『プレイガイドジャーナル』の編集長になってすぐに会社の営業不振、それどころか売却の話まで出て、ある意味貧乏くじを引いたともいえる小堀さん。しかし、『プレイガイドジャーナル』の編集スタッフや、当時のサブカルチャーど真ん中の人脈には得難いものがありました。今回は、その中でも特筆すべき人物であった、中島らもさんの思い出を中心に語っていただきます。(丸黄うりほ)
『プガジャ』から『ぷがじゃ』へ。表紙は南伸坊さん
——『プレイガイドジャーナル』の表紙絵が栗岡佳子さんから南伸坊さんにかわったのが、1986年4月号ですね。それと同時に誌名もひらがなの『ぷがじゃ』になった。
小堀 プレイガイドジャーナル社の経営が学生援護会に変わるのが、前年の9月(10月号)ですから、もう今までの『プガジャ』とは違った体制になったわけです。大きな事件でしたし、本誌自体も変わらないと、誌面の大幅刷新をしなければと思ったわけです。
親会社の方からは特に強い要望があったわけではなく、もちろん“広告が取れて売れる本”をつくってくれとは言われたけれど、そんなの、おれらにすぐできるわけがない。で、誌名を思い切って “ひらがな”にしようと。
『プレイガイドジャーナル』でもない、『プガジャ』でもない、『ぷがじゃ』にする。ロゴデザインは表紙のアートディレクターだった下東英夫さんにお願いしました。タイトルが変わるわけだから、もう見た目からして違う雑誌になる。ただ、コンセプトはそんなに変わっていないものにしようと——。
——私は、南伸坊さんの表紙が大好きでした。
小堀 おれ、栗岡さんのイラストが大好きで、栗岡さん自身もとてもチャーミングな人で、それこそ長谷川義史君を紹介してもらったり、大変お世話になりました。でも、ひらがなの『ぷがじゃ』になるわけですし、誌面刷新ですから表紙のイラストも変えることに。そうしたときにプガジャのスタッフの中に、 南伸坊さんと近しい人がいて、「伸坊さんに頼めるかも」という話が出てきた。おれも前から伸坊さんの絵や文章が好きだったので、善は急げと東京に行き、お願いしました。
誌面刷新第1号(1986年4月号)の表紙モデルがひさうちみちおさん、このときは、伸坊さんのアイデアでひさうちさんがフロイトになってる。表紙に誰をしようかはおれの人選ですが、その人をどう描くかは伸坊さんの仕事です。「この人はこんな感じです」と写真を撮って伸坊さんに送ってました。2回目は中島らもさんで、「らも」の名前の由来にもなった往年の時代劇スターの羅門光三郎に扮してもらって伸坊さんに送りましたね。このときは扇町ミュージアムスクエアで撮影しました。ダウンタウンをモデルにしたときはオレンジルームでした。当時、ダウンタウンがネタにしていた「妖精」の衣装を着てもらって撮影しました。読者にもモデルになっていただいた方にも評判は良かったと思います。大森一樹さんは阪神のバースでしたので、喜んでくれたのをおぼえています。
塚村 プガジャの15周年イベント(『WAYAYA ‘86』)に行きましたが、伸坊さんとか末井さんとかのバンドも出てましたね。
小堀 ライブに出てもらったのは末井昭さん、南伸坊さん、上杉清文さんたちの「高級藝術協会温泉混浴バンド」に、フリージャズの坂田明オーケストラ、憂歌団です。他には「アートコレクション」といって、森英二郎さんや、ひさうちさん、栗岡さん、沢田としき君、それに長谷川君、『プガジャ』に縁のあるイラストレーターの人たちや、太田順一さん、垂水章さんらカメラマンの人たちの作品展もありました。らもさんや末井さんや伸坊さん、GYAたちに出てもらったトークショーもありました。確かライブに出た末井さんたちの衣装が旅館の浴衣とスリッパだったと思います。ライブの進行役でらもさんにちょっと出てもらいました。2人で同じステージに立ちましたね。
塚村 会場は尼崎の「つかしん」でした。
