんとライオンス邸ではなくてグッゲンハイム邸の記載が出てきた。それまで僕たちは旧グッゲンハイム邸の古い登記簿を調べたことがなかったんです。それで、こちらの登記簿もちゃんと調べてみたら、こちらがライオンス邸だと出てきた。

「ニッケル・エンド・ライオンス」っていう貿易会社は今でも神戸のハーバーランドの近くにあって、この家を建てたとされているジャコブ・ライオンスさんのお墓は神戸の外国人墓地にあります。

ライオンス邸とされていた、こちらがグッゲンハイム邸だった(写真提供:旧グッゲンハイム邸)

——でも、旧グッゲンハイム邸の名前はそのままにした。

森本 取り違えはありましたが、親しまれている、旧グッゲンハイム邸の名前を、引き続き大事に使っています。

塚村 今回のインタビューにあたって、ぴあ発行の『旧グッゲンハイム邸物語』(森本アリ著、和久田善彦編集)を読ませていただきましたが、名前の取り違えがわかったのは、本が出た3年後ですね。

森本 『旧グッゲンハイム邸物語』は重版がかからなくて、初版4000部を売り切ったので、現在、在庫なし絶版なんです。これを機に、『旧グッゲンハイム邸物語』の増強版ができたらいいのになあ。

森本アリ著、和久田善彦編集『旧グッゲンハイム邸物語』2017年、ぴあ刊。増補改訂版、文庫化が待たれる。

コスプレの撮影会で大人気スポットに

森本 僕がここの管理人を任されるようになった時は、この建物というよりも、この土地自体の運営を細々としていくイメージで、この大きな洋館が今みたいにしょっちゅう使われるようになるとは想像していませんでした。たまにコンサートやウエディングがあるんだろうなぐらいの感覚で。でも、この館の管理運営の仕事が忙しくなってきたから、ステンドグラス仕事に手が回らなくなりました。

——最初は長屋の経営で固定資産税が賄えて、本館の臨時収入が改修費として積み立てられていく、自分は別のことで生計を立てるつもりだったのが、本館の仕事がどんどん増えていったんですね。

森本 最初は友達がやってくれる結婚パーティとか、建築保存の人たちが集会をしてくれるとか。そういう身内や、建物を心配するような人たちが使ってくれていました。

ここがどんどん使用されるようになっていったのは、コスプレが大きいなと思います。コスプレの撮影会では、廃校になった小学校なんかがよく使われていますが、まあ、そういう古い建物を有効活用するコスプレ文化の先駆け的な感じで、旧グッゲンハイム邸で撮影会をしたいという相談が結構来るようになりました。1階と2階がそれぞれ別団体で土曜も日曜も予約で埋まり、コスプレでめっちゃ使われるようになったのが、大きめの金額が入ってくるようになったきっかけなんですよ。

——なるほど。コスプレ撮影会ですか!確かにここはぴったり。

森本 コスプレの人たちのいいところはね。たとえばコンサートがあるとしたら、お客さんは演奏家を見に来てて、建物を見に来てるわけじゃないでしょう、だから建物を大事にするお客さんが来るとは限らない。けど、コスプレの場合はその背景全部を好きで使ってくれてるから、使い方はていねいだし。下手したら掃除までしてくれるような人たちも少なくない。

その中でも『ヘタリア』の撮影会は伝説的とまで言われて、「グッゲンハイムデー」っていうコピーがついてました。ヘタリアは、ヘタレなイタリアが主人公の漫画なんですけどね、第二次世界大戦の情勢のなかで各国が一つの擬人化されたキャラクターになってて。そうすると、みんな軍服で、髪の毛が緑や紫やグレイやったりするような人たちがいて、「さあ、三国同盟集まってー」とか言いながら、ドイツとイタリアと日本が3人集まったりして撮影してるの。この建物の雰囲気と、その時代背景がちょうどぴったりみたいで、本当に庭中にいろんな人がいて、面白かったですよ。

——人が住まなくなってた家が、そんなふうにしてよみがえった。

森本 そうです。そうやって、お化け屋敷みたいだった建物がよみがえった。

新世界「ブリッヂ」のピアノや機材を引き継ぐ

——それが、2007年の秋だった?

森本 2007年の秋は、ギリギリ使える状態に持っていったのみで、撮影会が定期的に入るのは1年後ぐらい。ちょっと面白いのがね、僕もスタッフとして関わっていた「ブリッヂ」が終わるのが2007年の7月なんです。

——ブリッヂは、2002年に内橋和久さんが始めた、大阪市の新世界にあった音楽スペースですね。

森本 その、ブリッヂにあったピアノがこっちに来てるんです。機材類とか大きな厨房機器とかも、ブリッヂからここに来てて、それを引き継いでるっていうのも大きいですね。

ライブやコンサートなどが行われる、本館1階ホール

その時、ブリッヂ周辺で音楽をやっていた人の中に、稲田誠、楯川陽二郎、元山ツトム、水谷康久、山本信記など、神戸の西側の塩屋から、さらに西の明石市から姫路市に住んでる人が何人かいて、彼らの発表の場にもなっていくんです。

——では、ここから先は森本アリさんの音楽活動について、引き続きお伺いしていきたいと思います。

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*次回に続きます