【インタビュー】管理人・ミュージシャン 森本アリ その1/7

森本アリさんは、神戸市垂水区の塩屋に建つ異人館「旧グッゲンハイム邸」の管理人として、旧グッゲンハイム邸の音楽会などの企画やプロデュースをするほか、ミュージシャンとして「三田村管打団?」や「音遊びの会」で活躍。この2つのグループは2025年の夏と冬に本が出版されました。また、塩屋でさまざまなイベントや企画を展開する「シオヤプロジェクト」の主宰者としての顔も持っています。旧グッゲンハイム邸をベースに、塩屋というまち全体を巻き込んでいく森本アリさんのアクティビティをじっくりとうかがっていきます。第1回は、ベルギー人を父に日本人を母に持ち、塩屋で育ち、ベルギーの大学でアートを学んだ森本さんと、旧グッゲンハイム邸の出会いについて。インタビューは全7回を予定。(丸黄うりほ)

旧グッゲンハイム邸で(2026年1月29日)

1997年ベルギーから帰国—神戸が様変わりしたことに驚いた

——森本アリさんの活動は、音楽、アート、塩屋のまちを盛り上げるさまざまな企画まで多岐にわたっていますが、その中心は、やはり本拠地である「旧グッゲンハイム邸」だと思います。まずは、森本さんと塩屋、そして、旧グッゲンハイム邸との出会い、関わりについて聞かせてください。

森本アリ(以下、森本) 僕は、1974年に塩屋で生まれて塩屋で育ちました。本当は2歳ぐらいまで神戸の中心地にいたんですけど、ほぼ塩屋育ちと言っていいと思います。で、父がベルギー人で母が日本人だという関係で、高校と大学の、合わせて6年ぐらいはベルギーに出ていて、震災後に神戸に帰ってきました。

——1995年の阪神淡路大震災の時は神戸にはいらっしゃらなかったんですね。

森本 そうなんです。震災の半年後、スイス人の友人たちが日本の災害に関するドキュメンタリー映画を撮るということになり震災の生々しい爪痕の取材にも同行しています。その後1997年に戻ってきました。そこからずっと日本にいます。

帰ってきたら神戸はすごく様変わりしてた。震災後の復興は、僕にとってはびっくりするぐらいのスピードでした。長田の小さなまちだったところに高層マンションが建ち並んでいくのを見て、衝撃を受けましたが、塩屋はあまり変わらずに残ってました。とはいえ、山陽電鉄も線路が落ちて、駅が移動していたり、半壊の家や全壊の建物のいっぱいあったんですけど、まちごとダメージを受けるという、長田のようなことにはなっていなかった。だから、街並みが残ってること自体を貴重だと思ってたんですけど……。

——けど?

森本 あ、僕には妹がいて。

——妹さんというのは、サラ・デュルトさんのことですね。

森本 そう、その妹と、妹の友達が「塩屋のことを話しませんか」っていう張り紙を見つけて、そんな催しに誘われました。それで、コープ・ミニの2階の会議室で行われる会合に妹たちと一緒に行きました、それは神戸市がつくろうとしていた塩屋の「まちづくり協議会」の前段階みたいなものでした。

そこに塩屋の長老たちがいて、主に男性でしたが、「塩屋は、海も山もあって最高や!」と言う。で、すぐに「でもな」って続けて、「60年前からある塩屋の都市計画道路は遂行せなあかん」「幅16 mの道路は絶対つくらなあかん」って言うんですよ。僕からしたら、「海と山があって最高や」という塩屋を肯定する言葉と、塩屋の4〜5 mしかない細い道を壊して、まちを縦断する「16 mの道路をつくらなあかん」っていう言葉は、まったく矛盾している主張やと思って衝撃を受けたんです。

