Triesteトリエステへ

今年の夏は、妹の提案で、二人でイタリアの二つの都市、トリエステとヴェニスを訪れる旅をした。トリエステを選んだのは、妹がテレビで見て、イタリアの他の所と違ってユニークで興味深かったということで、誘われた私はこの町についてほとんど知らなかった。調べてみたら、オーストリアのハプスブルグ家に支配されていた過去を持っていて、確かにイタリアの中でも独自の面白さがあるように思えた。それと、須賀敦子さんが『トリエステの坂道』で取り上げていること、そして彼女の愛する詩人サバの町であるということくらい。前者は読んだが、サバ詩集は読まないまま、まずはトリエステに到着した。

須賀敦子著『トリエステの坂道』新潮文庫

トリエステは、須賀さんが「ユーゴスラヴィア[クロアチア]の内部に、細い舌のように食い込んだ盲腸のようなイタリア領土の、そのまた先端に位置する」と表現されているように、イタリアというと私たちが思い浮かべるあの長靴型の中にはない。

クロアチア、スロベニアと国境を接し、そして海に面した海運都市であったという地理的条件が、まずイタリアの中で特殊である。その地理的状況が必然的に、さまざまな国の支配を受けるという特異な歴史的状況も作り上げた。ようやくイタリアに併合されたのが1920年、まだやっと100年が経ったところなのである。それでトリエステには、ウイーンに代表されるオーストリアのドイツ語圏文化に愛憎一体の思いを抱きつつ、人種的・言語的にはイタリアを希求するという、引き裂かれる思いが常にあった。さて、現実の町は今どのようになっているのだろうか。

ホテルに着いて度肝を抜かれた。壮麗な建物で、見上げるような石段が目の前に。石段を登ったところにあるフロントは後ろに巨大な群像――数頭のライオンを御する若者の像――を控えていた。朝食をとるための部屋も、ギリシア、ペルシャ、インド、イスラムなどさまざまなデザインと色で、疲れるほど豪壮な装飾だった。何やら建物全体がいわくありげなので、聞いてみたところ、第二次大戦の連合国に使われていた建物だったとのこと。通りを隔てたところにも、20世紀初頭のアール・ヌーボー調の建物があり、壁面や屋上に大きな彫像が身を乗り出すように載っていた。町の中心部は、こうした大きな建築物が軒を連ねているのだった。

ホテルの窓からは、パラソルと椅子とテーブルがずっと海まで続くVia Nicoloニコロ通りが見えた。楽しそうなので出かけていったこのにぎやかな通りで、憂いを含んで歩むサバの像に出会った。通りには他にもいくつか彼にゆかりの建物があったが、私には像も建物も、通りの雰囲気とは合っていない気がした。

さて、トリエステの冬の風は、ボーラと呼ばれる特別なものだが、夏でもけっこう風は吹きあがってきて、スカートに戯れかかる。観察していると、女性たちはそれを承知で軽い薄めの長いスカートをはき、風でどうされようとものともせず、風のまにまに颯爽と歩いている。それがトリエステ流らしい。脚が丸見えになっても、変に恥じらったりせず、むしろそれをさりげなく見せているという粋――「夕涼みよくぞ男に生まれけり」ならぬ、「風孕みよくぞ女に生まれけり」というところ。ニコロ通りでアペリティフを飲みながら、爽快な女性たちを眺め、そして、海とその上をゆく雲を見ていたら、わずかな間にも実にドラマティックに姿を変える。もっと海の方に出てみようと、西に向かって進んだところ、夕日が真っ赤に燃えて、それはそれは美しい。大勢の人が夕日を見に出ていて、桟橋のもっと先の方は、鈴なりになって眺めている。トリエステはそういう図が絵葉書になっているくらい夕日の名所でもあった。

トリエステを観光する

絵葉書になるトリエステの見どころといえば次の三つ。海に突き出た城「ミラマーレ城」と、小高い丘の上の「サン・ジュスト大聖堂」、そして、海に面した「イタリア統一広場」。