小堀 当時は、西武百貨店、セゾングループの関西の拠点でした。おれ、1983年9月に八尾にあった西武百貨店でプロレス専門誌『週刊ファイト』主催の「ザ・プロレス展」をお手伝いしたことがあって、それはライターの大山健輔さん、カメラマンの垂水さんとのご縁なんですが、大阪に来て最初に編集した単行本が、週刊ファイトの名編集長だった井上義啓さんの書き下ろし『猪木は死ぬか!——超過激なプロレスの終焉』なんです。おれ、もともとプロレスが大好きで、らもさんと話ができたのもプロレスのおかげ(笑)ですかね。
八尾のプロレス展では、トークショーをしようというんで、招いたのが映画監督の高橋伴明、演出家の流山児祥、漫画家のいしかわじゅん、小林まこと、といった人たちでした。司会は落語家の笑福亭福笑さん。イベントの当日、新大阪に流山児さんたちを迎えに行ったら、偶然、山下洋輔さんと遭遇して、おれ、名古屋時代に洋輔さんに取材したことがあったんです。洋輔さんが「きょう何かあるの?」って聞くから、「八尾でプロレスのイベントやるんです」「レスラーは来るの?」「きょうはアニマル浜口と長州力です」と言ったら、洋輔さんも見に来ることになって、世界の山下洋輔とプロレスラーの浜口・長州が出会うことになる。すいません、長くなりましたが、おれには歴史的な一日でしたね。八尾西武は、天井桟敷の最終公演「レミング」の会場でもありましたし、当時のセゾングループは、プロレスから寺山修司まで懐が深かったんですよ。で、もろもろ、そうしたことがつながって、プレイガイドジャーナルの15周年のイベントを「つかしん」にお願いしたわけです。
記事広告「微笑家族」と連載「たまらん人々」
——『プレイガイドジャーナル』あるいは『ぷがじゃ』で培った小堀さんの人脈のなかで、やはり特別ともいえるのは、中島らもさんとの交流だと思います。ここからは、中島らもさんにまつわるお話をじっくりとうかがっていきたいと思います。
作家の中島らもさんをご存知ない方はいらっしゃらないと思いますが、補足しておきますと、もともとは日広エージェンシーという広告代理店のコピーライターだったそうですね。1982年に、灘校時代の同級生が重役をつとめていた、かねてつ食品(のちにカネテツデリカフーズ)の全面広告「啓蒙かまぼこ新聞」を雑誌『宝島』に企画執筆。まずはそれが評判となりました。私はこの広告が本当に大好きで、てっちゃんをネタにしたヘンテコなパロディ漫画を学校の授業中に描いて、友達と一緒に投稿したりしていました(笑)。
塚村 高校生時代の丸黄さんとお友達は、「啓蒙かまぼこ新聞」にも登場してるんですよ、ね(啓蒙学園小説「美しく老いる」の梅原美紀と植田朋子〈丸黄うりほ本名〉)。それはさておき。
小堀 おれが、らもさんに最初にお会いしたときの肩書きは「日広エージェンシー企画課長」でした。日広エージェンシー社長の宮前賢一さんは元ボクサーで、「一対一だったら電通にも博報堂にも負けない」(©中島らも)という凄いお人です。らもさんも宮前社長のことをエッセーによく書かれています(『株式会社日広エージェンシー企画課長 中島裕之』2005年、双葉社)。おれもガンジー石原も何かとお世話になりました。らもさんも、宮前社長と一緒に仕事したのが大きかったと思います。ほかの人ではらもさん、のびのびとできなかったんじゃないかな。
——らもさんと『プレイガイドジャーナル』とのつながりは、1983年6月号から「反グルメ小説—超人たちの食卓」の連載が始まって、カネテツの広告が入るようになり、「微笑家族」はその翌月、83年の7月号から始まっていますね。
小堀 「反グルメ小説—超人たちの食卓」は文章だけなんです。連載といっても1回だけで終わるんですが。その前に『宝島』の「啓蒙かまぼこ新聞」があって、らもさんは、そのころにはすでに有名になっていた。それで、村上知彦が編集長のときに、「啓蒙かまぼこ新聞」がおもしろいから、あんなことをやってほしいということになって、らもさんにお願いして「微笑家族」が始まったんです。らもさんは快く引き受けてくれて。
「微笑家族」はカネテツの広告枠だから、まるまる1ページでした。広告なのに、らもさんの漫画とエッセイが入るわけじゃないですか。こちらは広告料ももらえて。
塚村 それはおいしいですね。
