第1回から第3回までは『離人小説集』(幻戯書房)が書かれたきっかけと所収の6作品「既視」「丘の上の義足」「ガス燈ソナタ」「無人の劇場」「アデマの冬」「風の狂馬」について順にうかがってきました。第4回は『離人小説集』の最後に収められた「天空の井戸」について。さらに、現在執筆中の新作小説についてもお話は及びました。鈴木さんの小説に対する考え方が浮き彫りになる刺激的で貴重なインタビューです。(丸黄うりほ)
「天空の井戸」に書いていることは、全部ほんとにあった!
——次は、いよいよ最後の作品「天空の井戸」です。これは小野篁。
鈴木創士さん(以下、鈴木) 小野篁は僕が尊敬する知識人です。遣唐使として渡航することを拒否した人。で、すごく優秀な人で役人ですよね、公卿だったんだけど、子どものころ勉強しなかったんで、嵯峨天皇に「なぜ、おまえは勉強しないんだ」と言われた。で、あるとき奮起して役人になるんだけど漢詩の知識が白楽天と並ぶくらい、要するに漢詩を全部知っていた。で、詩で嵯峨天皇をからかうんですよ。彼はたぶん宮廷に批判的だったと思うんですよ、そういう記録はないけど。それで、島流しになるんです。でもまた呼び戻されたかなんかで。やっぱり優秀だったから役人に復帰するんだけどやめちゃう。
篁には、閻魔の補佐をしていたという伝説があって。『今昔物語集』に出てくるんですけど。それで、六道珍皇寺(京都市東山区)っていうお寺が六波羅蜜寺のそばにあるんだけど、以前その近くに仲のいい女性が住んでたんですよ。
——六道珍皇寺には、小野篁が冥界に行くために通っていた井戸があるんでしたっけ。
鈴木 そう。絶対に行こうと思っていたのに行けない。歩いてすぐのとこなんだけど、なんか行けなかったんですよね。でも、ある日行けたんです。その女性と一緒に行ったらね、「天空の井戸」に書いていることは全部ほんとのことなんだけど、めっちゃ変なやつが出てきてね、雨降ってるのに「今日はええお天気でよろしおすなー、ようお参りしてくださいました」って。おかっぱでさ、Tシャツ着ててジーパンはいてんだけど、年がわからんみたいなやつでね。
で、作家のいしいしんじと僕は仲良くて。この人も京都の人だから、会ったときにこういうことがあったって話したら、「それは創士さん、井戸から出てきた亡者やで」って。で、「そういうことか!」と思って。
——そういうことかって(笑)
鈴木 (笑)。その日はね、ご開帳の日だったんです。小野篁が地獄に入ったっていう井戸があって、まあ何の変哲もない井戸で、いつもは遠くから覗けるだけなんですけど、その日はご開帳だったから、井戸のある庭に面した縁側まで入れてくれたんです。で、そこに行ったら住持が「これ写真とか撮りはったらカメラが壊れたり変なもの写ったりしますからやめてくださいね」って言うから、隠れてめっちゃ写真撮ってさ。で、あとでわかったんだけど、その日ってご開帳だから拝観料がいくらか要ったのに、僕らはただで入った。
——なんでですか?
鈴木 わからない。誰もいなかったからそのまま入ったんだけど。だから透明人間みたいに(笑)。
おかっぱ男の正体も、わからない。でも、ほんとに後ろを振り返ったけどいなかった。篁の像と閻魔の像があるところが、ご開帳ですよって言うからそこ行って、見てて、ぱっと振り返ったらもういなくて。一緒に行ってた彼女も「あれっ?」とか言って。「どこいったん、あの人?」
で、帰ろうと思ってさ、そのころ僕もうすでに足が悪くなりかけてて靴紐が結べなくて、玄関で手こずってたんですよ。そしたら後ろで「お帰りですか!」とか言う人がいてさ。ぱっと振り向いたら芦屋小雁だった(笑)。これ全部ほんとの話なんですよ(笑)。ただまあちょっと書き方を違うようにしようと思って。でも起こっていることは全部本当のこと。
でね、僕は高校生の時まで幽霊が見えてたんですよ。でも左翼だったから唯物論者でしょ、そういうふうにならないといけないと思ってた。ところが幽霊見えてて、めっちゃ困っててね。「でもいるんですけど」って先輩に言ったら、「そりゃおまえ頭おかしいんや」って言われた。でもね、見えてたんですけど、見えなくなったんですよ。それからは、もうそういうもんに縁がなかったんだけど、六波羅蜜寺の女性のところに行くようになって、また見るようになって。
——今も見えるんですか?