「ミラマーレ城」は、町中から離れてバスで30分ほど北へ。ハプスブルグ時代に皇帝の弟マクシミリアン大公一家が住んでいた城で、アドリア海に白い姿をくっきり浮かべているのが絵になる。荒れた冬の海の高波が城を襲うところなど想像するだにゾクゾクする。映画に使われたことはなかったのだろうか。ヒチコックの映画で有名になった、ダフネ・ド・モーリアの「レベッカ」のような、主人公が大金持ちと結婚して屋敷に連れてこられ、前妻の陰に脅かされるというお話の舞台にもふさわしいと思われるのだが。または、海の冒険ものの舞台のお城としてはどうだろう。

城の内部はさまざまな様式のごったまぜで、とってつけたような豪華さである。マクシミリアンは後にメキシコ皇帝となったので、政治的な場として城には人を圧する威厳が必要だっただろうが、何人かの子どもたちを含む一家の人々は、ウイーンをはるか離れた地で、絢爛豪華さの中にいて、居心地は悪くなかったのだろうか。

「サン・ジュスト大聖堂」は町なかの少し小高い丘の上にある。サン・ジュストはトリエステの守護神で、首に縄をかけられ海にほおり込まれて殉教した。大聖堂は彼を祀ったもの。行きと帰りに違う道を辿ったが、それぞれ趣が異なり、なかなか味わい深い道だった。小さな石が組み込まれた坂道で「これが須賀さんのトリエステの坂道かしら」と言いつつ、上り、そして下った。

「イタリア統一広場」は、ヴェニスのサンマルコ広場に当たる、トリエステの観光名所。四角い広場の一方が海に開け、あと三方に壮大な建物が建ち、広場を囲んでいる。海に面した広場としては世界最大といわれ、この広さの中に立つと、痛みを伴った長い歴史の重みが、海からの風と共にひしひしと実感される。統治者は、オーストリアからイタリア、そして国際連合、ユーゴスラビアと変わり、トリエステが自由地域となった後、イタリアに返還された。『トリエステの坂道』を読んで、何か物寂しい町を頭に描いていたのだが、精神的にはそういう面があるとしても、なかなかどうして、外面的にはハプスブルグ家の隆盛を伝える壮大な建築物が溢れていて、実に誇り高い街なのだった。

これほど大きな広場でなくても、小さな広場にある店のパラソルがしつらえられた外の席で、周囲の由緒ありげな建物を見晴るかしながら夕食をとるのも、トリエステという町を堪能する方法といえる。そんな夕食時、ふと上を見るとたくさんある窓の一つからカーテン越しに明かりが漏れていた。神秘的であやしげな雰囲気があり、見つめていると、カーテンの向こうで『シャルビューク夫人の肖像』の物語が繰り広げられているのではないかという想像を搔き立てられた。それは、姿は見せないが自分の過去を語る夫人の、その肖像画を描くように、という不思議な依頼を受けた画家の物語。次第に暮れてゆく中で、ますますくっきりしてくる明かりに、刻の移ろいを感じた宵だった。

詩人サバの町

にぎやかなニコロ通りで出会った詩人サバの像を、その翌日、ゆっくり訪ねてみた。像の近くには、彼の住んでいた所、その向かいには彼の通った喫茶店、さらに数軒先には彼の出版社兼古本屋があった。トリエステには、ジョイスなど他に多くの文人の跡があるが、やはり何といってもサバの町である。しかし、旧居も本屋も、鉄格子があって閉まっている。古本屋は、サバの頃には「二つの世界の書店」という、ドイツ語文化圏とイタリアの二つの世界に分裂することを余儀なくされたトリエステを表わしているような、意味ある名前だったが、須賀さんが訪れた時にはすでに、サバを継いだ人の息子の代になって「サバ書店」というなんでもない名前になってしまっていたと彼女が書いていた。が、それどころか事はどんどん進み、いずれ「かつて~でした」というプラークのみが残るのだろうか、それではあまりに悲しすぎる。

