ベアーズってお笑いも大丈夫なんやて。
ノイズもハードコアもみんな大丈夫。ベアーズにあかんもんってあるの?
(監修:山本精一/取材・構成:石原基久)
──『がんばれ!ベアーズ』本でかなりのボリュームで紹介されてる「上方漫才血まつり」(以下「血まつり」)が始まったのは1989年7月ですね。(89年ベアーズのスケジュールはこちらから)
仲谷 吉本のお笑い情報誌『マンスリーよしもと』の編集をしてて、いろいろ取材をしてるうち、月~金の夕方にやってた『4時ですよーだ』(MBS)からダウンタウンさんが卒業して、心斎橋筋2丁目劇場(以下2丁目劇場)の人気もみるみる下降してきてたんですよ。ちょうどボクと同世代と言うてええのが、NSC7期(1988年4月入学)の蛍原(徹)あたりなんですけど、ベイブルースとトゥナイトがレギュラー持ってるくらいでそれ以外は戦力外。宮迫(博之)もくすぶってる。言うてる間に8期が入ってきて、それがバッファロー吾郎、FUJIWARA、千原兄弟とかですわ。そんなころ、大学の三つ上の先輩、吉村(智樹)さんはベアーズで『月刊耳カキ』のイベントをやってらした。そんなのを観に行ったり手伝ったりしてるうち、山本(精一)さんにお笑いライヴの企画を相談したら、「ええよ」ってふたつ返事で引き受けてもらえたんです。「上方漫才血まつり」の名付け親は吉村さんです。
──月刊耳カキのプロデュースギグは88年6月からで、10月にはバンドのほかにも大林たってるぬれてる、とかお笑いの人も出ていて、仲谷くんが司会してますね(88年10月手描きベアーズスケジュールinfoはこちら)。それよりも前にテントさんが出てたり、ベアーズはお笑いを受け入れる器でもあったんでしょう。吉村くんとは大阪芸大つながりですね、何年卒業になるの?
仲谷 ボクは卒業してません。中退したんですよ。写真学科に行ってたんですけど、徹夜して提出した写真にペンでアカ入れられて。「学生の作品には意味がない」とまで言われて教授とケンカしてしまった。親には「(実家の)居酒屋手伝え」って言われて、しばらく手伝っているうち、人ヅテに『マンスリーよしもと』に写真撮って原稿も書くみたいなバイトがあるよって話をもらって。初めて取材したのがダウンタウンさんの『ラジオが泣いた夜』って公開イベントでした。それから編集部に人もおらへんからずるずると。取材をいろいろするうち、NSCの人たちとは歳も近いから仲良くなっていったんです。
で、ライヴの話を持ちかけると、いまは作家とかやってる元やるじゃね〜か〜ずの浦井(崇)を中心に「出たい出たい」ってことになった。NSCの芸人だけじゃなくて、ほかにも声をかけることにして。庄司(光宏,のちのロボ宙)くんも芸大の落語研究会でコントをしたりしていて、そのコント集団・秘密結社Qも出てくれることになり、大学の先輩、藤井(輝雄)さんは新コンビを結成したというタイミングで、しましまんずで、出てくれることになる。ベアーズに関連する人も出たら面白いやろな……と思いながらも、そんな身内的なノリで始まったのが第1回。
その後、山本さんに、フィリップくん、ヌルピョン、シモーヌ(深雪)さんとかを紹介していただいて、メンバーが更新されていく……。シモーヌさんは上海ラブシアターをやってた時期。そんなシモーヌさんがお笑いの中に混じってシャンソンを歌う(笑)。これは「血まつり」とは別ですが、89-90年、梅田・堂山にPretty vacant colorsっていう屋台村が出来て、そこのPierrotっていうクラブを運営してたコから「何かやらへん?」って言われたけど、ボクがやるには力不足だったから、シモーヌさんに伝えて始まったのが、いまの「DIAMONDS ARE FOREVER」への流れのひとつになったってこともありました。
──バッファロー吾郎の竹若(元博)、千原兄弟のお兄ちゃん・せいじがベアーズのビル(新日本難波ビル)の上に住んでたってのは偶然?