鈴木 今は見えないけど、そういう現象は起こる。この話は10年前から5年前の間くらいかな。そのへんでまた復活しちゃったんですよ。あの辺りはね、そういう場所なんですよ。お盆の発祥の地だから。六道の辻ってあるでしょ。あの前のお寺ですよ。
——あの辺りは、昔からそういうことが言われてるらしいですね。
鈴木 そういうところです。鴨川から鳥辺野の辺りは死体捨て場だったから。で、僕この作品のなかにも書いたけど、清水焼の煙突があるんですよ、彼女の住んでたとこの近くにね。いつもそれが火葬場の煙突に見えてしまってさ、気持ち悪くって。ただ、下町でいいとこなんだけどね、気さくで、物価安いし。で、僕やたらあの近くに知り合いが多くてね、ミュージシャン関係のやつとか、そのへんの小学校に行ってたとか、なんか縁があるんかなと思う。
ただ、篁は歌人で、歌が古今集や百人一首に残ってますが、この小説だけは篁の作品にまでは入り込んでないですね。
——そうですね。この作品はちょっと他の作品と書き方が違う。でもまあこれも散歩小説ではありますね。そして、これも分身の小説というか、離人感があります。
鈴木 それが全体のテーマであることは確かですね。
観念があっても、小説を書くと違う要素がでてくる
鈴木 『離人小説集』といういうタイトルは、幻戯書房の編集者である中村健太郎くんがつけてくれたんです。で、これはいいやと思った。ま、彼が読んでそう思ったんでしょうね。僕はタイトルつけるの下手くそでさ。
——離人、分身というのはこの作品だけではなく、鈴木さんにとっての大きなテーマなんですね。
鈴木 そうですね、それはずっと僕ね、記憶というのはなにかというテーマがあって。それなんですよね。
——『離人小説集』を読むと、鈴木さんがこれまでに話してくださったこと、不思議なことも含めてですが……、それが感覚的にわかりますね。
鈴木 僕は屁理屈的な文章とかも多いんだけど、批評家ではないから。学者でもないし。感覚の方が先に来るんですよね、だから批評書いても感覚的な批評になってしまってるところはある。別に論理を軽蔑しているわけじゃないんですけど、そっちが先なんです。
——論理よりもイメージ。
鈴木 そう。そして、それはただぼんやりしたイメージじゃなくて数学的イメージなんですよね。僕は数学が好きでね、昔はそっちのほうが好きだった。ある意味そっちは動かせない。物質ってそういうもんだと思うから。こっちには詩的イメージもあるけど、必ずしも詩的イメージだけじゃないんですよ。フランス語でも英語でもフィジクていうのは物理的とも身体的とも訳せるから。だから同じことで、物体的ということだから。分身もそうで。だから必ずしもおばけの話じゃないんですよ。分身っていったらドッペルゲンガーとか、自分の分身を見たら死ぬとかそういう話もあるんだけど、もちろんそういうのもあるんだけど、でもそれはどういうものかなってずっと思ってて。それはいわゆるイマージュ、像というようなものに近いんじゃないかなという、そういう物理的イメージがほんとは先かもわかんない。数学でいうと写像ってあって。一つの真理があったらそれが影のように別の事柄に対して一対一の対応関係ができるっていうのがあるんだけど、イメージっていう言葉の中にそういう感じもあるんです。
——小説を読むことを、筋やストーリーを読むことだと思っている人が多いですが、これは違いますね。
鈴木 全然違いますね。
——筋は本質的には抽象的なもの、頭の中で生み出されたものだと思うんです。鈴木さんのこの作品はストーリーはないけれどイメージはある。筋はもやもやとしているけれど、ビジュアル的には具体的で、鮮やかですね。
鈴木 ある種の理想とか抽象的な思考があって、ほとんどの作家は、最初にそれが来る人が多いと思う。ただ作品になるとね、自分はそうやって書いていても、そうなってないのもあるんです。たとえば三島由紀夫の最後の作品『豊饒の海』なんか。彼には完全に観念があったんだけど、小説を書くっていうのは違う要素が出てくるもんなんです。だから、そこが小説の面白いところで、そんなふうに考えててもそうならないところがあって。とくに18世紀の外国の小説なんて要するに全部入っているんです。詩から評論から愚痴から生活のこと、全部いっしょくたになっているイギリスの小説とか、フランスでもディドロっていう人の小説とか。本来はそういうものだった可能性があるから。それを近代になって凝縮させちゃって、ある種の形ができちゃったんですね。エンターティメントのほうもそこから形にしようと思っているから、それがとれないんだよね、みんな。