小堀 しかもね、これね……(本を見せる)。途中まで「『徴』笑家族」だったんだよね。タイトルはらもさんの手書きなんだけど、漢字を間違えててね。らもさんもおれも気づかなくって。
——本当だ。
塚村 84年2月号でやっと「微笑家族」になった。大きい文字なのに。手書きって見落としがちです。
小堀 「『徴』笑家族」が結構長かったね(笑)。灘校では漢字は教えなかったらしい(笑)。編集者としてはおマヌケな話です。
——そして、小堀さんが編集長のときに、エッセイ「中島らものたまらん人々」(連載時は「たまらん人々」)の連載が始まる。
塚村 「たまらん人々」の第1回は、『プガジャの時代』(ブレーンセンター)によると85年4月号となっています。
小堀 「たまらん人々」はもともと『FILE』という宣伝会議の別冊に、らもさんが発表していたんです。それが 2回で終わっていたので、続きを書いてくださいと。「微笑家族」といい、「たまらん人々」といい、おれは人様のフンドシで相撲をとってばっかりです。
その頃は会社の身売り先を探してて、大変なわけですよね。特におれは役員で編集長だったから、ほとんど金の出ないような状況の中で、月刊誌を作ってて。広告が入ると、ちょっと楽になるわけじゃないですか。そうすると、原稿料にも回せるな、というのが正直あったんですね。今思えば、そういうことをやって、しのぎつつだったわけです。だから、らもさんによるカネテツの広告「微笑家族」掲載は本当にありがたかったですね。
——カネテツの全面広告である「微笑家族」と、「たまらん人々」は同時進行で『プレイガイドジャーナル』に掲載されていたんですね。当時、らもさんは人気上昇中だったと思うんですが、小堀さんは、らもさんの書かれるものは当時からよく読んでらっしゃったんですか?
小堀 うん。ただ、らもさんはまだそんなに書いてなかった。そんなに忙しくなくて、最初の頃は、原稿が普通郵便で届く。で、書き物の仕事が増えてくると、速達で届くようになり、最後はFAXでしたね。「たまらん人々」は書き下ろしのエッセイだから、当然毎月原稿料をお支払いしなきゃいけない。連載始まって3回目かな、文章の他にイラストも描いてもらって、全部の原稿料が1万円ぐらいだったと思うんだけど、この原稿料では安くてとてもやっていけないので、原稿料を値上げしないと、次回から全部ひらがなで書くっておどかされました。なので、1000円上げたの(笑)。そしたら次の回から漢字が増えました(笑)。そういうやりとりをしていったわけです。おれ自身が「たまらん人々」ですが。
——「たまらん人々」は結局どのくらい続いたんですか?
小堀 87年12月号まで。それが『ぷがじゃ』の最終号だから2年半くらいですね。もちろん、それ以外にも単発で原稿書いてもらったり、イベントを一緒にやったりもしていましたけどね。
小説家・中島らもを世に出した『頭の中がカユいんだ』
小堀 それで、『頭の中がカユいんだ』が、らもさんの最初の単行本になるんです。今は集英社から文庫本が出ていますけど、記念すべき中島らもの最初の単行本は、教科書を作っている大阪書籍というところから出ることになった。
塚村 『頭の中がカユいんだ』は、1986年に発行されていますね。
——なぜ大阪書籍から出ることになったんですか?
小堀 大阪書籍にいた西林利裕さんっていう人が、『プガジャ』で「関西達人伝」をやった大山さん、垂水さんと知り合いだったんです。当然おれもすぐ知り合いになるわけ。大阪書籍は、当時は出版部門があったんですよね。竹内義和さんの大映テレビの研究本も出してます。西林さんも相当面白い人で、自分のとこに出版部門があるから書きませんかって、らもさんに持ちかけたわけ。これはらもさんがいろんなところで書いてるし、おれも書いてるけど、最初、西林さんはらもさんに「現代若者気質百選」というテーマでエッセイを書いてほしかった。ところがらもさんは、いきなり書き下ろしの小説、らもさんいわく“ノン・ノンフィクション”、嘘ばっかりのノンフィクションを書くんですよ。