仲谷 偶然です。だから、本番の前、フジモン(FUJIWARAの藤本敏史)とか何人かはお兄ちゃんの部屋でだらだらしてましたね。
──で、「血まつり」は隔月開催することに。第1回チラシのイラストは仲谷くん?
仲谷 はい。自分で描きました。
──達者やね。
仲谷 基本、出演者にチケットを手売りさせるのは嫌だったんで、自分でチラシを作ってあっちこっちに置かせてもらった。「マンスリーよしもと」のデザイン事務所で丁稚見習いみたいなこともしてたんで、紙を自分で買ってきて内緒でコピーしてました(笑)。
──初期の動員ってどうだった?
仲谷 30~40人くらいでした。待機してるコもみんな客席で観るんで、満員に見えるんです。ギャラは出た人全員の頭数で割ってひとり200~300円くらい渡してた。
──客が入り始めるのはいつぐらいから?
仲谷 2年近くしてからですね。『怒涛のくるくるシアター』(YTV)のディレクターが観に来たことをきっかけに注目されるようになって、お客さんも徐々に増えるようになる。山本さんとかも「おもろいヤツ、おるで」みたいに宣伝してくれて、バンドやってるコらも観にきてくれるようになった。2丁目劇場は女のコばっかりやったけど、男の人が増えたのが大きかったですね。もう最後の方は入り切れなくて階段の上の方まで行列ができたりしてた。出てた庄司くんは大林ぬれてる(観城宣治,のちのMC.BOO)と知り合って、脱線3をやり始めたりもする。
──仲谷くんは『吉本新喜劇名場面集1959-1989』(89年12月データハウス刊)って本も編集してたよね。
仲谷 ボクが初めて編集に参加した本です。当時、2丁目劇場のビル(戎橋北詰め現在1Fマツモトキヨシ,2-5FにWEGO)の屋上にトタン張りの倉庫があって。そこに89年の夏、こもって、段ボール箱に入ってる写真を整理して新喜劇の上演タイトルを書き出すという気の狂ったような作業をしてました。
──「血まつり」が生まれたのはそんなタイミングやったんや。
仲谷 気ぃ狂いそうでした。
──『スカパラ新喜劇』もやってたね。
仲谷 東京スカパラダイスオーケストラ(以下スカパラ)が好きで、当時活動してた8人漫才というユニット(ティーアップ前田・長谷川/中田はじめ・圭祐/ぴのっきお新井・清水/ベイブルース河本・高山)の結成1周年企画をスカパラとやれへんやろかと吉本の人と考えてたんですけど、決まらなくて。そうこうしてたら、吉本新喜劇が「新喜劇やめよッカナ?」キャンペーンで、みうらじゅん監修『吉本新喜劇ギャグ100連発』を出したりして話題になって。チャーリー浜さんの「じゃあ~りませんか」がサントリーの栄養食品「ポケメシ」のCMに使われたりもしたんで、企画を練り直して「スカパラと新喜劇」で再提案したんです。そしたら当時スカパラのマネージャーだった方のお母さんが、昔、毎日放送で吉本新喜劇を担当してたことがあると分かって、「やりましょう」ってことになる。恐れ多くも台本もボクが書いたんですよ。もちろん普段書いてはる方にブラッシュアップしてもらいましたが。
──「血まつり」に出演したフィリップくん、ヌルピョン、保山(宗明王)がモダンチョキチョキズ(以下モダチョキ)に次々加入するという流れもあった。
仲谷 確か90年のお正月公演に、芸人とミュージシャンが組んでやるというをやったんです。例えば、バッファロー吾郎と大林たってる・ぬれてるが組むとか。それをモダチョキの矢倉(邦晃)さんが観てて、モダチョキが変わってく。砂場から(濱田)マリちゃんが参加するようになって。人気が出て、モダチョキはソニーと契約することになる。ボクもフロントに参加したりしてたけど、『マンスリーよしもと』の編集をメインにやってたので、メンバーからは離れることになった。でも、デビュー前のブレイングループ「ゴミの日六人衆」に誘ってもらったり、ライヴツアーの演出をやらせてもらったりしましたね。
──ベアーズでやってたのが、サンホール、バナナホール…とどんどんでかいハコに移っていった。
