地蔵は家光の落馬を待つ

 

長い梅雨が明けて、夕方、ミンミンゼミが鳴き始めた。ここは関西ではなくて東京なのだな。

東京の感染者数がまた増えてきた。

毎日、きょうは何人という報道を見ていると、なんだか昭和の終わり、天皇陛下の血圧や体温が毎日報道されていたときを思い出す。数値の変化が報じられることだけではない。数値の増減を見てこちらはただ案じるより他ないという気分が、あのときと似ている。実際、感染者数が何倍になろうと、できることと言えば、手洗いうがいを励行すること、マスクを行く先々に持参することくらいだ。人と会って話す頻度はもうずいぶん減っている。

統計は、起こっていることを数値化し、明確にするためのものだったはずだ。けれど統計は、人の心にもやをかけもする。感染していなければ0だし感染すれば1のはずだ。なのに毎日、数値をきくわたしの気分は何%かの非感染と何%かの感染の重ね合わせでできている。わたしの気分は量子力学におけるシュレーディンガーの猫のようなものだ。毎日増減する数字につれて、0でも1でもなく、押しつまったり、ほどけたりする。

8月1日、東京で472人という数字に押しつまる気分をかかえながら外に出る。夏、人混みでなければ外ではマスクをはずすことにした。歩きながらつい、行き交う人を我知らず数えている。マスクをしていなければ0、マスクをすれば1。わたしは統計のパーセンテージになる。ほとんどの人は1で、0は少数派。少数派だと、自分が何か主義主張でもしているように思えてくる。統計がどうした。外は暑いし、空気は存分に通っている。外でしていたマスクを店に入るなりはずす人を見かけた。帽子か。

誰と話すでもなく、東京の地名由来の看板を見て歩く。文京区や新宿区ではあちこちで「家光公鷹狩り」ということばに行き当たる。いまは高い建物でふさがれているこの街も、かつては、けものが走り鷹の舞うだだっ広い野っ原だったのだろう。「目白」も「目赤」も鷹狩りの際に立ち寄った家光の命に従ってそう名付けられた。家光がそのうち人が住むであろうと言った谷は「指ヶ谷」。庭一面に藤のあるのを見て名付けたのが「藤寺」。切株に腰を掛けたのが「腰掛稲荷」。そういえば「淀橋」も山城国の淀に似ているので家光がそう呼んだという説がある。わたしの財布にはヨドバシカメラのカードが入っている。

土地の看板を見て歩くうちに、行く先々で、家光と鷹に先回りされているような気分になる。なぜいたるところ家光なのか、と思っていたら、「将軍の鷹狩り」というそのものずばりの題名の本を見つけた。

その根崎光男「将軍の鷹狩り」(同成社)によれば、鷹狩りは仁徳天皇の昔から行われていた。以来、鷹を所有し、狩りをするということは、しばしば権力と結びついてきたが、江戸時代に入って鷹狩りが盛んになったのは、家康が「無類の鷹数寄」だったことが発端だった。ときには一カ月から三カ月もかけて遠隔地に狩りに出かけるほど入れ込んでいた家康は、鷹狩りに一家言を持っていた。いわく、「鷹狩りは遊娯の為のみにあらず」。遠く郊外に出かけることによって、「下民の疾苦、士風を察する」。さらに「筋骨労働し手足を軽捷ならしめ」自身の健康維持や家臣の訓練にも役立つ。鷹狩りは治世の手段でもあったというわけだ。

しかし三代将軍家光の場合は、少し違っていた。もともと虚弱な体質の家光は、先代の秀忠の死後、宿泊をともなう鷹狩りをやめ、もっぱら江戸周辺五里以内の日帰りの狩りを行った。品川、葛西、高田、麻布、目黒、千住、隅田川、王子。狩りの場所には江戸城からさほど離れていない土地が選ばれた。文京区や新宿区のあちこちに家光の足跡があるのは、この日帰りの鷹狩りのあとだったというわけだ。

家光にとっての鷹狩りは、もっぱら養生のためだったらしい。もちろん、将軍の鷹狩りとなれば、家臣たちはその準備に細心の注意を払わねばならないし、休憩所などの整備をしなければならない。たとえば筑土八幡の西に続く高台を御殿山というのだが、一説には、このあたりに家光の鷹狩りの休憩所として仮御殿が作ってあったという*1。

