「花さらい」

 

東京に来たらいきなり仕事場が十一階になった。

滋賀に住んでいた時は、土地自体がずいぶん平べったかったし、勤務地は高くても三階までだったので、階段で上り下りすることがあっても、エレベーターを日常的に使うということはなかった。 だいいち、仕事場のエレベーターには「節電のためなるべく階段をご利用下さい」と張り紙がしてあったのだった。

ところが今は、エレベーターに乗らなくてはどうにもならない。

地面から遠いと、やけに足元がふわふわして、なんとなく拠り所がない。花を摘んでくることにした。卓上に地面を感じさせてくれればよい、勤め先の裏庭に生えている、園芸用ではない、手入れの行き届かない場所で群れている花を摘んでみた。滋賀ではみかけない紫色。さっそくネットで調べると、オオアラセイトウ、という名前らしい。長たらしいから俳人には好まれないだろうと思ったが、歳時記をよく読むと、諸葛菜という名前でいくつも句が詠まれている。

 

 病室にむらさき充てり諸葛菜 石田波郷

 

さてその水につけた諸葛菜は二日するとあっけなく散っていた。石田波郷は、諸葛菜がかくもあっけなく散ることまで先の句に詠み込んでいたのだろうか。引っ越したばかりでまだ汚れのない白いテーブルに、ちぢれた花びらと雄しべが落ちていた。

なるほど、雌しべは散らないものだな。

当たり前のことに感心してから、どうも気持ちにちくりとするものがあった。 以前も、いわゆる野草だとか雑草だとか言われるものには、興味があって、ホトケノザだのオランダミミナグサだの、ありふれた花を摘んできて、しばらく飾って、花が落ちて実になるまでを楽しんでいたのだが、十一階に持って帰ってその花が散ってみると、以前には考えたことのない罪悪感がわいてきた。気まぐれに、花の生活を、地面から遠いところへ、連れてきたけれど、これは人さらいならぬ、花さらいではないか。

とはいえ、罪悪感はあくまでちくりで、それくらいのちくりなら花を抜くときにとっくにやり過ごしてきた。結局今日も花を摘む。花を持ってエレベーターに乗ると、中は静かで、静かなのにぐんぐん上まで行くので、茎はこの直方体の床を突き抜け、ワイヤーのようにするする伸びて、地上十一階に達するように思われる。扉が開き、エレベーターに生えたその高層の植物を引き抜き、エレベーターを降りて、ただの小さな草にする。部屋に戻って小瓶に活けると、足下に地面の感触が少し戻ってきた気がする。

(6/6/19)