しばらくは、評論や翻訳よりも小説を書いていきたい
——いま、新しい小説を330枚まで書いてらっしゃるとうかがいましたが。
鈴木 出版社も決まってない。第一部は日記でね、「僕」っていうやつがいて、おじいさんとおじさんと一緒に住んでるみたいなんだけど、おじさんとおじいさんも日記を書いていて、それをあわせて載せたりする日記なんですよ。で、第二部は幼なじみが訪ねてくるんだけど、昔の家に行ってみたら廃墟になっている。そこで入ってみたら、かばんがあって、あけたらその日記が出てくる。幼なじみは仙台の会社員で真面目な人なんだけど、その人がそれを読んでどうのこうの……。全部ばらすのもあれなんだけど、めっちゃ入れ子になっている。おじいさんとかおじさんがめちゃくちゃなんですよ。日記の日付は2019年が最後なんだけど、それだと幼なじみからすると年があわない。どう考えても自分も老年にさしかかっているのにこれは絶対日付は嘘だって、そういういろんな連想を思い巡らして。
——とてもおもしろそうです!ぜひ読みたいです。で、鈴木さん、もしかしたら、いま小説モードに入ってるんでしょうか?
鈴木 入ってるんですね。そうなんですよ。ずっと評論とか書いてきたけど、違うことをしたい。
——翻訳のほうは?
鈴木 翻訳はいま人から頼まれてるのやっているけどそれが難しくて。ほかにも計画あるんだけど、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンっていう19世紀の作家。なかなか話が辛気臭くて。文章は素晴らしいんだけど。
——『離人小説集』編集担当の中村さんも関わってらっしゃる、幻戯書房の世界文学シリーズ「ルリユール叢書」は?
鈴木 あれもなんかやってくれって言われてるけど、まだそこまで手がまわらないから待ってくださいという感じです。いましばらくは小説を書いていきたいですね。
塚村編集長(以下、塚村) 鈴木さんが以前翻訳されたアントナン・アルトーの『演劇とその分身』で、アルトーが「演劇とペスト」というテクストを書いていて。それをコロナ禍のいま読んだら「おお!」という感じです。
鈴木 あれはすごいですよね。ペストみたいな疫病、奇妙な病気だっていうのと演劇を対比して書いてるんですよね、演劇もそういうもんだ、みたいな。で、ペストの詳しい歴史とかも書いてて、ま、アルトーの書くのは難しいんだけど面白い。20世紀ではアルベール・カミュの『ペスト』と、アルトーの「演劇とペスト」。
塚村 鈴木さんが書かれた『アルトナン・アルトーの帰還』のなかに、「肉体が蝕まれるだけじゃなくて風俗も崩れていく」とかあって、ああ、こういうことなのかっていうのがわかった。
鈴木 ただ、ペストの記述でいちばんすごいのは紀元前です。ルクレティウスの『物の本性について』という本は、最後がペストの描写で終わるんです。それはすごい細かに描写してある。あと、14世紀だけど『デカメロン』のボッカチオ。ボッカチオは生き残るんですよね。14世紀って1億人死んだっていわれている。ロンドンの半数が死んだとか、ベネチアとか、ヨーロッパがほとんど壊滅状態。だからね、あれ読むと勇気湧く(笑)。医療が発達してなかったっていうのも大きいと思うけど。あとね、ノストラダムスっているでしょう?ペストを治したので有名だったんですよ、医者で。もうすごい民衆にありがたがられていた先生で。20世紀はカミュの『ペスト』とアルトーのしか知らないけどね。結構、絵とかもありますよ、バロックの時代の蝋細工みたいな、彫刻なんだけどペストでドロドロになって死んでるみたいな。いまでもイタリアに残っていると思う。
(5月12日、神戸市内で取材。協力:アビョーンPLUS ONE。写真: 塚村真美)