須賀さんの『トリエステの坂道』は、前もって読んでいたが、なぜかあまり印象に残らず、トリエステ見物にはほとんど役立たなかった。ところが、トリエステを訪れてから読むと、書いてあることのことごとくが腑に落ちるのである。同じように、行く前に読み、行ってからもう一度読んだ妹も同じことを言っていた。それは、須賀さんの書き方が、さっと読んだだけでわかる印象的なことを言っているわけではなく、じわーッと深い所から来るものを持っているからなのだろう――知ってこそわかるというような……。

そして、日本に戻ってから求めた、須賀敦子訳のサバ詩集から、彼の生涯、作品の特色などをまとめてみると――

Umberto Sabaウンベルト・サバ(1884-1957)はウンガレッティ、モンターレと並んで、現代イタリアの三大詩人の一人に数えられ、ある批評家は「第一次大戦前後のイタリアで、まだ写実を信じることのできた奇跡的な作家、メロドラマの精神を完璧な韻律の詩に構成して見せた芸術家」と評している。サバの母はユダヤ人で、白人の夫に棄てられたかたちとなり、サバは生まれ故郷トリエステのゲットーで育った。彼は、自分の中に流れるユダヤ人の血に深い愛着を持ち、進んで父親のイタリア名を棄て、ヘブライ語でパンを意味する、サバというペンネームを選んだ。同時代の詩人たちに対して感じる決定的な違和感、それにユダヤ人としての民族的な孤独感が、サバをますます文壇から孤立させてゆくが、彼の作品は、深い心の痛みとは反対に、重い果実のように円熟し、彼の個性は確かな普遍の世界を克服していった。彼の妻となり、生涯を通じて彼を支え続けたリーナが、トリエステの町と相まって、彼の詩の基本的な二つのテーマ、〈トリエステと一人の女性〉を決定的にする。第二次世界大戦が始まり、ユダヤ人迫害令が出ると、逃亡生活を余儀なくされ、サバはすっかり老いてしまう。そして愛妻の死。その数カ月後、あとを追うようにして、サバはトリエステに程近い病院で生涯を閉じた。

『須賀敦子全集 第5巻』(イタリアの詩人たち/ウンベルト・サバ詩集ほか)河出文庫

彼の詩から、悲しみと勇気と誠実さがそのまま伝わってくるように思われるもの、そして、まさに「トリエステ」と題された二篇から少し引用する。

 

山羊

 

ぼくは山羊に話しかけた。
草地にたった一匹、つながれていた。
草を食べあきて、雨にぬれ
めえめえと啼いていた。

あの啼き声は ぼくの哀しみにそっくりだった。
だから、ぼくは答えてやった。――以下、略

(須賀敦子訳『須賀敦子全集 第5巻 イタリアの詩人たち/ウンベルト・サバ詩集ほか』河出文庫)

 

 

トリエステ

 

町を ずっと横切った
それから 坂を登る

――中略

活気に満ちた おれの町には
おれだけのための 片隅がある
憂愁のある 引込み思案な
おれの人生のための 片隅が

(須賀敦子訳『須賀敦子全集 第5巻 イタリアの詩人たち/ウンベルト・サバ詩集ほか』河出文庫)

 

サバは、須賀さんのイタリア人の夫がこよなく愛し、夜ごと読み上げてくれたもので、訳は亡き夫への思いが込められた名訳とされている。英語の “ I ” と同じようにイタリア語でも1人称は “ io ” しかないのだが、一方が「ぼく」他方が「おれ」になっているのは、訳がそれぞれ2種あり、それぞれ好きな方の訳を採用したら、人称は統一がとれなかったという次第。これら2種の訳は、各行微妙に違うのだが、“ io ” 一つでもどちらを採ろうか迷った須賀さんの、サバの語感に迫ろうとした苦心が伺える。

夫のサバ愛は妻にも伝染し、イタリア人たちによそ者がサバをわかってたまるかという態度をとられたとき、心の中で、夫と私がいつくしむように読んできたサバこそ本当のサバだと、こういう断定をめったにしない須賀さんが強く反発したほど、サバを愛した須賀さんだった。その彼女はトリエステでサバの姿を目を凝らして追い求めた、どこかに彼の匂いが残っていないかと。