それにしても家光はなぜ鷹狩りをするだけでなくあちこちを命名したのだろう。ものごとの愉しみは、ものごとの最中にとどまるのではなく、前後の時間に広がっている。前もって、どこそこの休み場所は整っているか、きょうはどこそこに行こうかと計画する。振り返って、きょうのどこそこのあれはおもしろかった、あそこでは馬が難儀したなどと語り合う。未来や過去を共有するには、場所に名前があるほうが都合がよい。鷹狩りの場合も、狩り場の準備や道中や首尾について家臣と語るとき、あのときのあの谷とかあのあたりの坂などと名のない場所を語るより、何々谷、何々坂と名付けておいた方が、都合がよかったのだろう。もっとも民の方は、直接家光と話す機会などない。ただ命名が下り、その呼び名を便利に用いたに過ぎないだろう。

勤め先への道、弁天町から早稲田通りをしばらく西に行くと、右手に「落馬地蔵尊」という地蔵が立っている。珍しい名前だと思って、そばの看板を読むと、また家光だ。家光が遠乗りに出て(高田に狩り場があったので、おそらく鷹狩りだろう)このあたりを通り過ぎたとき、突然馬が暴れて落馬した。怪しんでこの地を探させると、土橋の下より地蔵が出現し、これを祀ったのだという。

地蔵は、かつては大養寺の境内にあり、馬術武芸の上達・安全を祈念する者に崇められてきた。看板によれば、その後「戦災により 焼失せるも再建され 早稲田通りの歩道に面して立ち あわただしく行きかう車を眺め 馬蹄の響きとともに 遠く去って帰らぬ馬を その半眼に回想されているかのようである」。地蔵は、かつての馬道が車道となったその変化を詠嘆しているかのように読める。しかしわたしはふと、早稲田通りの由来を思い出した。そもそもここには、現在のような広い道は通っていなかったのではなかったか。

そう思って、今一度、明治40年の地図を確かめると、大養寺は牛込早稲田町15番地にある。そして、看板に記されている「早稲田通り」はそもそも存在せず、落馬地蔵のある大養寺は現在の南側ではなく北側に開かれている。江戸切絵図でもこの寺は北に面している。いまとは全く配置が違っていたのだ。

「明治四十年一月調査東京市牛込區全圖」日文研所蔵地図データベース(https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_3119.html)より。赤い点線は現在の早稲田通り、赤の矢印は落馬地蔵のあった大養寺。青の矢印は漱石山房通りを横切っていた小川(筆者加筆)。

それが、昭和初期に早稲田通りが通るとともに敷地の一部を減らし、さらには戦災によって消失した。その後、大養寺は早稲田通りに面した角地に残り、その一角に再建されたのが現在の落馬地蔵ということらしい。看板にある「早稲田通りの歩道に面して立ち」ということばは、かつては早稲田通りなどなかったこと、そして大養寺を斜めに仕切っていた道が、早稲田通りの開通とともに失われたことを指しているのである。

それにしても、土橋の下から地蔵が出たというのも不思議な話ではある。大水で川上から流れてきた地蔵や仏像が川下で発見され祀られるという話は、じつは各地に残っている。たとえば新宿区山吹町に「地蔵通り商店街」というのがあるが、ここの子育地蔵尊は、明治のはじめに大水でどこからか流れてきたものだと言われている。この付近は、かつて蟹川の支流が合流する地域で、江戸川にもほど近い。おそらくお地蔵様はそうした流れに乗ってきたのだろう。

では、落馬地蔵の場合はどうだろう。前にも記したように、かつて、漱石山房から生家の方に行く途中に小川が流れていた。この小川は大養寺から少し東に行ったところを南北に流れて、やがて蟹川に合流した。土橋は、あるいはこの川にかかるものだったのだろうか。そもそもこの土地じたい、蟹川と本流の江戸川(神田川)によって作られた低地にあたる。お地蔵様は、これらの川のもたらす大水によって土橋の下にたどりつき、じっと家光の到来を待っていたのかもしれない。

(8/3/20)

*1 東京都新宿区教育委員会(編) (1976) 新宿区町名誌 p12