文字通り、虚実皮膜の世界で、実際の話から小説になってるってとこもあるんです。本当はその前に、『全ての聖夜の鎖』という小説を書いて自費出版しているんですが、それはまあ好きな女の人のために書いたらしくて、印刷会社に勤めていたときですね。日広エージェンシーに勤めるよりもまだ前です。
——『全ての聖夜の鎖』は、ペンネームも「らもん」という、違う名義になっていますが、いわゆる“若書き”という感じでしょうか。
小堀 いや、いま読むと、完成度の高い純文学そのものですね。
——それは私家本で、初めて出版された小説本は、書き下ろしの『頭の中がカユいんだ』だった。
小堀 そう。それで、『頭の中がカユいんだ』の出版パーティを「ベティのマヨネーズ」でやるんですよ。ニューハーフのショーハウスですね。そこに、マヤさんっていう人がいたんです。その人も「関西達人伝」に出てきます。らもさんの本ができたから、出版パーティをやろうとなった。最初の本だからね。そのときにどこか会場ないかというときに、垂水さんがマヤさんと話したら、「うちの店でやったら?」って。そこでお願いしてできることになった。「関西達人伝」っていう連載で、大山さんと垂水さんがマヤさんを取材して、マヤさんから紹介されて、らもさんの本の出版パーティができるっていう、そういうのがステキだな、面白いなって思う。「風噂聞書」も長いことやっていくと、いろんなところに面白い人がいっぱいいるのに気づく。そういう人たちをピックアップして仕事していくのが面白いね。
マルチタレント・中島らもと『プレイガイドジャーナル』
——らもさんは、この時代は「啓蒙かまぼこ新聞」と「微笑家族」、カネテツさんの広告のイメージがすごく強かった。サングラスかけて変なことばかり言う、てっちゃんのお父さんが、らもさん自身のイメージと重なる感じでしたね。
塚村 1984年には、朝日新聞の「明るい悩み相談室」が始まってますね。そうなるとうちの母親なんかも、らもさん面白いなんて言い出しました。
小堀 当時、朝日新聞にいた大上朝美さんが初代の担当者だったと思います。『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』(1989年)っていうエッセイはPHPから本が出るんだけど、あれも、もとは朝日新聞が出してたPR誌の連載(朝日新聞播但サービス紙「A+1」)なんです。それも大上さんの担当だった。らもさんは義理堅いからね。PR誌だから短い文章で、自分の青春時代の話を書いて、それがヒット作になるわけです。
あと、島崎今日子さんの存在も大きいね。「アエラ」でインタビュアーとして仕事して、現在は朝日新聞でテレビ番組評のコラムも書いています。らもさんの初期のエッセーにも登場しています。日広エージェンシーの宮前社長もそうだけど、その頃に出会った人では島崎さんもらもさんに影響を与えています。ほかにも、テレビやラジオなど、いわゆるマスメディアからどんどん、らもさんに仕事が来て。
塚村 FM大阪の『月光通信』は、1984年からですね。
——リリパットアーミー名義で、バンドもされてましたね。
小堀 バンドのリリパットアーミーは、劇団の前からやってました。大阪で内田春菊さんのバンド、アベックスと競演したこともありました。肩書はコピーライターだったけど、テレビやラジオのコント書いたり、自分自身も出演していましたね。テレビは、最初にレギュラーになるのが……
——読売テレビの『どんぶり5656』ですか?
小堀 あれは中野裕之っていう、マルチクリエイターというんですか、映画監督でも活躍しています。彼がディレクターで。西川のりおが「夜は真っ暗」とか言ってずっと走ってるだけとかね。とにかくすごいシュールな番組でした。
塚村 『どんぶり5656』は1983年から1984年ですね。
小堀 まだ『ぷがじゃ』になる前の『プガジャ』の頃ですね。『プガジャ』の頃に、読売テレビで『どんぶり5656』が始まって、いとうせいこうが出たり、シティボーイズが出てたり、竹中直人が出たり。
塚村 ガンジー(石原)さんが出たり?