探しあぐねて彼女はひらめく。彼女の言葉を引用してみる。

やはりそうだったのだ。すべての真の芸術作品とおなじように、サバの詩は、まんまと私を騙しおおせていたのにちがいない。そして長いあいだ私のなかで歌いつづけてきたサバのトリエステは、途方もない広がりをもつ一つの宇宙に育ってしまっていて、明るい7月の太陽のもとで、現実の都市の平凡な営みは、ただ、ひたすらの戸惑いをみせているにすぎないのだった。

(『須賀敦子全集 第5巻 イタリアの詩人たち/ウンベルト・サバ詩集ほか』河出文庫)

だとしたら、現実の街から、サバが消えていくのも仕方ないのだろうか。

トリエステの悲しみは

トリエステの地図をもらった時から、妹は、地図の下の方(全体を “ J ” の形だとしたら、そのしっぽに当たる所)に行こうと提案していた。バスで行くという手もあろうが、“ J ”の中央から船で行くしるしが付いていたので、それで行くことになった。これがMuggiaムッジアという名の町だった。

30分ほどの船旅の後、桟橋に着いて、そこからすぐの教会のあたりに市役所や観光客用のレストランなどあり、これが町の中心らしい。城壁跡をぐるりと回るが、この城は、にらみを利かすためのもので、戦争には使われたことがないとか。坂の途中にトラッテリアがあり、船着き場のそばのいかにも観光客用というところよりいいだろうと昼食はここにした。ところがなかなか料理が出てこない。時を忘れてぼーっとしているには最高の場所。

妹曰くムッジアは時のない「無時(ムジ)」に通じると。私たちの後に着た若者2人連れは、ここが気に入ったらしく、あとで私たちが他を回ってまたここに戻った時にもまだいた。あたりの家にも人が住んでいるのやらいないのやらという静けさ。けだるいという退廃的なものではなく、何か乾いた感じ。私が旅に出る前に見た、小川洋子の『ホテル・アイリス』を映画化したものを思い出してしまったくらいだった。台湾のどこかをロケ地にして、中年男と若い女性の倒錯した関係が描かれていた。それほど湿気や粘着性を感じさせないものに仕上がっていたが、私はもっと乾いた官能が欲しいと、このムッジアを舞台にしたらいいのではないかと思ったりした。

今回、トリエステに行こうと妹が思い立ったのは、結構ドイツ語が通じるらしいというのも一因だった。ドイツ暮らしが長い妹は、それなら旅も楽そうだと考えたが、実際来てみて、全然通じないことに驚いていた。ということは、過去のオーストリア支配の頃の歴史は薄れ、イタリア化したということになるだろう。そうなると、他のイタリアの都市と変わらなくなって、この都市ならではの特色はなくなってしまう。

例えば、町なかに、la Bomboniera(ラ・ボンボニエラ)という名所になっているお菓子屋さんがある。外には椅子も出ていて広い店に見えるが、中は小さなもの。しかしオーストリアの誇りと威厳に満ちて、内装は赤で統一され、コーヒーとお菓子を注文すると、各人にバチッと銀器セットでサービスされた。

姉妹店Tommaseo(トマセオ)には、レストランとバーがあるが、ここも銀器によるサービスである。それから、推薦されて行ったレストランは、オーストリアから来た一家が開いたもので、今のイタリア人の当主は、20年前に買いとったとのことで、自慢げに由来を語ってくれた。

こうしたオーストリアの背景は、昔の歴史の軋轢や痛みを伴った肌合いは忘れ去られ、ただ珍しい、観光客をひきつける表面的なものになっていっているのだろうか。イタリア化するということは、イタリアの都市としてはよいのかもしれないが、これからこの町はどうなるのだろうと何かしら案じるような気持ちが沸いてきたのである。