——アリさんは、昔からの街並みが残っていることが貴重だと思っていたのに。

森本 正直、怖いなとも思いました。 こういう穏やかな住宅地で、たいしたものもなくて、みんながほぼ満足しているまちは、知らないうちに悪くなるんちゃうかっていう、なんかぼんやりした危機感を覚えたんですよ。強い意見が知らないうちに通って進んでいく。その人たちは塩屋の商店街のことを、昭和の古臭い商店街やとか、もうあのへんは燃えたら一瞬で燃え尽きてなくなるようなまちやとか、それよりもショッピングモールが駅前に欲しいとか、駅前に停車場をつくって車もタクシーもそこに停まれるようにしたいとかっていう、普通のまちのイメージを、このちっちゃいまちに貼り付けようとしてる感じがあってね。

で、それってね、もしプレゼンされたら「あ、いいですね」で、たぶん通るんですよ。現状を肯定して「この状態がいいでしょう」って尋ねても、たいていの人は「いいですね」って言うけど、それと真逆の「変わることもいいですね」とも言う。しっかりした意見を持っていないというか、ほぼ満足してる人はそうなってしまいがちです。それが怖かったですね。その流れでいつの間にかどこにでもあるまちが出来上がっていくのが。

——その推進会とか協議会では、なにか動きがあったんですか?

森本 僕はありのままの塩屋を見直すために、塩屋のまちの参加型の撮影会&写真展をしたいと思ったんです。それで、「塩屋まちづくり推進会」名義・主催で撮影会&写真展&写真集も作りました。「写ルンです」を120人に配った、『塩屋百人百景』という企画です。写真展は旧グッゲンハイム邸でしました。撮影会の参加者の3割は塩屋の人で、7割は塩屋外からでした。そして展示はさらに多くの方々が遠くからも見にきてくれました。なんか新しい価値観がその時に生み出されたような感じがしました。外から来た人らがめっちゃ楽しんでくれたうえに、そのあとで塩屋に移り住んだ人も結構いるんです。塩屋に住んでいる人にも写真展を「面白い」って言ってもらった。

その写真展の開催と、僕が旧グッゲンハイム邸の管理人になったのが同時進行でした。旧グッゲンハイム邸が始まってすぐにした企画が、その『塩屋百人百景』だったんです。2007年から2008年にかけてのことでした。

写真集『塩屋百人百景』 森本アリ企画 監修(塩屋百景事務局 発行)

両親の考え方の基本にあったのは「古いものを大事にすること」

——旧グッゲンハイム邸の存在というか、この建物自体は、もっとずっと前からご存知だったんですよね?

森本 はい。僕の実家は、旧グッゲンハイム邸よりも200 mほど東にありました。このまちは海と山に挟まれた谷間のまちで、南の海側から北の山側に広がっていて、東には小さい集落があるだけなんですよ。その50軒ほどの集落で僕は育ったんです。塩屋に住んだのは祖父母の代からです。

塩屋の東側の住人は、暮らしていたら、みんなここの建物が目に入ります。意外と塩屋のまちで暮らしてても、散歩しなければ旧グッゲンハイム邸を知らないということもあるようで、電車や車で塩屋を通過する人の方が借景としてなじみがあったりするんですよ。

僕にとって旧グッゲンハイム邸は、塩屋の原風景としてずっと見ていたような建物で、小学校の同級生には、ここの敷地内に住んでた友達もいました。

その頃は「竹内油業」っていう看板が上がっていました。ガソリンスタンドやレストランとかの経営をしてる会社です。本館には管理人夫婦が住んでいて、友達の村越くんは、その会社の経理担当の方の子どもで、別棟に家族で住んでいました。僕は村越くんの家に遊びに来てたんです。その建物はいま事務所とシェアオフィスとして使っています。ほかにもう一棟、二階建ての寮があって、いまは長屋と呼んで、シェアハウスになっていますが、当時は、ガソリンスタンドの若い従業員たちが住んでいました。車好きの男子たちで、各部屋にヌードポスターとかが貼ってあったりしてやんちゃな大人の世界を垣間見る感じでした(笑)。

