「忍び靴」

 

ようやく『日和下駄』を読めるようになってきた。

永井荷風『日和下駄』は、東京の地形に親しもうとする者なら必ず手に取る随筆集である。淫祠、樹、地図、寺、水、路地、閑地(あきち)、崖、坂、そして夕陽。江戸切図を手に散策しながら、かつての江戸の姿を透かし見る荷風の手足によって、微細な上り下り、坂上から谷越しに向こうの坂を見晴るかす景色、裏道に沿って流れる小流、複雑な地形によってもたらされた東京という町の魅力が次々と明らかにされていく。

『日和下駄』は、コロナ禍の今日、公共交通機関の利用を減らし、人ごみを避けて歩くための指針として読むことすらできる。

「市中の電車に乗って行先を急ごうというには乗換場を過る度ごとに見得も体裁もかまわず人を突き退け我武者羅に飛乗る蛮勇がなくてはならぬ。自らその蛮勇なしと省みたならば徒(いたずら)に空いた電車を待つよりも、泥亀の歩み遅々たれども、自動車の通らない横町あるいは市区改正の破壊を免れた旧道をてくてくと歩くに如(し)くはない」。

とは言うものの、わたしは関西に住まっていたころから、この『日和下駄』を楽しめていたわけではない。そこに綴られている東京市中のさまざまな固有名詞の連続は、落語を志した荷風だけあって、語り口は調子が良いのだが、何しろなじみのない都市だから、どの土地の名も、どこか連なりを欠いた点のように唐突に響く。なんだか霧の中のハリネズミが靄の向こうから顔を出す白馬に驚くのに似た心持ちで、とても読みながら町を散策している気分にはなれなかった。

たとえば、『日和下駄』の最初の方で、ごく個人的で平凡な景色として綴られる景色。

「砲兵工廠の煉瓦塀にその片側を限られた小石川の富坂をばもう降尽そうという左側に一筋の溝川がある。その流れに沿うて蒟蒻閻魔の方へと曲って行く横町なぞ即その一例である。両側の家並は低く道は勝手次第に迂っていて、ペンキ塗の看板や模造西洋造りの硝子戸なぞは一軒も見当らぬ処から、折々氷屋の旗なぞの閃く外には横町の眺望に色彩というものは一ツもなく、仕立屋芋屋駄菓子屋挑灯屋なぞ昔ながらの職業にその日の暮しを立てている家ばかりである」。

「砲兵工廠」でもう弾き返される。富坂も蒟蒻閻魔も知らぬ身にはぴんと来なかったし、曰くありげに記されている「一筋の溝川」なる流れも頭の中で確たるイメージを結ばなかった。

東京に住まうようになって、その富坂も蒟蒻閻魔も歩いて行けるようになった。それらが、荷風の生家のすぐそばであったことも知った。いまなら、神田川から水道端、金剛寺坂を上り、荷風の生家跡を通って伝通院前に出てそこから富坂上へ、もとは砲兵工廠だった敷地が中央大学・後楽園キャンパスになっているのを右側に感じながら、荷風の言う「煉瓦塀」の感覚はこれかしらんと想像をめぐらしながら坂を下り、春日町まで降り尽くす手前の富坂下、文京区シビックセンターのある交差点を北に折れ、いまは二車線の広々とした車道が通っているこの道が、荷風の書く「横丁」であり、ここに「一筋の溝川」すなわち小石川が流れていたのかと感慨にふけりながら、蒟蒻閻魔にたどりつくことができる。なんなら、その流れの上流に、千川通りにまとわりつくように流れていた溝川、のちに田村隆一の祖父が開いた大塚三業地、そこから大塚駅をはさんで西巣鴨、板橋、そしてうねうねと屈曲する緑道と化した谷端川の行方までを頭の中でたどることができる。このコロナ禍によってもたらされた暗渠探索で、何度か通った道である。

では、わたしは『日和下駄』の精神を会得できたのかといえば、とんでもない。わたしは「日和下駄」という、一見のんびりと柔らかいことばに、いまなお、近づきがたく油断ならないものを感じている。

理由の一つは、荷風の自画像にある。

岩波文庫の『荷風随筆集』の表紙や東都書房版『日和下駄』には、荷風の直筆による自画像の挿絵が付されている。それはまさに『日和下駄』の冒頭の一文「人並はずれて丈(せい)が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く」ということば通りの姿なのだが、問題は下駄の高さだ。日和下駄というのは元来、「日和」という名の通り、日和のよい晴天にはく下駄という意味であり、細くて低い差し歯の下駄を指す。ところが自画像の荷風ときたら、「日和下駄」にはありえないほど、高い歯のついた下駄をはいている。ただでも高い立ち姿が、下駄の高さのおかげで鉛筆のようにひょろ長くなっている。これはもはや「日和下駄」ではなく「高下駄」ではないのか。