旅から帰って日本に戻ってから、しばしばトリエステのあれこれを思い出す。実質的にヴェニスから列車で3時間ほどかかるというだけではなく、心理的にもローマやナポリといった他のイタリアの町からすると距離があり、もうまた簡単に訪れることはできないだろうなと思って、悲しみがまとわりついてくるのかもしれないが、そもそもが町の持っていた静かな悲しみがじんわりとやってくる。

この町は名前自体が、イタリア語の“triste”(悲しい)ととても似ていて、町の名を唱えるだけで何かしら物悲しい。トリエステの悲しみは、サバ詩集を紐解くと感じられるものである。私が捉えられる悲しみは、途方もない広がりを持つサバのトリエステの裾にちょっと触れただけのものにすぎないかもしれないが、滞在中にも、私にいろいろな物語を思い起こさせたように、その悲しさがさまざまなことを触発する不思議な魅力として深い余韻を残しているのである。

Veneziaヴェニスへ

ヴェニスを、妹は30年前、私は50年前に一度は訪れている。もちろんそれですむというものではないのだが、今回考慮に入れていなかったのに、ひょんなことで行くことになったのである。しかし、逆に2,3日ほどしかないのだから、別に大したことはできないだろうと、美術作品を見ることに的を絞った。

前回訪れた時、アカデミア美術館は閉館中で、50年ぶりのリヴェンジであった。特に見たかったのは画家ジョルジョーネの「テンペスタ(嵐)」で、母子が前面の右で嵐を逃れており、左には門番のような男がいて、背景には雷光がきらめいているが、何が描かれているか謎とされている。画家自身も謎の画家で、あまり多くはわかっていない。

ジョルジョーネは「眠れるヴィーナス」が知られていて、ドレスデンというとこれを見に行くということになっていた。これは実に美しい絵であるが、アカデミアには、老女を写実的に描いた有名な絵もあって、その真に迫った描写に心を奪われていて、はっと気が付くとすぐそばにあった小さな絵が「テンペスタ」だった。その小ささが一番の驚きだった。凝縮された謎……画集にもサイズは書いてあるが、そんな数字にはあまり注意を払わないものだ。

そして、同じ部屋には、ティントレットの「サンマルコの奇跡」もあって、これは大きな作、虐待を受ける奴隷に、天からサンマルコが救済のため斜めに急降下してくるという劇的なもの。中学生のころ初めて目にしていて、「阿弥陀来迎図」も斜めに進む速度感が言われるが、この絵のキリスト教の世界観がやはり強烈だった。実に60有余年ぶりの実物との出会いだった。何もわからないながら、出会っておくということは貴重な体験だ。

サンマルコの広場の周りをぐるりと囲む建物群の中のドッカーレ宮殿の中の美術館には、色彩も主題もドラマチックな作品群が多く、また世界最大の壁画という、ティントレットの「パラディソ(天国)」もあり、2,3時間見て少々絵に疲れた。人をかき分けつつ、広場の周りにぐるっと続くお店を見ていくと、ふと妹が「ここ、フロリアンよ」と言う。前回両親を連れてきた時、ここに入ってコーヒーを注文したところ、カップの底に少し液体が沈んでいただけだったので、父が「これだけか」と言ったというのが、その後我が家での語り草になっていたのである。当時、まだ日本ではカプチーノだのエスプレッソだのと言っていない頃だった。

今回、「テンペスタ」以外に見たいと思っていたのは、ティツィアーノの「聖母被昇天」。NHKの5分間の「名曲アルバム」という番組で、ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が背景に流れ、この絵が出てきたのだった。

ティツィアーノ《聖母被昇天》1516-18。パネルに油彩(6.90 x 3.60m)。ヴェニスのサンタ・マリア・グロリオーザ・ディ・フラーリ教会。

ワーグナーはヴェニスが好きで6回も訪れたとのことだが、どの時のことだったのだろう、「マイスタージンガー」の作曲の筆が進まず、悩んでいた折、この絵と出会って、鼓舞されて曲の完成にこぎつけたというエピソードが紹介されていた。画家27歳の若い力がみなぎる作で、これは画家にとっても中期の傑作と言ってよく、これ以降ヴェニスでの確固たる地位を築くことになる記念碑的なものとなった。