——森本さんのお母様は、ステンドグラス作家の森本康代(みちよ)さんですね。

森本 母は京都市立芸術大学を卒業後、ベルギー政府の奨学金を受けて、ベルギーに留学したんですよ、ステンドグラスをやるって言って。当時は関西に住んでるベルギー人はとても少なかったから、領事館の紹介で、留学前に日本で父と1回会ってる。その時、母の留学先が父の実家のすぐ近くだから、うちの家族を頼ったらいいよって連絡先を渡したらしい。

うちの父は日本に来ていたベルギー人だった。ユベール・デュルトという仏教学者で、京都大学で研究生をしていた。20代終わりに日本に留学に来て、そのまま居ついて、人生80年ぐらいのうち50年ぐらいは日本にいた人です。当初は1カ月ぐらいかけてタンカーに乗ってきたらしい。で、神戸に着いて、最初に行ったお寺が須磨寺だったそうです。だからなんとなくこっち側の土地勘が最初からあったようです。横浜に着いてたら全然違う人生を歩んでいたかも。

塚村編集長(以下、塚村)  アリは本名ですか?仏教というよりイスラム教? 妹のサラさんは沙羅双樹のサラ?

森本 本名です。でも漢字です(免許書見せてくださる)、森本 デュルト アドリアン 安理、アドリアンは父方の祖父の名前です。Aliはアラブ系の国に行くと受けがいい(笑)。本来、キリスト教系の名前と並ぶことはないですが、父が国とか宗教とかの枠組みを超えた世界平和を願ってつけてくれました。サラも沙羅双樹だと仏教だけど、サラはユダヤ教系の名前でもあります。

塚村  ほお!

——お父様が日本に来られたのは、1960年代ですか。

森本 はい。それで、うちの父と母は1回会っただけで、ほぼ知らない者同士だったんですが、母が、留学先のベルギーで父の家族とめっちゃ仲良くなったんです。すると、お見合いでもないけど、ベルギーのおばあちゃんは、ユベールは康代と一緒になればいいのにな、と思うようになって。それで、その後、母が塩屋に帰ってきてから、二人は仲良くなった。そういうなんか不思議なパターン……。

——お母様はステンドグラスを学びにベルギーに行った。お父様は仏教を研究しに日本へ来てらした。お互いの文化をリスペクトし合う外国人同士ということになりますね。

森本 そう。僕は、東洋かぶれの西洋人と西洋かぶれの東洋人のミックスや、なんて言ってるけど。二人は、文化的に融合してるというか、両方の良いところを知ってる人たち。

——ご両親から、森本さんが影響を受けた面はありますか?

森本 二人の考え方の前提には、古いものを大事にするっていうのがありました。うちの実家は民家の移築なんですよ。二人が結婚のあいさつで親戚を回った時に、中国縦断自動車道ができることで立ち退きになる家をもらってきて建てた古民家の移築です。

全然、洋館的な要素はない家ですけど、でも、雑誌『太陽』とかで「古民家再生」特集があると掲載されて、「うちが一番モダンやな」って思うような家でした。リノベーションを担当したのは、京都の建築家の木下龍一さんです。

——なるほど、古いものを大事に。それは旧グッゲンハイム邸も同じですね。

ベルギーの芸術大学ERGで現代アートの洗礼を受けた

——高校、大学は塩屋を離れてベルギーへ。何を専攻されていたんですか?

森本 高校は普通に語学で、単に向こうの普通の高校に1年ほど編入したぐらいです。やっと言葉がしっかりわかって楽しくなってきた頃に日本に帰ったんで、もう1回、大学でベルギーに行くことにしたんです。

僕は勉強も何も中途半端な人間で、日本で、沖縄県立芸術大学を受験したんですが、一次のデッサンで落ちました。もともと「デッサンなんて!」と思ってたし、ヨーロッパに行った方がええんちゃうかって周りの人も僕も思ったし、せっかく言葉がわかってきたのに、ちょっともったいないと思ってたし。