下駄の歯が無駄に高い理由は、冒頭の続きを読めばわかる。雨道である。

「いかに好く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにお上の御政事とばかり極ったものではない。春の花見頃午前の晴天は午後の二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。梅雨の中は申すに及ばず。土用に入ればいついかなる時驟雨沛然として来らぬとも計りがたい。(中略)閑話休題日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返す霜解も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通、やたらに溝の水を撒きちらす泥濘とて一向驚くには及ぶまい」。

どこもかしこもアスファルトで舗装された現代では、下駄の効用を想像するのはむずかしい。けれど、もし道のほとんどで土が剥きだしており、そこに雨が降ったとしたらどうだろう。ぬかるんだ道に足を埋めぬように歩くには、なんとしても靴ではなく、歯の高い下駄でなければならなかった。

田山花袋は『東京の三十年』(大正6年)を「その時分は、東京は泥濘(でいねい)の都会」と書き出している。「その時分は」とは、明治15年ごろ、花袋が小僧だった頃の東京のことなのだが、大正6年ですら、銀座日本橋はともかく、東京はいたるところ砂道、土道だった。この年、早稲田大学高等予科1年に編入した井伏鱒二は、学校のそばにある「廻陽軒」という店に「板草履」を預けていた。東京が、ぬかるんでいたからだ。

「私はこの店に板草履を預け、雨の日は高下駄をここで板草履にはきかえて教室に出て、歸りは高下駄にはきかえていた。雨の降る日は大通りも横丁も道がぬかるむので、どろんこになった靴では冬は足先が冷たく、私は霜燒性だから靴を止して下駄をはいていた。學校には下足預所があって高下駄や雨傘を預かっていたが、控えのスリッパや草履を持って通學するのは面倒だから下足預所を利用しなかった。學生服に板草履で教室に出ていたわけだ。板草履なら草履やスリッパと同じに見做されていた。」

したがって、大正3年に連載された『日和下駄』の下駄を、字句通りに、天気の好い日和にのんびり歩くための履き物と受け取ってはならない。それはいつなんどき降ってくるかわからない雨を恐れながら、東京のぬかるみに万全の体勢で臨むための用心深い武装なのだ。自画像に描かれた下駄の歯の高さは、ただ背丈を増すための誇張ではないのである。

もちろん、晴れた日ならば、日和下駄の歯先は泥をまとうこともなく乾いた音をたてる。荷風自身「日和下駄をカラカラ鳴して」と書く。しかしこれとても、ただ晴れやかで軽い散策の響きととることはできない。荷風のたどる道はそんなに明るいものではない。

「裏町を行こう、横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラカラ鳴して行く裏通にはきまって淫祠がある。淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしでそのままに打捨てて置かれれば結構、ややともすれば取払われべきものである。それにもかかわらず淫祠は今なお東京市中数え尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景に或趣を添える上からいって淫祠は遥に銅像以上の審美的価値があるからである。」

淫祠とは、国家に認められない、民間信仰の祠の意であり、先の蒟蒻閻魔もその一つである。「日和」下駄の行き先にわざわざ邪淫の淫、湿度を漂わせるサンズイの文字を含ませ、金属の銅と対比させるところに、荷風の諧謔が感じられる。光あるところに影がある。淫祠のくだりに限らず、荷風はわざわざ横道、裏通を好み、日の射しにくい薄暗く湿っぽい路地を選び、そこに小流を見つけては感慨にふける。まるで水分にたどりつきたがっているかのように。

もしかすると、「日和下駄」冒頭で記されている雨への異様な警戒、あれは「饅頭こわい」なのではないだろうか。荷風は東京を歩きながら、行く先に水分、湿り気を求めている。カラカラ鳴る下駄の音は、じつは水分の不在を訴える音、雨乞いの音なのではないか。雨を得た蛙が水だ水だとケロケロ鳴くのに対して、荷風の下駄は水がない水がないとカラカラ鳴る。鋭く高い下駄の歯は、水分を欲し、泥濘を貫きたがっており、その手応えのなさを、カラカラと甲高い声で訴えているのではないか。

わたしは、このところ、暗渠をあちこちたどり、『日和下駄』に記された固有名詞の連なりに、ようやく親しむようになってきた。いまは水のない道のうねりに、川筋を幻視することも、なくはない。しかし、固いアスファルトを踏む柔らかい靴底の立てる音はあまりにつつましく、荷風の下駄の境地にはほど遠いのだ。

(5/27/20)