仲谷 吉本でも「吉本印天然素材」というプロジェクトが動き出して、ナインティナイン、雨上がり決死隊、バッファロー吾郎、FUJIWARA……みんな忙しくなって。一回終わろか!と最後はIMPホールで「上方漫才血まつりSPECIAL」(92年2月23日)と銘打ってやることが決まった。デビュー前のモダチョキ、シモーヌ深雪、昆蟲同盟ソラリスとか総出演でファイナルを飾ることができた。
──その後、「上方落語血まつり」や「新・上方漫才血まつり」が始まりましたね。
仲谷 落語家の桂花枝(現在あやめ)さん、月亭遊方くんらとも仲良くさせていただいてたんで、「血まつり」の落語版をやろうって始めたんですね。大喜利には、矢倉さんや保山さんなんかも参加するみたいな形で。「漫才血まつり」の方も、COWCOW、犬ラジオとか新メンバーで始めたけど、結局、長くは続かなかった。
けど、「血まつり」をやらせてもらって本当に良かったと思いますね。苦情も多かったと思うけど、山本さんは何も言わんとやらせてくれた。「血まつり」はボクの原点ですね。いま独身男4人の歌って踊れる音楽劇をやりたいと企画書を提出してるんです。音楽はモダチョキの過去の音源。改めて聴くといい曲が多いし、贅沢と遊び心がしっかり入ってる。『マンマ・ミーア!』がABBAの曲を使ったりするジュークボックスミュージカルのようなスタイルでできたらいいなぁと。で、マリちゃんにも出てもらえたらうれしいんですけどね。
*資料写真提供=仲谷暢之、高橋ケロちゃん
*メモ
- マンスリーよしもと:1981~2009年、吉本が発行していたお笑い情報誌。『マンスリーよしもとPLUS』にリニューアルされ発行は続けられたが、2013年休刊。
- 4時ですよーだ:1987年4月~89年9月、月~金16時~、心斎橋筋2丁目劇場から公開生放送されたMBSのバラエティ番組。ダウンタウン松本久志・浜田雅功の東京進出を後押しした。
- NSC:1980年のMANZAIブームを背景に吉本が82年開講した芸人養成所。New Star Creationの略。第1期は、ダウンタウン、ハイヒールほか。いまは大阪を筆頭に、東京、名古屋、札幌、福岡、沖縄…全国各地にある。
- 吉村智樹:ライター、放送作家。『VOWやねん!』ほかで街のへんな看板ウォッチャーとして知られる。バンド吉村うみぼうずを率いてベアーズ初期には『月刊耳カキ』イベントで活躍した。
- 怒涛のくるくるシアター:1990~92年、雨上がり決死隊、FUJIWARA、バッファロー吾郎らに加え、生瀬勝久、古田新太、羽野晶紀、升毅ら関西劇団系俳優も登場した読売テレビのバラエティ番組。土曜深夜放送。末期は月曜深夜に移動。
- 東京スカパラダイス新喜劇:1991年4月6日、なんばグラウンド花月で開催されたイベント。スカパラメンバーも、チャーリー浜、島木譲二ら新喜劇の役者陣と絡んだ。
- 吉本新喜劇やめよッカナ?キャンペーン:人気が下降した新喜劇を再生させるため、1989年10月から翌90年3月までの半年に観客18万人動員を目標に掲げた。目標は達成され無事存続決定。
- モダンチョキチョキズ:1989~1997年活動していた矢倉邦晃率いる大編成バンド。“音の百貨店”を自称。濱田マリ(vo)を筆頭に、保山宗明王、ヌルピョン、フィリップくん、とんでん、といったベアーズ界隈のキテレツ人間も参加した。
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脱線3:ROBO宙、MC.BOO、KING3LDKをメンバーとする大阪弁ラップを得意とするヒップホップグループ。
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昆蟲同盟ソラリス:ソラリス1号(松蔭浩之)・2号(吉田ヤスシ)がインダストリアルなトラックをバックに歌い踊る。時にソラリスの母(アリスセイラー)も参加。
- ゴミの日六人衆:モダンチョキチョキズのデビュー前を盛り上げるため集められた6人組。メンバーは、仲谷暢之、安田謙一、貝原由理、保山宗明王、吉村智樹、矢倉邦晃。合言葉は「毎月10日はゴミの日です」。「クラブバッタ」の別名も。