1975年、日本で最もラディカルな音楽雑誌「ロック・マガジン」は誕生した。大阪発の伝説のマガジンを作った人物は、阿木譲。彼はその後、ヴァニテイ・レーベルを創設し、レコードショップ「NEU」(ノイ)を経営。絶えず体制を挑発し続け、サブ・カルチャーの先端を孤高の姿勢で疾走してきた。最近ではクラブ「M2」のオーナー兼DJとして、そしてミュージック・デコーダーとして独自のスタンスを確立していた阿木。M2閉店後、しばしのブレイクを経て、また阿木が動きだしたとの情報を掴む。JR湊町の近く、ビルの地下工事現場に彼は一人佇んでいた。アンダーグラウンドの怪物、阿木譲はこう語ってくれた。(取材・構成 嶽本野ばら)

――また、お店を始められるとか?


阿木 プロデューサーとしてね。平日はカフェで昼間から開いてる。壁も全部ブルーに塗るんだ。アンビエントからバロックっぽいものをかけて。金土の夜だけ、クラブ形式で。


――M2の後にまたショップをやるというのは、ショップというメディアにまだ可能性があるということでしょうか。


阿木 意地もあるけど(笑)。M2ってのはクラブとして成功したほうだと思うんだけど、まだ僕か思った通りの興奮がなされてない。音楽に対して頭の中で僕が考えたことを、日常化、現実化してゆく作業ってのがある。言語のコミュニケーションという青臭さにうんざりしている部分があって、ひとつの空間で毎週何かが始まっていくことのリアリテイに惹かれている。


――阿木さんはずっとアンダーグラウンドをリードしておられる訳ですけど、現状のシーンに就いてはどう思われますか?


阿木 僕はね、自分ではアンダーグラウンドだと思ってないんだ。サブ・カルとかカウンター・カルチャー的なもので、あんまりアンダーグラウンドの素質はないんじゃないかな。社会的なイメージで、僕の文章や先取りした音ってのは常にマイノリティだからそう思われるけど、僕のやったことってのはいつも後でメジャーになる訳。僕自身はポスト・モダンなんじゃないかと思ってる。ロック・マガジンにしても、アンダーグランドな姿勢でだしてたんじゃないからね。僕はカウンター的な、ひとつの大きなものに対抗する為にやってるのね。それを地下と呼べばそれでも構わないけど。


――現在のアングラ・シーンには余り興味がない?


阿木 イギリスのものでもアメリカのものでも、まるで興味がない。結果的に、何の力もないような気がする。ベルリンの壁があった頃はイデオロギー的なものもあったけど、それが崩壊した後に残るのは、大きな経済システムというものに反抗したもの以外にはないような。60~80年までのサブ・カルの意味と90年の意味とでは随分変わってきている。個人的にはサブ・カル、アンダーグラウンド・シーンに影響されたけど、今僕が買うレコードってのは、80年の頃のインディペンデントからでたものと、ちょっと意味あいが違ってきてるんじゃないかな。


――今回のショップもM2と同じく地下空間なんですが、地下という空間に対しては何かお持ちでしょうか?


阿木 個人的な興味は、朝や昼よりも深夜、夜の世界にある。それは昼間みえなかった世界、僕らが本当の存在としている世界ってものが、みえてくるから。闇の世界が僕にとってのリアリテイだと信じているし。そういう意味で光を遮断した地下ってのは、自分をインボルブするには、すごく入っていける世界。そのせいで地下にこだわるんだと思う。


――サブ・カルチャーは、昼の世界からは生まれないものなのでしょうか?


阿木 難しい質問だけどね。確かに80~90年頭までは、太陽の光からサブ・カルがでた時代だったんだ。だけど今また僕らがやろうとしたサブ・カルの本質的な部分に戻りつつあるんじゃないかと思う。70年よりももっとシビアな形でね。

▲来年(※)初めには、長いブランクを経て雑誌も創刊予定の阿木氏。ロック・マガジン以上のインパクトで、彼はまたしても加速する。
◆エコ・テック・カフェ「BLUE」は、12/10(※)オープン予定。ロマンチズムをコンセプトとした地下カフェ。週末はクラブ。

※注 1993年12月現在。来年とは1994年のこと。

「花形文化通信」NO.55/1993年12月1日/繁昌花形本舗株式会社 発行)