魚心と水心

 

そろそろマスクが苦しくなってきた。

炎天下でずっとマスクをしていると熱中症になりやすい、という話がニュースで流れている。わたしもそう思う。六月、東京では気温が30度を越すこともある。戸外でマスクをしていると、部屋に戻ったときにはすっかりのぼせてしまい、それがしばらく続く。外は風が吹いて空気が散らばるのだし、基本的にマスクなしでもいいではないか。

とは言うものの、東京は人が多い。住宅地でも何度か人とすれ違う。マスクなしで、狭い歩道を行き交うのはちょっと気が引ける。かといって、人が向こうからやってきたら着ける、というのも面倒だ。そう、マスクは着脱が面倒なのだ。面倒だからずっとマスクをしてしまうのだ。

わたしはと言えば、だらしないが、歩くときは鼻下にマスクをずらせている。口は前に開口しているが、鼻孔は下に向いている。鼻が開いていてもすれ違う人に飛沫を直撃させることはなかろう、という素人考えなのだ。鼻から吸って感染したらどうするのだ、という意見もあるだろうが、市販マスクの多くは外からの感染を防ぐ効果は低く、むしろこちらからの飛沫を抑えるために着けるのだと思っているから、そこはあまり気にならない。そもそも、1か0かという二分法が日常のそこここにまかり通るのが苦手なので、小数点以下の世界を鼻の下に作って、こんなものだと思っている。

ただ、最近のマスクは、鼻の隆起に添わせるべく上部にワイヤーや棒状のプラスチックを入れていて、これが鼻孔を少し塞ぐので苦しくて困る。しかたなく顎までずらせることもあるが、白マスクでこれをやると顔がまるごと上から吊られているようで、どうも格好が悪い。ときどき柄物の布マスクをさりげなく顎下にずらせている人を見かけて、ああ、あれくらいがいいなと思う。

さて、暑さのせいで、このところ少し暗渠散歩の頻度が減っているのだが、仕事場のロックアウトは解けたので、通勤路の途中で水の気配をたずねている。

牛込弁天町あたりを歩くのは、今の仕事場に移ると決まったときから楽しみにしていた。地図の上では、このあたりに夏目漱石が明治期から晩年を過ごした山房があり、猫の墓もある。そこを通り過ぎてしばらく行くと、研究室に着く。漱石と猫のことを考えながら仕事に通えるのなら、きっとしみじみとしたよい時間になる。そう思っていた。

しかし、実際に歩いてみると、しみじみ、というのとはいささか違っていた。上り下りが多くてせわしないのだ。漱石山房に行くには、弁天町の交差点から、外苑東通りを少し南に行ったところから西に曲がる。「漱石山房通り」というしゃれた名前がついているのだが、この通りの入口から、さっそく下り道だ。下り切ってからちょっと上ったところに山房がある。ああ、ここに漱石が暮らしていたのだな、と通り過ぎると、またそろそろと下りになる。そしてさらに上って下り、ようやく勤め先に向かう早稲田通りと合流する。わずか500mの間に何度も上下動する。落ち着かない通りだな、というのが最初の印象だった。

しかし、暗渠のことを考えるようになった今は違う。道が何度も上下するということは、小さな谷を何度も越えているということであり、見えない川をいくつも渡っているということなのだ。しかもこの地は「弁天町」、水にまつわる女神の名を冠している。これはもう、かつての川辺の町に違いない。

そう思って、まずは漱石山房通りの最初の下りに注意してみた。暗渠初学者にもわかりやすい凹みだ。歩き出してわずか2, 30mのところで、明らかに底を打っている。ここに、漱石山房通りと交わる見えない川筋があるのではないか。試みにその川筋らしきものを南に上って行こう。並行してまっすぐ走っている外苑東通りとは対照的に、いきなりいい感じでくねり出す。水の流れに特徴的なくねりだ。さてその最初の大きなくねりのところに、住宅地らしくない、妙にぽっかり空いた土地がある。地図を見ると、意外にもここが「弁天堂」らしい。近くの宗参寺の地所のようだが、水が湧いている気配はなく、ごくそっけない、駐車場のような平地だ。しかし、おそらくかつては、「弁天堂」と呼びたくなるような風情があったのだろう。その先の道はさらにうねりながら、市谷柳町の手前で外苑東通りと合流する。そのまま進んでいくと、防衛省の西あたりで上り坂は終わり、そこからは曙橋に向かって急下りの「合羽坂」になる。どうやらこのあたりが分水嶺のようになっているようだ。

来た道を戻ってみる。同じ道でも、上りと下りではまるで違う。見えない川筋を遡るとき、わたしは水の流れに逆らうように上流を目指している。やってくる水の気配を受け止め、微かな粘性に抗いながら泳ぐように歩く。いわば「魚心」だ。それに対して、川筋を下るときは、水の気持ちになっている。低みをすいすいと目指していく。「水心」だ。魚心で行けば、景色は挑むようにこちらに迫る。水心で行けば、景色は促すようにこちらを誘う。魚心では目についた小路が、水心ではもう隠れている。かと思えば、魚心で見逃していた屋根の並びが、水心では見晴らすように見えてくる。

さて、漱石山房通りまで戻ってきた。答え合わせをしよう。「東京時層地図」でまずは「段彩陰影図」を見る。やっぱりそうだ。ここは明らかに「渓谷」だ。市谷薬王寺町あたりから、北に向かってくっきりと深い谷が牛込弁天町の交差点あたりまで続き、そこからぐっと神田川(江戸川)流域の低地が広がっている。わたしの歩いたところは、かつて川だったのだろう。

次に、明治初期の地図を開いてから、おかしなことに気づいた。交差点がない。弁天町にあるはずの交差点が、ないのだ。

(6/15/20)