そこで、わりと先進的な芸大であるERG(Ecole de recherche graphique)に入りました。教授とコーヒー飲んで雑談したら、それが入学試験でした。何の実技試験もなく自分が面白いと思うものをプレゼンしてたら、それでもう受かってたんです。

ヨーロッパでは1968年、1969年頃に文化的・社会的な改革があって。その学校はその頃にできた新しい学校だったので、ビエンナーレやトリエンナーレやドクメンタに参加しているような現代美術バリバリのアーティストが教授陣で、めっちゃ面白かったんです。なので、すごい現代美術の洗礼を僕は受けてて。で、洗礼を強く受けたがゆえに現代美術アレルギーなんですけど(笑)。

その中で音楽的表現とかも結構学校でやってました。というのは、そういう、デッサンも最初からやらないような現代美術の学校は、課題が出ると、どう表現してもいい、絵画でも彫刻でも映像でもパフォーマンスでも文学でもいいんですよ、発表形態は。で、そういうのがむちゃくちゃ楽しくて。僕は主に写真やビデオで表現してたんですけど、インスタレーションみたいな、大きな空間を使っていろんなメディアを混ぜるようなこともやっていました。そういう中に音楽も入ってきて。

学生時代には僕、「森の熊 Moli no Kuma」っていうバンドをやってたんです。それは、実家の改装をしてくれた建築家の、木下龍一さんの息子の龍郎くんと組んでたんですね。龍一さんもかつてベルギーに留学してたから、龍郎くんも同じようにベルギーに来ていた。建築の学校と、美術の学校は隣り合わせで、僕たちは同時期に留学していました。彼と始めた活動が「森の熊」でした。

——ということは、ベルギーの大学で学ばれたのは現代アート全般ということになりますか?

森本 そう、全般ですね。僕は映像志向もあって映画の学校も見に行ってみたけど、監督とか撮影とか脚本とか俳優とか、自分のスペシャリティが何かがわかんなかったんです。だから実験映像がある芸大に入った。そういえばERGの卒業生が、去年ここでライブしました。プロフィールに学校の名前があって後輩なんだなあって思いました。音楽をやってる子もまあまあ多い。いまその学校にはカセットレーベルがあると思う。

僕は最初、優等生だったけど、結局、卒業まで1年余分にかかってしまった。その1年余分だった学生の時、70人規模のPLATEAUという小劇場で、バイトというか、いろんな仕事をやってました。

受付のモギリもするけど、印刷も担当して、バーマンもやるみたいな。その劇場は、RISOGRAPHという印刷機(輪転機)を持っていて、毎月、30-40ページの冊子を3000部作っていました。

3人で運営してるような小さな劇場で、その時に得たノウハウが今につながってますね。その小劇場は、現代音楽やコンテンポラリーダンスがメインで、たまに展覧会もしてました。企画もやらせてもらったり、なので、今やってることとあんまり変わらないことをその頃にやってたわけです。PLATEAU は小学校の講堂をリノベして、レンガ造りの内装はそのままで、スタジオをUFOみたいに浮かせたすごく刺激的な空間でした。いまは名前が変わり、NADINEとなっています。

あと、建築方面の友達も多かったから、そんな友達のお手伝いをしてると建築の知識が増えたりしました。ベルギーの学生たちは、3、4人で一軒家を借りてシェアして、自分たちで直して住む、そういうDIYは普通のことでした。

上の世代の人も、家を買って、自分たちで床を張ったり壁にペンキを塗ったりっていうことを普段からやってるのを目にしたり手伝ったりもしていました。

日本の場合は、借りたら元の状態に戻して返さないといけないけど、そういう感覚とは違う。借家も住む人がよりよくするために自分で手を入れてて、そんなことを手伝ったり、自分で実践したりもしていました。

旧グッゲンハイム邸敷地内の長屋にあるシルクスクリーン&リソグラフスタジオ「塩屋的印刷(シオプリ)」

*次回に続きます