サンタ・マリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ教会にあり、ここには他にも名作はあるのだが、何といってもこの絵が最高の作。教会を入ったところにさらに門があり、その彼方に「聖母被昇天」が臨めるようになっていて、既にして見る者に畏敬の念を生じさせずにはおかないセッティングである。彼方にこの作を認めた時から、ありがたい気分になってくる。そして、近づいて、壇の上に鎮座まします絵を見ると、建物そのものの天蓋がさらに上にあり、このロケーションでこそ、昇天感がいや増す。

全体の躍動感たるや、やはり若い画家の血がたぎっている感じがして、ワーグナーがあおられたのも無理からぬところ。しかし色は抑えられていて、地上の人々の服の赤、雲の上のマリアの服の赤、そしてさらに上の神の赤(上がるにつれ次第に占める面積が小さくなり、上昇感がこれでより強調される)、マリアの象徴である青の翻る大きなマント、下の人の服の緑――と目につくのはこれくらい。我々は一番手前にいる大きな人物となってマリア昇天の目撃者となるようだ。彼が後ろ姿なので、よけいに見る我々が彼になる。そして広げる彼の手と相似形のようにマリアの手も広がる。

基本は、下にいる人たちを見る高さの目線だと思われるが、マリアは見上げるように描かれていて、この目線の高さの食い違いが絵の中で問題なく処理されているところがすごい。マリアは恍惚としているものの、取り憑かれてこちらが引いてしまうというものではなく、親しみやすい表情をしているところが、昇天という実にキリスト教的主題でありながら、非キリスト者もはじき飛ばしたりはしない。

こうしてみると、つくづく「ニュルンベルクのマイスタージンガーの序曲」の躍動感、上昇感はこの絵によってこそ生まれたのではないかと思えてくる。この絵に音楽を合わせるとしたら、ワーグナーよりビバルディか、いっそモーツァルトかバッハだが、「マイスタージンガー」に絵を合わせるとしたら、この絵ということになろう。

教会の席で何人かがジッとこの絵に目を凝らしており、中にはしっかり抱き合って見つめているカップルもいたので、彼らの視野に入って邪魔だろうから申し訳ないなと思いつつ、少しの間だけ許してと、階段を上がって、壇上の絵により近づいてみた。これが、8月15日のことで、被昇天祭の二日前のことだった。

ヴェニスの悲しみは

今回のヴェニス行きは、「トリエステに行くということだが、そこまで行くなら、今ほど中国人がいない時はないのだからヴェニスにも行くべきだ」と、妹の友人のドイツ人が勧めてくれたので思いがけず決まったのだった。彼の言は当たっていて、空港の掲示板の案内の言葉も英語、イタリア語、中国語で、このことから、如何に中国人が多いかが如実に伺えた。その中国人がいないため目立ったのがアメリカ人で、町中のあちこちからあのヤンキーなまりの英語が聞こえてくるのだった。何しろ、空港では、アメリカ直行便利用者は、特別の搭乗枠が用意されているのだから。中国人とアメリカ人は全く相反するところもあるくらい違う国民性を持っているが、他国の文化に敬意を払わないという点では一致していると言っていい。

サンタマリア広場で、鐘楼とドッカーレ宮殿に入ろうという人たちの作る列たるやぐるぐるに渦を巻いていたが、彼らはどこに行ったやらと思うくらい、アカデミア美術館や教会はガラガラ、辛うじて「ペギー・グッゲンハイム美術館」は、結構人が入っていたが、これとてもアメリカ人たちが「われらがお金持ちのペギーの別荘に集められたコレクションだから」ということで訪れたのではないか。ヴェニスに来るのもヴェニスを知りたいというより、ヴェニスに行ったと自分と他人に言って聞かせたいがためである。そういう人たちに席巻されて町はどうなるのだろう。

