「かけそばを食った」
かけそばを食った。
東京の、醤油色の汁の、胸ヤケしそうなあのそばを、たいらげてしまった。
ずっと関西育ちで、二十歳過ぎの頃、こわいもの見たさ味わいたさで東京の駅そばを食べてみたら案の定まったくダメで、別の店で天丼を食ったら、あの油まみれの衣にさらに濃い醤油味のタレがかかっているのにも閉口して、同じ人類なのにこんなものどもを旨いといって食う連中の気が知れず、以来、東京の醤油ダシや天ぷらを避けるように暮らしてきたのだが、先日、昼を食べ損ねた折、おやつどきに半ばヤケで立ち食いそばに入り、券売機の前に立ち、せめて「かけそば」にしておけばいいのに、「かき揚げそば」のボタンを押してしまい、人はこんなときどうして違和をつり上げるようなことをするのだろう、と考えるうちに、早くもカウンタにどんぶりが置かれ、そこには、まごうことなき醤油色の汁、その汁が、にんじんの赤やら透けたたまねぎやらが文字通りかき集められた揚げ物のスキマをひたすのを、見たんです。それでぼくも意を決してかき揚げを箸で割り、衣にたっぷりと汁を集めて、汁を集めて、青空も醤油色ももうどうにでもなれとどんぶりを掲げて口にかき込むと、あれ? 食える。食えるどころか、これは知っている味だ。こういうそばは久しぶりなのに、もう幾度か食ってきたかのような親しみが立ち上がってくる。空腹は無防備に胃に落ちてくるものを受け入れている。あっけなくずるずるとそばが体に流れ込み、気づいたらどんぶりは空になっていた。
どうしたことだろう。わたしは腹が空きすぎてどうかしてしまったのだろうか。いや、いくら空腹だろうと、あの醤油汁をかほどまでに抵抗なく受け入れるなど、以前のわたしではありえなかった。
これは、体が東京の味に慣れてしまったということではないだろうか。
そういえば、定食屋で、学食で、ちょっとした煮付けだの汁物だのを、最初の頃は醤油くさくて塩がきつい(関西弁では「しょっぱい」とは言わない)と思っていたのに、まあこんなものかと諦め半分で食べているうちに、この頃はさほど気にもならなくなっていた。その、少しずつの積み重ねが、いつしか東京のそばの、あのどうしようもない醤油色の高みにまで、わたしを連れてきていたのではないか。
外メシだけではない。料理を作るときに塩をつまむ指も、醤油の小瓶を傾ける手首も、心なしか身振りが大胆になっている気がする。体があらゆるやり方で、醤油と塩に無防備になっている。このままでよいのか。よいとは、思えない。思えないと思う程度には、わたしはまだ東京に違和を感じている。
(1/25/20)