小堀 ガンジーが出るのは、そのあとの『なげやり倶楽部』。
塚村 あ、ガンジーさんはそのあとですか。『なげやり倶楽部』は1985年の10月〜86年1月だから、まだ『プガジャ』の頃ですね。っていうか、85年の9月に学生援護会の傘下になったばかりで、じつは大変な頃。
小堀 『どんぶり5656』があって、またやろうって話になって、『なげやり倶楽部』をやるのが逵(敦史)君ですね。彼はその後、G2っていう名前で升毅や牧野エミちゃんたちと「売名行為」〜「MOTHER」で活躍し、人気演出家になりました。らもさんの舞台の代表作「こどもの一生」の演出家としても知られています。『なげやり倶楽部』をやるってなったときに、プレイガイドジャーナルと一緒にやろうって話になって。それでスタッフで行ったのが近藤(洋行)と、ガンジーと、音楽担当だった片山(禎三)なんだよ。らもさんがパーソナリティでアシスタントが牧野エミちゃん。
塚村 『プガジャ』が華やかなイメージがあるのは、『なげやり倶楽部』とかがあったからかな。近藤さんもガンジーさんも輝いて見えました。
小堀 え!華やか!?まったくおれらはそんな気分じゃなかった。『どんぶり5656』も広告もらってましたね。おれ、読売テレビに版下もらいに行ってました。
——そのへんのシーンが、らもさん中心に来てましたよね。
小堀 今思えば、普通はそうやって読売テレビで仕事してるんだから、もっとお金になる仕事してもいいと思うんだけど、こっちはそういうところの才覚はないから。要するに、読売テレビから番組の広告もらって、それでよし、としてたから、それ以上のことをしないわけだよね。おれらのだめなところは。
この頃は、らもさん、テレビ、ラジオのコントを3年間で1000本ほど書いた時代です。エッセーも一日で7〜8本書くとか、超人的な仕事量でした。そうしたらもさんのコントは『ぷるぷる・ぴいぷる』(白水社/集英社文庫)や『何がおかしい』(白夜書房、2006年)に収録されています。『何がおかしい』の次に出した『ポケットが一杯だった頃』(白夜書房、2007年)には付録で「月光通信」のコント30本が付いてます。いや、とんでもなく面白いです。
本当はプガジャから出したかった!『啓蒙かまぼこ新聞』と『微笑家族』
——まあでも、『プガジャ』がなかったら、『中島らものたまらん人々』も『頭の中がカユいんだ』も出てなかったということですね。
小堀 『頭の中がカユいんだ』は大阪書籍の西林さんの仕事ですから、『プガジャ』ではないんですが、らもさんの単行本はやっぱり、プレイガイドジャーナルから出したかったね。らもさんの2冊目の本が『啓蒙かまぼこ新聞』。これはカネテツの広告ばかり集めた本です。
——この本は、ビレッジプレスから出たんですね。
塚村 ビレッジプレスは、プレイガイドジャーナル社の創立メンバー・村元武さんが1985年に個人出版社として始めた出版社ですね。
小堀 プガジャの経営が学生援護会に移ったときに、村元さんは単行本部門を持って独立したわけです。それで、本当は『啓蒙かまぼこ新聞』が先に出るはずだったの。中島らもさんの最初の本としては。
塚村 原稿は揃ってますしね。
小堀 この本は日下潤一さんのデザインで、解説は村上春樹さんです。
塚村 すごーい。
小堀 『啓蒙かまぼこ新聞』は87年に初版が出たんです。今ここにあるこの本は94年版だから7刷です。編集は村上知彦なんですが、出版が当初の予定から遅れて、結果、2冊目になってしまった。本当はプレイガイドジャーナルから出すはずだったんです。
——北村想さんが自分の本を名古屋のプレイガイドジャーナルから出したように、中島らもさんの本がプガジャから出てたらよかったのに……。
小堀 この本はまさに、経営が変わっても続いてきたプレイガイドジャーナルが解散した時にできたわけ。発行は1987年12月。『ぷがじゃ』の最後の号って87年12月号でしょ。村上春樹が中島らもの本に解説を書いている、二人は『プガジャ』誌上で連載していたわけです。春樹さんが解説を書いたのは1986年9月なんです。それから約1年後に本が出るわけです。
塚村 村上春樹さんには知彦さんから頼まれたんですね。
小堀 もちろん。村上知彦が頼んだから、村上春樹も書いてくれたわけ。すごくいい文章なんだけど、めぐり合わせってやつで、先にこれがプガジャから出てたら……。
塚村 プガジャからこの本が出せてて、潤っていれば、身売りしなくて済んだかもしれない。
小堀 それはないでしょうが(笑)。そんなことはね、もう亡くなった人の年を数えてもいけませんが、おれは、この本のことも含めて悔しいなと思うことがいっぱいあるわけです。それは自分が、ちゃんとそういうとこまできっちりやっていたら……と思う。
塚村 小堀さんがちゃんとやってたら。そういうことですね。残念。
小堀 ただ、おれは編集長で、会社の運営もやってて、そこまでは手が回らなかった。実際、無理だったしね。
塚村 そういえば、『啓蒙かまぼこ新聞』は確かに後出しみたいな感じがしました。
——私も覚えてます。らもさんが本当は小説のほうが書きたかったから、『頭の中がカユいんだ』を先にっていうこともあるのでは?