須賀さんによれば、ヴェニスは「虚構」「没落」ということだが、中国とアメリカに荒らされて、本来のヴェニスは息も絶え絶え――昔フェニーチェ歌劇場に着飾って集まった地元の人々、30年前に、少しでも本来のヴェニスが見られるかと意図的に冬に両親を連れてきた時に、妹が見た、毛皮のコートをさりげなくエレガントに着て、本物のイタリア文化を漂わせていた地元の女性、彼らは今どこにいるのだろう。コロナで街が閉鎖になり、ヴェニスの住民にとっては、この町の本来の静けさとはこうしたものかと発見があったという。それもあってか、それまであった大型船の運河乗り入れを禁止することになったそうだ。大きな船が運河に浮かんでいる図なんてぞっとする。そしてそうした大型船がどどっと吐き出す巨大な人の群れも。

何しろ道の代わりに川という、どこにもないこの面白さは、世界中の人を引きつけずにはいられない、観光地にならざるを得ない宿命であるが、これからまた30年、50年経ってどうなるのだろう。心痛めつつ、私は、コロナ前の京都を思わずにはいられなかった。地元の人が市バスを日常生活で利用できなくなっていた、あの異常な賑わい、おかしなレンタル着物で闊歩される街……ヴェニスのかもしだす悲しみは、京都への危惧と重なって一層増すのだった。

先ほど、大いなる偏見を持って、アメリカ人と中国人のことを書いたのだが、しかし翻ってわが身はどうだろう、えらそうなことは言えない。ただ、しばらく前までは、歩きながらものを食べるのははしたないという矜持はあったし、よその国に行って我がもの顔に大声を張り上げるなどということはあまりなかったように思うのだが。

三つめの悲しみは?

実は、今回のドイツ滞在中に私は喜寿を迎えることになっていて、このイタリア旅行は、妹の私への誕生祝いだった。私たちは5歳違いで、妹といえどももう70歳を超えている。今回の旅は、飛行機のチケットや宿は、妹の息子に取ってもらったとはいえ、あとは自分たちで組んだもので、現地で見るべきところは二人で決めて二人で動いた。私は一つことをクリアするたびに、あぁ、無事すんだと思って、長らく50有余年ヨーロッパにいる妹はもっと慣れているのだろうと考えていたのだが、あとで聞くと妹も私と同じ思いだったらしい。とにかく老女が二人、よくぞ無事に全く何事もなく帰ってきたことよと振り返ったものである。

しかし戻った日から、私は咳始め、翌日妹が「コロナでは」と検査キットをくれて、調べてみると見事に陽性!すわ、お医者様は、保健所はと思ったのだが、ドイツでは、しばらく安静にしていて、また検査して陰性になればそれでよしとのこと、日本は神経質に罹患者の数字を毎日出して一喜一憂し過ぎではないかと思ったものだった。やれやれ、やはり歳にはこの旅の緊張は応えたのだと嘆き、しみじみ老いの悲しみを噛みしめたのだった。

しかし、この悲しみは、それぞれの街の思い出にしっかりまとわりついて去り難い前の二つのものと比べるとやがて消えゆき、次はどこにしようか、リスボンが面白そう――とはや旅心は動き出しているのである。

(5/12/2022)

  • 武田雅子 大阪樟蔭女子大学英文科名誉教授。京都大学国文科および米文科卒業。学士論文、修士論文の時から、女性詩人ディキンスンの研究および普及に取り組む。アマスト大学、ハーバード大学などで在外研修も。定年退職後、再び大学1年生として、ランドスケープのクラスをマサチューセッツ大学で1年間受講。アメリカや日本で詩の朗読会を多数開催、文学をめぐっての自主講座を主宰。著書にIn Search of Emily–Journeys from Japan to Amherst:Quale Press (2005アメリカ)、『エミリの詩の家ーアマストで暮らして』編集工房ノア(1996)、 『英語で読むこどもの本』創元社(1996)ほか。映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』(2016)では字幕監修。

ダフネ・デュ・モーリア著 茅野美ど里訳『レベッカ』新潮文庫

ジェフリー・フォード著 田中一江訳『シャルビーク夫人の肖像』ランダムハウス講談社

小川洋子著『ホテル・アイリス』幻冬舎文庫

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