町で川久保玲の悪口をいおう!
文・嶽本野ばら
昔、過去のコムデギャルソンのお洋服をクローゼットに収納しきれないという理由で、可燃ゴミとして捨てている——と話すと友人に仰天されました。でも、ギャルソンのお洋服は毎シーズン、余りにコンセプチュアルなので翌年、着れないじゃないですか。
憶えておられますか? 97年s/sのボディミーツドレス、マース・カニングハムのダンスの衣装としても話題になった肩や背中に大きなパットが取り付けられ、身体のラインをわざと不自然(醜悪)にデフォルメし、瘤ドレスと揶揄されたコレクション。変テコ過ぎてシーズン中でも着辛かったので、その後、着回すなんてやれやしませんでした。
リアルクローズとでもいうべきPLAYが始まるくらいから僕はギャルソンと距離を取り始めました。そしてリバイバルのラインであるBLACKが定着した頃には、もうキャルソンへの信仰をほぼ失くしていました。
川久保玲はビジネスもクリエイションと捉える——とインタビューで応えます。彼女は、その服作りと同様、売れる筈のないものを売ることで、自らの反抗の姿勢を成立させました。PLAYに関しては高級、前衛、スノッブな人々のモードとして定着したメゾンのイメージへ、自ら刃を向ける行為だろうと思いましたので、批判する気はありませんでした。が、BLACKに至っては非難せざるを得ない。
過去の焼き直しはヴィヴィアンウエストウッドもお得意ですが、厳密にいえばヴィヴィアンはお洋服屋さんではない。中古レコードを売る傍ら、何かセンセーショナルなことをして世間を出し抜いてやろうという意地悪から、ガーゼでTシャツを作ったり、マルクスのポートレイトをプリントに使ったりしただけですから、それはあくまで手段でしかなかったのです。しかし川久保玲は根っからのお洋服屋さんです。
BLACKは当初、アーカイブをテーマにした期間限定の実験だった筈です。継続させたのは思ったより売れたから。ファストファッションに押され、どのメゾンも経営の危機に遭遇する中、本体を継続させる為、恐らく川久保玲はデザイナーとしてのポリシーよりも経営者としての判断を優先する決断をした。でも結果、その頃から川久保玲のクリエイションは迷走を余儀なくされました。持ち返したと思った時期もあったのですが、今期の20-21a/wで僕はまた落胆させられました。これは川久保玲によるコムデギャルソンの換骨奪胎に過ぎない。ロゴ入りの白い靴下……恥ずかし過ぎるぞ。
でも……と僕は思う。もしかすると川久保玲はわざとこんなつまらないコレクションを発表したのかもしれないと。
お洋服屋さんである前に彼女の根底にヒッピー思想があるのは明白で、仮令、デザイナーより経営者としての立場を優先させたとしても、それは捨てることが出来ない。フリーダム! 彼女はその為にあらゆることを台無しにする覚悟を持っている。反抗の性質を持つ彼女は、このコレクションを徹底的に非難されたかったのではないか? 焼きがまわったと嘲笑されたかったのではなかったか?
誰もコムデギャルソンに批判的な見解を示さない。かつてボロルックでパリを震撼させ、インテリ層の支持を受けたが故、コムデギャルソンをなじると頭が悪いと思われてしまうから悪口をいう勇気をどの有識者も持ちはしない。山本耀司を批判する者はいても川久保玲には全ての批評者が、憶病風に吹かれ、触らぬ神に祟りなしと傍観です。日本の文学界に於ける大江健三郎の神格化に似ている。
2018年s/sで高橋真琴等、様々な画家の絵を大胆にポリエステルの生地に転写プリントさせたコレクション——。僕はあれに川久保玲のアイロニーを感じました。オリジナル柄の生地は、反物そのものの発注になるので、お洋服を作る者にとってはロット数を計算しながらのリスクを伴う冒険となる。だけどそれがやれるのを目標として小さなメゾンは奮闘する。転写プリントという技術がリスクを失くした。今や無地のTシャツは一枚であれ、全面、前も後ろも安価で加工がやれる。
マンションメーカーとして服作りを始めた頃、川久保玲もオリジナル柄生地の壁にぶち当たったでしょう。技術革新は有り難い、でもその為に失われたお洋服屋の気概もある……2018年s/sコレクションは相反する川久保玲の心を映すものだった気がするのです。
ラクしてんじゃねー、生地から作れ! 誰かがランウェイに向かってヤジるのを彼女は待っていたのではないか?
コムデギャルソンは捨てるけど、MILKやジェーンマープルは保管しておく。僕にとってはそれが礼儀のようなものです。キャバ嬢は毎回違う方がいいが、奥さんは一生モノみたいなものですかね。うう、何て下品な表現だ。バカですみません……。
(6/3/20)