小堀 それはどうだったかはわからないし、らもさんは自分の中で「どっちが先」とかこだわらない人だったと思う。本当は『中島らものたまらん人々』も、プガジャで出したかった。そっちはすでに東京の出版社(サンマーク出版)が話をしてた。プガジャの最後のころだったから、らもさんに話をしたら、「ごめん、それはもう決まってるから」って。
——でも、らもさんにしてみたら、『頭の中がカユいんだ』は、小説家としてデビューした、いわゆる出世作ってことですよね。
小堀 一般的には小説家としてのデビュー作は名作『今夜、すべてのバーで』(講談社/講談社文庫)になっていますが。おれが言うまでもないけど、『頭の中がカユいんだ』は内容がすごくいい。もちろん『啓蒙かまぼこ新聞』も面白いんだけど、らもさん自身『頭の中がカユいんだ』は、「僕が一番好きな本でもある」ってあとがきに書いてる(『頭の中がカユいんだ』「文庫化に寄せて」1990年、徳間書店)し、もっと後になっても実際によく言ってました。『異人伝 中島らものやり口』(2004年、KKベストセラーズ/講談社文庫)で話を聞いたときもね。『頭の中がカユいんだ』は、集英社文庫から出したとき(2008年)はおれが編集したから、モブ・ノリオに解説書いてもらったし、いろんな思いがありますわ。
そういえば思い出したけど、87年の12月号でプガジャを解散して、12月1日に扇町ミュージアムスクエアで散開パーティをやるんですね。石田長生さんがギター弾いて、憂歌団の木村充輝さん(当時は秀勝)が歌を歌ってくれて、しかもそのギターはちんどん通信社のギター借りてやったりね。亡くなったホン・ヨンウンが歌ったり、河内家菊水丸が歌ったりしてくれたわけね。もう感動的な会で、当時者が言っちゃいけないけど。おれはこの時の木村さんの歌にぐっときて、『憂歌団DELAXE』(1988年、白夜書房)をつくることになるんです。その時は末井昭さんにたいへんお世話になるわけですが……。
で、年末だから忘年会でもしようかってなって、ミナミの味園で宴会やった。そのときに『啓蒙かまぼこ新聞』を編集部のみんなに配ったの。でも、これビレッジプレスの本じゃんって思うとさ……、なんか悔しいなって思った。
塚村 それは悔しい。
小堀 もちろん、プレイガイドジャーナルの経営が苦しくて出せなかったこともあったわけだし、体制が変わってできなかったこともあったわけです。もうそのときは「終わっていた」わけですから、何を言ってもあとの祭りですが。まあ、その後に、おれが編集をしてビレッジプレスから『微笑家族』を出すんですが。
塚村 『微笑家族』は91年8月に出ていますね。
——さらに4年ほどたっている。だいぶ後になりましたね。
小堀 『微笑家族』は実際売れましたし、あとで文庫(双葉文庫/現在は新潮文庫『定本 啓蒙かまぼこ新聞』に収録)にもしてもらいました。
(続く)
注釈
- どんぶり5656:1983年春から1年間、読売テレビで金曜深夜放送されてたバラエティ番組。中島らもが手がけるナンセンス・コント(出演はシティボーイズ、中村ゆうじほか)をつなぐは、竹中直人の「砂の器」、西川のりおの「夜はまっすぐ」、タージンの「男一発あみだで勝負!」、アート・オブ・ノイズの音楽と花火映像の共演「テレビは家具だ」といったコーナー。ディレクターは中野裕之。
- なげやり倶楽部:1985年10月~86年1月、読売テレビで土曜夕方放送されてたバラエティ番組。時代の寵児となった中島らもをフィーチャー、大胆にも司会に抜擢した。トークゲストは、細野晴臣、みうらじゅん、仲畑貴志、景山民夫、鴻上尚史ほか。出演バンドは、シーナ&ロケッツ、米米CLUB、戸川純とヤプーズ、BOOWY、レベッカ、爆風スランプ、憂歌団などと超豪華! ディレクターは逵敦史。
- 牧野エミ:売名行為~劇団MOTHER~タニマチ金魚で活躍した女優/タレント。『どんぶり5656』~『未確認飛行ぶっとい』と続いた読売テレビ深夜バラエティ番組に常連出演。中島らも率いる笑殺軍団リリパット・アーミーにも数多く客演、コメディエンヌぶりを発揮した。2012年逝去。
- 島崎今日子:1954年、京都生まれ。行きつけのバーで女性蔑視発言をした中島らもをギャフンと言わせた逸話を持つ。以来、中島らもは考え方を改め、女性に滅法やさしくなったという。らも夫人・中島美代子『らも~中島らもとの三十五年』の構成も担当した。近著に『森瑤子の帽子』(幻冬舎, 2019年)がある。
(注釈:石原基久)