挿し絵:北林研二

やきそば

 

 あれ、これは、ゆでそこないではないか。
と、最初は思った。東京のある中華料理屋で、気まぐれにやきそばを頼んで食ったときのことだ。

 麺の一部が焦げており、そこだけ、かたい食感になっている。いつもならソースの味とともにつるりと飲み込めるところなのに、かたいところを噛んでいると、妙に小麦粉の生々しい香りが起ち上がってくる。釈然としないまま食べきって店を出た。

 ところが、別の店で今度こそと思ってやきそばを頼んだら、やはり一部が焦げていた。これは偶然でも事故でもない。こういう料理なのだ。

 こういう料理なのだと思って食べてみると、これはこれで悪くないという気がした。どこまでもゆでめんの平坦な味がするのではなく、やわらかいのもかたいのも味わえる。焦げの香りを楽しむこともできる。食べたのが五目あんかけやきそばであったせいもあって、どこかかたやきそばの味わいもあった。しかし、まだ何かひっかかる。

 それからというもの、中華料理屋に行っては何度もやきそばを頼んだ。何度食べても、焼き目がひっかかる。納得できない芯が残る。しかし、その納得できなさゆえに、再びやきそばに向かってしまう。

 わたしは長らく関西に住んでいたが、こういうやきそばを食った記憶がほとんどなかった。ほとんど、と留保をつけるのは、昔、家族といった中華料理屋で、これと同じようなものを食った気がうっすらするからなのだが、その記憶もあいまいなものだ。わたしにとってのやきそばとは、屋台で焼いているどろりソースのかかったゆでめん風のものか、昔の喫茶で鉄板に乗ってきたやや焼きすぎたやきそば(ムラがある、というよりは全体的に焼きすぎているのである)、もしくは袋麺やカップやきそばであり、一部にわざと焼き目をつけたやきそばというのは、どうもなじみがない。

 この、やわらかかったりかたかったりする、ムラのある料理を楽しむという感性は、関東のもんじゃ好きとつながっているのではないか、とも考えてみた。どろどろの材料を焼いて、あちこち焦げを作っては小さなヘラでこそいで食べる、あの得体の知れない感性と、ゆでだか焼きだかわからないやきそばとは、どこかつながっているのではないか。

 そんな風に思いを巡らしていたら、先日、テレビの料理番組で土井善晴がやきそばを作り始めた。あ、やきそばだ、と思って見入っていると、なんと土井先生は、フライパンの上のゆでめんをほぐしもせず、焼き目を作り始めた。「みなさん、こういうのすぐイジらはるけどね、ほっといたらええの。やきそばはね、焼き目をつけるからやきそばちゅうんですよ」。記憶の中のせりふゆえ、不正確だが、わたしの頭の中の土井先生は、そう言った。

 関西弁まるだしの土井先生にそう言われると、わたしが立てていた「(ムラのある改め)焼き目のあるやきそば関東起源説」は撤回せざるを得ない。もしかすると、関西時代にわたしが焼き目にほとんど出会わなかったのは、そもそも、町中の中華料理屋でやきそばを頼むという経験がなかったからではないだろうか。東京に来て初めてそうしたやきそばに出会った気がしたのは、東京の町中に中華料理店、いわゆる「町中華」が多いせいだったのかもしれない。

 この、新たな推察を確かめるには、関西で中華料理屋に入り、やきそばを注文してみる必要がある。そう思って、先日京都に仕事に行った折、さっそく古いたたずまいの中華料理屋に入ってみた。しかし残念ながら、やきそばはメニューになかった。中華そばを食った。中華そばはやわらかい。

 やきそばの焼き目はいつどこからついたのか。謎はまだ解けぬままだ。

(9/17/24)

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