「渓谷と呼んで悦に入る」

 

このところ暇さえあると、東京の陰影段彩図と地図を見比べている。「渓谷」の位置を知るためだ。

渓谷、というのはわたしが自分が使うために勝手に名付けたものだ。陰影段彩図では、東京の小さな高低がまるで大渓谷のように見えてくる。それでわたしは、仕事場に向かう道すがら出会う上り下りと段彩図の大渓谷を結びつけて、「山吹渓谷」とか「弁天町渓谷」などと呼んで悦に入っているのだった。

さて、わたしがかねてから疑問に思っていた地名に「神楽坂上」がある。

神楽坂といえば、TV番組でもしばしば取り上げられる有名な観光地だが、この地名の何が疑問かと言えば、神楽坂「上」というのが、ちっとも「上」ではないということだ。JR飯田橋駅を下りて「神楽坂」と呼ばれる通りをてくてく歩く。なるほど坂と呼ばれるだけあって、けっこうな上り道だ。ところが途中、ちょうど毘沙門天の手前あたりから、坂はだらだらと下りはじめて、下り切ったところにどういうわけか「神楽坂上」という表示がある。そこから再びぐんぐん上り始めて、赤城神社前を通り、かもめブックスや新潮社のある矢来町に出る(図1)。

図1:JR飯田橋駅から神楽坂上への道(細馬による)

「神楽坂上」というのは、どこに対する「上」なのか。答えはある。JR飯田橋からほど近い、壕のたもとが「神楽坂下」であり、そこから神楽坂を上って下り、広い通りに出たところが「上」なのである。明治期の神楽坂はこのあたり、昔の名前で言えば肴町(さかなちょう)までで一区切りだった。だからその区切りを「上」と名付けた。そして確かに「神楽坂上」は「神楽坂下」よりは上である。ずいぶん上って、少し下る。プラスマイナスでいえばプラスである。

とは言うものの、たどりつく直前に、そこそこ下るのだ。よそ者のわたしは、納得がいかない。坂の頂点を「上」というのであれば、わかる。しかし、いったん上ってから下ったところを「上」と言ったのでは、せっかくの盛り上がりが台無しではないか。

例によって、上り下りに厳密さを求めてはいけないのではないかと思ったこともあった。ビー・ヒア・ナウ。いまある高さを楽しめ。そう思ってはみるものの、高みとは孤高の存在ではなく、周囲との比較によって決まるのだ。「神楽坂上」から進んでも上り、戻っても上り。なぜ「上」からさらに上るのか。理不尽である。

そのうち、この「神楽坂上」という地名を考えるための別の手がかりを見つけた。それは例の段彩図である。神楽坂一帯は、段彩図を見ると、牛込山地(「牛込台地」というべきところだが、高低が強調されているので、もはや「山地」である)の縁に位置しており、JR飯田橋駅から山を上がる格好になる。だから坂が急なのだ。ところが、この牛込山地には、渓谷があちこち切れ込んでいる。中でも目立つのが、神楽坂の通りをぶった切るように切れ込んでいる谷である。これを仮に神楽坂渓谷と呼ぼう。「神楽坂上」は、ちょろちょろ流れてきた川筋がいきなり渓谷として開ける、ちょうど喉口に当たっている。つまり、神楽坂を歩くということは、牛込山を登り、途中で神楽坂渓谷にちょっと下りて、また渓谷を上るということであり、その渓谷の底、窪地になったところが「神楽坂上」なのである。

さて、この神楽坂渓谷には、現在、水は流れてはいない。しかし、いかにも大いなる川が長い年月をかけて河岸段丘を作ったらしい地形である。きっと江戸か明治か、まだ街がそれほど開発されていない頃、ここを水が流れていたのではないか。

そこでおおよそこういう推測をしてみた。神楽坂上のさらに西、まだ渓谷というには細い流れが、箪笥町から地下鉄の牛込神楽坂駅を経て神楽坂上に走っている。ここから、東にある筑土八幡に向かってパカンと渓谷が開け、流れはかつての江戸川に向かって注いでいる。現在の道路に当てはめれば、今はなきなだらかな川筋がそこに出現する。「神楽坂上」とは、神楽坂とこの川筋の交わる場所に名付けられた名前ではないか。

誰にともなく、そうつぶやいてみた。つぶやく、といっても虚空にではなく、インターネット上にツイートしたのである。つぶやきは虚空に消えるだけだが、ツイートすると全世界の人が(読もうと思えば)読めてしまう。そして、まだお会いしたことのない、それどころかネット上でもことばを交わしたことのない本田創さんから、ツイートにお返事が来た。「はじめまして。かつてはこんな感じに水路が流れていました。筑土八幡の東方に少しだけ、水路の痕跡の路地が残っています」。お返事に、図までつけてくださった。

本田さんは「東京暗渠学」「はじめての暗渠散歩」の編著者であり、「暗渠」の大家である。ちなみに、ここでいう「暗渠」とは、いわゆる蓋をされた水路だけを指すのではなく、「かつて川や用水路が流れていた空間・場所・道で、かつ今でもその流路が地図上や現地で確認できるもの全般」(本田創・高山英男・吉村生・三土たつお『はじめての暗渠散歩──水のない水辺をあるく』ちくま文庫)を指す。つまりは、わたしがこのところ関心を抱いてきた、「渓谷」の大家なのである。

ところで、わたしが当初思い描いていたのは、神楽坂上から渓谷の中心あたりを、なだらかに落ちて行く水路だった(図2左)。ちょうど東に向かって、渓谷の真ん中を広い道が通っている。そこを抜けて筑土八幡の前に出て、さらに東へ、小石川牛込線に沿うようにたどっていけば、ごく素直な川筋を引くことができる。しかし、本田さんの描いた図は、わたしの予想に反して、あちこちがガクガクと屈曲する、複雑な水路だった(図2右)。

図2:(左)細馬の思い描く神楽坂渓谷の川筋と、(右)本田さんの描いた水路の屈曲(細馬による描き直し)

単に陰影段彩図に描かれた渓谷の真ん中をまっすぐに川が進んでいくなら、もっと単純な川筋になるはずだ。ところが、本田さんの描く水路は、開けた渓谷のあちこちを、いわくありげにあちこち曲がっている。

どんな分野でも、よき先達は、はじめからすべての手がかりを与えたりしないものだ。なぜなら、人は、わからないからこそわからないなりの旅支度を調え、つい旅に出てしまうのであって、あらかじめこうだとわかっているところにわざわざ行こうという気にはならないものだ。おそらく本田さんはすでに、その屈曲の根拠となる手がかりを、実際に歩いたり資料にあたることで押さえておられるのだろう。しかしそれが何かは、あえて書いておられない。そして、現場を当たるか、何らかの資料に当たると、ただ答えがわかるだけでなく、何か楽しいことが待っているのだ。まだそれが何かはわからない。わからないが、それはわたしが旅に出る理由になる。

わたしはまず手始めに、「神楽坂上」から折れ曲がる水路をたどることにした。

(3/23/20)

 

本田創・高山英男・吉村生・三土たつお著
『はじめての暗渠散歩──水のない水辺をあるく』
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